エピソード24
―夜の裂け目―
風が止んでいる。
それだけのことなのに、今夜の静けさは、やけに胸にひっかかる。
僕は火のそばに座り、揺れる炎の輪郭をじっと見つめていた。
「……主様、今夜は風がありませんね」
後ろから、リリィの声がする。
穏やかで、どこか不安を隠したような声。
僕は振り返らずに、小さくうなずいた。
「虫の音も、今日は聞こえない」
そう告げた僕の言葉に、リリィはしばらく黙っていた。
やがて、そっと薪を足す音がして、炎がぱちりと弾ける。
「……こういう夜は、何か、夢を見そうです」
リリィの声は柔らかかった。
でもその語尾には、どこか“終わり”の予感が滲んでいた。
僕は目を閉じた。
静けさの奥に、得体の知れない気配が潜んでいる気がしてならなかった。
誰もが安心しきったように眠っているこの夜に、何かが起きそうだ、そう考えがよぎった。
遠くで風見鶏が軋む音がした。
けれど風はない。まるで、誰かが“呼吸”したかのような、妙な音だった。
リリィが戸口に立って、夜の村を見つめていた。
「……主様、祠の灯が……揺れています」
僕も立ち上がる。
遠く、祠の小さな灯火が、風もないのに大きく揺れていた。
まるで、なにかが、そこを“通った”かのように。
「……リリィ。今日は、外を歩くな。念のため、結界を強めておこう」
僕はそう告げると、部屋の奥に置いていた術具を取りに向かった。
その瞬間、胸の奥に、ひどく冷たいものが流れ込むような感覚が走った。
――何かが、来る。
それは直感というには鋭すぎて、確信というには曖昧だった。
でも、僕は確かに“それ”を感じ取っていた。
近づいている。
いや、すでに……どこかに“在る”。
そして数時間後。
村の鐘が、鋭く、破裂するように鳴り響く。
「魔物の大群が村へ向かっている!」
誰かの叫びが、夜明け前の空に突き刺さった。
――静寂は、裂けた。
ギルド支部の鐘が激しく打ち鳴らされ、眠っていた村人たちが慌ただしく外へと飛び出していく。
「確認された魔物の種類は?」
ギルドマスターが険しい顔で尋ねると、見張りに立っていた若い冒険者が、肩で息をしながら答えた。
「狼型魔獣、ブラックファングが数十体! それに混じって……オーガも複数確認されました!」
「ブラックファングに、オーガだと……!?」
レオンが驚愕の声を上げる。
ブラックファングは魔力を帯びた黒い狼型魔獣で、極めて獰猛だが、単独行動を好む性質のはずだった。
オーガといった低知能の魔物と群れるなど、通常では考えられない。
「森の腐敗の影響か……?」
ギルドマスターが低く唸るが、僕は首を横に振った。
「いや、これは……導かれている。自然の異変じゃない。意図的な襲撃だ」
ギルドマスターの顔が引き締まる。
「……深淵派の仕業か」
冥恩教団を村から追い出してから数日。
だが今、その沈黙が破られようとしている。
「……気をつけて、主様」
その言葉と共に、リリィの手が僕の袖をそっと握った。
その温もりだけが、今夜の現実をつなぎ止めてくれているようだった。
「父ちゃん……怖いよ……!」
怯える子供を父親は抱きしめた。
「エリス、村人たちの避難誘導を頼む!」
「わかりました!」
エリスは即座に動き出し、まだ混乱している村人たちを広場から避難路へと誘導していく。
「グルルル……!」
遠くの森の闇から、低く獰猛な唸り声が響く。
「来るぞ……!」
その瞬間、森の影から黒い獣たちが飛び出した。十を超えるブラックファングが、一斉に牙を剥いて突進してくる。
「迎え撃て!」
ギルドマスターの号令が飛び、冒険者たちが布陣を整える。
前衛の戦士たちが剣を構え、後衛の弓兵が矢を放つ。
しかし――
「速い!」
ブラックファングたちは、まるで訓練された兵のように動いた。
矢をかわし、隙のある剣士に襲いかかる。ひとりが腕を噛まれ地面に叩きつけられる。鋭い牙が喉元に迫る――
「氷鎖の縛め」
僕が呟くと、獣の足元から冷たい鎖が伸び、動きを封じた。
「今だ!」
すかさず仲間が剣を振るい、ブラックファングの首を斬り落とす。
だが戦いは、まだ始まったばかりだった。
「オオオオオオオ!」
咆哮と共に、次なる影、巨躯のオーガが現れる。
棍棒を振りかざし、村の柵を一撃で粉砕。
その勢いのまま、村の中へと踏み込もうとする。
「させるか……雷槍の嵐」
僕の手が天に向けられた瞬間、空に無数の雷槍が出現し、オーガの身体に突き刺さった。
「グォオオオ……!」
雷撃を受けたオーガが絶叫し、よろめきながら地面に崩れ落ちる。
「さすがだな、大魔法使い!」
ギルドマスターが叫ぶが、僕は前を見据えたまま答える。
「まだだ。あれを見ろ」
森の奥。そこから、何かが這い出してくる気配があった。
次の瞬間、異様な姿が姿を現した。
それは巨大な狼のような形をしていたが、体の半分が崩れかけ、黒い瘴気をまとう異物だった。
「腐食獣……!」
その腐敗した肉体からは、焦げた血と腐った獣臭が入り混じった匂いが漂っていた。
それだけで、膝が震えそうになるほどの圧。
その姿を見て、誰かが声を失った。
異様な存在感。普通の魔物とは明らかに違う。
「……これは、まさか……邪神の力……」
僕の背中を、寒気が走る。
体に纏うその瘴気が、僕と重なる何かを見ているような気がして、無意識に手が震えた。
あの瘴気に触れた瞬間、過去の記憶が微かに疼いた。まるで、自分の奥底にある何かが、それを懐かしむように共鳴していた。
けれど僕は引かない。それが僕自身の一部であると思えたから。
これはただの戦いではない。
――救済の儀式だ。
彼らにとっては、村人の命を主の御許へ“還す”ことが、救いであり、祝福なのだ。




