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エピソード2

 リリィを迎え入れてから、数日が経った。最初のうちは、僕は何も変わらずに過ごしていた。



 魔法の研究に没頭することが多く、リリィにはただ食事や掃除を任せていたが、徐々にその生活は少しずつ変わり始めていた。



 リリィは、僕の指示通りに静かに家事をこなしていった。しかし、ふとリリィは磨いた皿を見つめる。



(何も考えたくない……なにも思い出したくない……)



 その仕草は何かをシャットアウトするかのようだ。



 食事の支度、掃除、洗濯……リリィはどれも手際よく、黙々とこなしていた。



 しかしリリィは時々、目を閉じて下を向くことがあった。その顔は良い感情を感じているとは思えなかった。



 最初はただの「便利な存在」としか思っていなかったが、次第それが当たり前の生活になっていった。





「リリィ、お前は家事をするのが得意なのか?」




 ある日の晩、食事を作りながら尋ねた。リリィは視線を落とし答えた。





「……得意ではありません。ただ、やるべきことをやるだけです」




 その声はどこか淡々としていた。僕はその声に寂しさを感じた。



 それでも、その日からリリィが食事のときにほんの少しだけ、こちらを見るようになった。



 何かを尋ねたいのか、それともただ間を測っているだけなのか。



 その視線を感じるたび、僕の心には小さなさざ波が立った。



 リリィが作ってくれた食事を運んでいたので、僕も食事を運ぶのを手伝う。





「……作ってくれてありがとな」





 僕が手を動かしたその瞬間、リリィは小さく肩を強張らせる。



 リリィに触れたわけでもないのに、彼女は少し身を引いた。





「……いや、そんなに警戒しなくてもいい」



 言葉を選びながら言うと、リリィはかすかに首を横に振った。



「すみません、……驚いただけです」





 その声は震えていた。反射のように反応してしまったような、そんな怯え方だった。



 それ以上何も言わず、静かに食事を食べ続けた。今日も、リリィは何の不満も言わず、黙々と家事をこなし続ける。



 僕は、ふとした瞬間にリリィの動きを観察してしまうことがあった。



 包丁の角度、拭き掃除の手の動き、茶碗の並べ方。すべてが正確で無駄がなかった。



 それは称賛すべきことのはずだったが、どこか「訓練された何か」を見ているような気がして、少し背筋が寒くなった。



 僕は時折、ちらりとリリィを見やることがあったが、すぐにまた自分の研究に戻ってしまう。



 魔力を制御するために、何度も書き直された魔法陣は、消したあと後が残りかすんでいた。



 研究がひと段落つき、本を閉じる。ふと横を向くと、リリィがコーヒーを持ってきてくれていた。





「暑いですので気をつけてください……」





 湯気の向こうで、気持ちがゆらいだ。



 あたたかいものを渡されたのに、僕の胸の内は混乱していた。



 笑顔がなくても、この静けさに救われている自分がいる。



 沈黙が続いた。けれど、その沈黙はどこか、心地よかった。張り詰めた糸が、ほんの少し緩んだような感覚。



 そう思った瞬間、リリィは微かに笑った。ほんの微かに。彼女が笑ったのは初めてだった。



 その瞬間、時間が止まったように感じた。


 いつものように無表情で、沈黙の中にいたはずのリリィが――ほんのわずかに、微笑んだ。



 それだけのことで、心が温かくなるなんて。そんな自分に、驚いていた。



(……笑顔、ただそれだけで心が温かい)



 「ありがとう」と言い、コーヒーを受け取り口に含む。コーヒーの苦みが口に広がる。



 素直に、嬉しかった。けれどその気持ちを言葉にするのは、少し照れくさかった。



 最近はリリィがやっていることに、少しずつ「頼りにしている」と思うようになっていた自分がいることに、気づかぬふりをしていた。



 ある日、僕はふとしたことから、リリィに言葉をかけることになった。





「お前、どこから来たんだ?」



 リリィは一瞬だけ手を止め、僕を見つめた。



「……私は、奴隷商から来ました」





 その声は絞り出したものだった。まるで言いたくないことを、無理やり言わされたかのように。



 リリィの顔が少し歪んだ気がする。目線が下を、向き息を呑む音が聞こえた。彼女の強く握られた手は震えている。



 リリィは握りしめた手をふと、ほどき、指先をこすり合わせた指先は白くなり、震えが残っている。



(……震えが止まらない……忘れたいのに、忘れられない)



 ──その微細な震えに、僕はなぜか昔感じた“別の気配”を思い出していた。



 リリィの答えはあまりにも簡単で、無感情だった。しかし、その奥には別の感情があったのかもしれない。





「その前は……貧しい家で、家族と暮らしていました……」



「そうか」





 僕は彼女の目を見つめた。リリィの目は閉じられていて、その瞳の色は隠されている。



 僕はそれ以上、何も聞けなかった。リリィの瞳はまるで、遠くの誰かに祈るような目だった。そこに僕の言葉が届く余地はなかった。



 小さく息をついて、再び自分の本を開きながら呟いた。


 僕は目を閉じ、拳に力が知らない間に入っていた。



(過去なんて知らなくても問題はない)



 無理やり自分を納得させ、息をつく。



 次の日、僕は気が向いて外に出ることになりリリィに話す。





「今日、僕はちょっと研究に出るから、家で待ってろ」





 リリィはうなずき、僕が出かける準備をしている間も、静かに掃除を続けていた。



 僕が外に出る時もリリィは、決して一緒に来ようとはしなかった。



 まるで、自分の存在が外に出てはいけないと決めつけているかのように。



 僕は一通りの準備を整えると、外に出た。少し遠くの森に行く用事があったからだ。



 外から帰ると、リリィは無言で家の中を片付けていた。





「どうだ、今日は」





 声をかけると、リリィは少しだけ肩を跳ね上げ、ゆっくり顔を上げて答える。





「何も問題はありませんでした。」





 リリィは視線を落とし、自分の手を見つめる。手は握られており、わずかに呼吸が浅いように見えた。表情は固く、唇を引き結ぶ。



 その言葉には、いくつかの気持ちが込められていたが、僕にはそのすべてを読み取ることができなかった。



 そして僕は驚いた。わずかな時を共に過ごし、その間のいつの間にかリリィを知ろうとしていたのだ。



 リリィが何に怯え、何に傷ついているのか、それが気になった。



(いなくなったら面倒だな……いや、そういうことじゃない。……たぶん、それだけじゃない)



 数カ月後、次第に村の周囲には、商人や農民、そして冒険者が少しずつ集まり始めていた。



 僕はそれを気にもせず、無関心に日々の研究を続けていた。



 村の子どもが駆けている。その様子から目をそらすように、僕は本に視線を落とした。



(あんな風に僕も笑えたら……)



 人と関わると誰かが傷つくかもしれない、研究に没頭する方が良い。



 僕の力が誰かをいつも傷つける。研究して自分の力をコントロールできるようになるまで、一人でいた方が気楽だ。でも……



 ふと、胸の奥がざらついた。



 一瞬フラッシュバックが脳裏をよぎる。



 村の子どもたちの笑い声が、風に運ばれてくる。僕は本を閉じ、胸元に手を当てた。



(……あのときも、声がしていた)



『私達の家が!』



『まてまて! 俺の子供がまだ家に!』



 あの時、自然から溢れる力が抑えきれなかった。崩れた家の中から助けられたのは……母親だけだった。



 僕が破壊したもの……それは自然以外の人工物。みんなが傷ついた。だから関わらない方が良い。



(もし次に暴走したら……リリィが……)



 いや、違う。



 大丈夫だ、リリィが隣にいてくれるから。



 僕は力が怖かったんじゃない、一人になることが怖かったんだ。



 そう考えていたら、知らない間に息が止まった。息を吸い直し、自分を落ち着ける。



 ふとリリィを見ると、窓の外を眺めている。



(笑ってくれるなら……)



 リリィは何となく村の変化に気づき始めていた。





「村が、変わり始めているみたいですね。あなたが思うより……ずっと前から」





 彼女の目は、まるで“誰かが見ている”ことを知っているかのようだった。



 リリィがぽつりと言った。彼女の目は未来を見ているかのように、珍しく前を向いている。



 僕はその言葉に無反応だったつもりだが、リリィが何かを感じ取っていることに少しだけ驚いた。





「そうか」





 僕はそれだけ言うと、再び自分の研究に戻った。しかし研究の途中にも、たびたびリリィを目で追っていた。



 リリィは、また静かに家事を続けながら思った。



(彼は、気づいていないのだろうか。自分がこの村を、少しずつ変えていることに。……私のことも、少しずつ)



 それでも、私は知っている。



 あの人は人を傷つけたくないと苦しみ続けた人だ。



 あの人がいつか、自分の力を信じられる日が来るなら――私はその隣で、笑っていよう。

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