最終話
俺にとっての忘れたい記憶は、真央にとっての忘れたくない思い出だった。
手を、アルバムを、ピックを抱く。叫び声のような嗚咽が喉から漏れる。それに続いて、大量の涙が、後から後から溢れてくる。
ぽつ、ぽつ、雨は次第に強くなり、すぐさま大降りになる。
誰もいない橋の上で、雨に打ち付けられながら、コンクリートの上にうずくまる。雨音に紛れて、声を上げて、ただひたすらに泣いた。
家への帰り道、気づけば雨は弱まっていた。風はぴたりとやみ、あたりは静まり返っていた。
ギターは、流れてしまった。もうどこにあるかわからないし、取りに行くこともできない。
でも、もうやめよう。過去に目を背けるのは。
今の自分じゃなく、今までの自分で生きていこう。そう思うと、ひとりでもひとりじゃない気がした。
あのギターは、そのことを教えてくれた。だから、ギターにはすごく申し訳ないけれど、俺は、たぶんもう平気だ。
――選んだなら、振り切ってよ。振り切れないなら――
向き合おう。音楽と、向き合っていこう。
せっかく音楽と出会えた。そのおかげで、真桜に出会えた。
だからもう、音楽からは目を背けない。
またあの日々のように、もう一度、真桜のための音を奏でたい。
でも、その前にもっと大事なことがある。
謝りに行かなきゃ。まだ俺を愛してくれているうちに、探さなきゃ。許してくれるかな、俺のこと。もう、家に、帰ってるかなあ。
一緒に、音楽したいな。ピアノを弾く真桜とセッション出来たらいいな。でも、「一緒に音楽しよう」なんて急に言ったら絶対、怪訝そうな目で俺のこと見るだろう。真桜の弾く音って、どんな音なんだろう。そういえば俺、聴いたことなかった。こんなに長く一緒にいるのに、一度も。幼稚園ではたくさんの子どもたちの前で弾いているんだろうか。その姿を、見てみたい。真桜が緊張しないように、俺も後ろの方で見てるから。
何を弾くんだろう。あ、何か言っていたな。たしか………あ、『ピアノソナタ』、ベートーヴェンだ。
ベートーヴェン。楽聖と呼ばれた、世界で最も優れた音楽家のうちの一人。
確か、耳が聞こえないんだっけ――
隠れていた三日月は、再び雲の隙間から姿を現していた。
信号の赤は、なかなか青に変わらない。
その向こう、街灯の下に、チェック柄の服を着た人影が見えた。
信号が、青に変わった。
ー完ー