エピソード16
―語り―
午前の陽光が村の広場を照らし、どこか清らかな風が通り抜けていく。昨日の不穏な空気を引きずりつつも、村人たちは自然と集まってきていた。
深淵派の啓示に胸をざわつかせた者も、そうでない者も、皆何かを求めるようにしていた。
そして、広場の中央。白いローブを身にまとった男――イオは、ひとり立っていた。
彼は特別な道具も使わず、声を張るでもなく、ただ静かに、村人たちを見渡した。
「皆さん」
その声は不思議と耳に届いた。風が止まり、世界がイオの言葉を待っているようにさえ思えた。
「私の名は、イオ。冥恩教団の中でも、“黎恩の翼”と呼ばれる穏健派に属しています」
何人かの村人が顔を見合わせる。冥恩教団という言葉に反応した者もいたが、イオの落ち着いた口調に、誰も声を上げなかった。
「私は、昨日この村に現れた、ザイルという男と、かつて志を共にしていた者です。けれど、私たちは今、異なる信仰の道を歩んでいます」
イオは一歩、踏み出す。
その動きすら、何かを壊さぬよう配慮された、慎重で丁寧なものだった。
「彼は言いました。腐敗は闇の前触れだ、救いのために従えと。……ですが、私はこう考えます」
イオの瞳が、村人一人ひとりを見据えるように、緩やかに動く。
「腐敗とは、再生の始まりです。恩寵とは、従属ではなく、赦しです」
ざわりと、空気が揺れる。
「恐れを煽り、強さを誇り、異端を糾弾する――それが信仰でしょうか?
違います。信仰とは、わからないことをわかろうとする力です。
痛みを抱える人に、隣で共に立つ勇気です」
言葉のひとつひとつが、心に染み込むように響いていく。
それは魔術でも呪文でもなく、ただ、彼の信念から紡がれた“祈りのかたち”だった。
「闇が近づくなら、それを拒むのではなく、照らす灯火になりましょう……。
私もかつて、救いを信じるあまり、大切なものを見失いかけたことがありました……
けれど、だからこそ今、皆さんと共に歩みたいのです
誰かが絶望の中で迷うなら、私は手を差し出せる者でありましょう。
そのために――私はここに来ました」
沈黙。
沈黙のなか、村人たちが互いの顔を見合い、視線だけで何かを確かめ合っていた。
だが、それは拒絶の沈黙ではなかった。
……その静けさは、受け入れの始まりだった。
やがて、年老いた農夫が帽子を取り、頭を下げた。
「……話を、聞かせてくれて、ありがとう」
少女、ラナがそっと母の手を握りしめながら言う。
「この人は、こわくないね……」
イオは、静かに微笑んだ。
村人の中には、なお疑いの眼差しを向ける者もいた。だが、それでも確かに、希望のようなものが、広場に芽吹いていた。
その光景を、遠くから見つめていた僕は思った。
(これが、信仰のもう一つの形か……)
すぐ傍でそれを聞いていたギルドマスターは、目を伏せたまま小さく息をついた。
「……穏やかだが、あれもまた、力のある言葉だな」
(ザイルの語る救いとは違う、もう一つの道)
イオの説教は、争いを呼ばなかった。ただ、心に小さな火を灯していった。
それは、闇に向き合うための静かな刃だった。