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エピソード20

―兆し―



 その夜、僕は深い眠りに落ちた。けれどそれは、ただの眠りではなかった。



 夢の中。あたり一面、漆黒の世界。空も地もなく、境界さえ曖昧な空間。



 そこに、それはいた。



 霧のように揺らぐ影。人の形をしているようで、していない。輪郭を捉えるたびに、どこかが崩れていく不定形の存在。



 そして、深紅の光がその中心に、ゆらりと瞬いていた。




「……また……この場所か……」



「ようやく……近づいてきたな。俺の欠けた半身」





 それは語る。だが、声ではなかった。

 響き。音ではなく、心の奥に刻まれる振動のようなもの。



 僕は言葉を失った。



 わかるはずがないのに、その言葉が、なぜか胸を締めつけた。



「忘れたか……記憶を分かち、名を忘れ、力を割ったのは――お前自身だ」



「……僕が……?」



「そうだ。強すぎたがゆえに、お前は自らを封じた。

 その果てに生まれたのが、この存在。名を――」



 その瞬間、世界が軋んだ。名を告げようとしたその時、激しい耳鳴りのような感覚が僕を襲い、頭の中に「……ア……」という断片だけが残った。





「…………聞こえない……」



 僕は言った。というより、思った。声は出なかった。けれど影には通じたらしい。



「当然だ。記憶が足りていない。今の君では、その名を支えきれない。

 だが、兆しは来ている。目覚めの時は、すぐそこまで」



「お前は……誰なんだ」



「俺は力だ。意志だ。影であり始まりであり……」



 影はゆっくりと僕に近づいた。



「――そして、君“そのもの”ではないが、君“でしかない”存在だ」





 足元が裂けた。闇の底が口を開き、僕を呑み込もうとする。



 けれどそれは恐怖ではなかった。どこか、懐かしさに近い感情だった。



「目覚めろ、器よ。再びひとつとなるその時まで――その名を思い出せ」




 その言葉と共に、目に熱が走る。まるで何かが刻まれるような、焼き付けられる感覚。





「――目覚めの、兆し……」





 影の姿が崩れ、溶けるように霧へと還る。その中で僕は、ひとつの断片だけを掴んだ。



「ア……=……ヴ……」



 はっきりとは聞こえなかった。けれど、どこかで知った名。



 今も舌の先に引っかかっているその音は、決して他人のものではなかった。



 ……いや、たった今、確かに僕の口がその名を呼ぼうとしていた。





 目を覚ました瞬間、僕は強烈な鼓動と共に飛び起きた。



 呼吸は荒く、汗がにじむ額に手を当てる。



(……夢……だったのか?)



 けれど



 目に、確かな熱が残っていた。



 まるで、何かが“戻ってきた”ような。



 胸に残るのは、熱か、恐れか、それとも――



 名前すら知らない、懐かしさだった。



 窓の外を見る。



 夜明け前の空が、異様なほど濃い紅に染まっていた。





「……朝焼けが赤すぎる日は、祈ってはいけない」





 ネストル村にも伝わる伝承が、脳裏をよぎった。



 そして、胸の奥に囁く声。





「目覚めよ、器よ」





 忘れていた何かが、今、確かに動き出していた。

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