エピソード12.5
―繋がる影―
リリィが熱を出した。
急に冷えたせいか、それとも疲れがたまっていたのか。
呼吸は浅く、額に手を当てると、じっとりと熱が滲んでいた。
「薬草……あの人のところに行けば……」
僕は外套を羽織り、夜気の中へと出た。
足は勝手に動いていた。心のどこかで、あの家なら“何か”があると知っていたのかもしれない。
村の裏手、小さな坂の向こうに、苔むした屋根が見えてきた。
家の周囲に吊るされた薬草と、木の扉から漏れるほのかな灯り。扉を叩くと、すぐに応じる声があった。
「まあ……こんな時間に、ようこそ」
扉が開く。灯りの中から現れた老女が、少しだけ目を細めた。肩にかけられた布の縁は黄ばみ、ところどころ糸がほどけかけていた。それでも、言葉は消えずに残っていた。
「久しぶり、ですね。……ガエリア様」
その言葉のはずだった。確かに、そう聞こえた――はずだったのに。
けれど、“その音”だけが、どこか引っかかる。
意味を持たない、ただの風の響きのように感じられた。
「……僕を、知ってる?」
「ええ。子どもの頃に、父に連れられて――あなたに会ったんです。……昔のことですけどね。あなたは、ずっと黙ったままだった。まるで夢の中にいるようで」
小さな違和感が胸をかすめた。
草の匂い、陽だまりのような光、そして、小さな足音。
それは、はるか昔に霞んだ“記憶の気配”だった。
「うちの家系ではね、子が生まれるたびに、あなたに会いに行くのが習わしでした。……見守れ、と。影から、ただ静かに」
僕はそれを、理解していなかった。
でも――確かに、そんな影がずっとそばにいたような、気がする。
マリナは、薬草を壺に入れて火にかけながら、言葉を継いだ。
「私が聞いた話は、もう昔のこと。……祖父から父へ、父から私へ。……でも、詳しくは覚えていないんです。だって、子どもの頃に、何度も何度も聞かされただけですから」
「それでも……何か、覚えてるのか?」
「ええ……ほんの少し。『封印は終わりではない』……それと、あなたの中から、“誰か”が声をかけたって」
その“誰か”という響きに、胸の奥がきゅっと締まった。
言葉ではない“輪郭だけの名”が、どこか遠くでこちらを振り返った気がした。
呼びかけたい衝動があったが、今は名前すら喉に引っかかって出てこなかった。
「“俺は、封じられても、この世界を見ている”――そんな声だったと、聞いた気がします」
「……誰が?」
「それを聞いたのは、始祖様だけ。……でもね、あなたはそのとき、何も言わなかったけれど。何かが、あなたの中にも残ったのかもしれません」
火が薬草の壺を温めている音だけが、しばし空間を満たした。
マリナは、器に湯気の立つ薬を注ぎながら、静かに笑った。
「……その名前。今では、皆“エル”と呼ぶけれど。……本当は、違っていたんだろうなあって、思うんです」
僕は、返す言葉を持たなかった。
ただ、マリナの言葉と、あの名の“欠片”が、胸の奥に静かに残っていくのを感じていた。
―揺れる語り―
薬草を受け取ってからも、僕はしばらくその場を離れなかった。
リリィの熱は下がるかもしれない。
けれど、森の腐敗は……あれは、自然な病気なんかじゃない。
「マリナ……少し、聞いてもいいか?」
薪の火をくべていた手が止まる。
マリナは顔を上げ、少しだけ目を細めた。
「森のことかい?」
僕は頷いた。
「何か、思い当たることがあるんじゃないかと……昔のことでも、いい」
マリナは少し考え込むように、手を膝の上に重ねた。
部屋の片隅に吊るされた薬草が、風に揺れる。乾いた音が、どこか遠くの森のざわめきのように感じられた。
「……そうだねえ。あなたが来た時のあの風……昔も、あんな夜があった気がする」
彼女はゆっくりと語り出した。
「昔、うちの祖父がよく言ってたの。『森が濁るとき、眠れる目が薄く開く』って。……私は意味なんて、分からなかったけどね」
僕は黙って聞いていた。
マリナの言葉は、まるで古い紙をめくるように、ひとつずつ静かにめくられていった。
「こんな言葉もあった。……“声は、問わず、ただ見ておる”って」
「それは……」
「……うちに伝わる古い語り。昔の書きつけの断片みたいなものよ。もう誰も、全文は知らない。だけど、忘れないようにって、祖父が布に縫ってた」
彼女は棚から古びた布切れを取り出した。
そこには、かすれた刺繍の文字が、いくつか読める形で残されていた。
「“封は終わりに非ず。始まりのかたちにすぎぬ”……たぶん、これが最後の行ね」
僕はその文を、じっと見つめた。
意味を読み取ろうとする前に、どこか心の奥がざわついた。
「……この言葉、誰が残したんですか」
「さあねえ。始祖様のものって言われてたけど、確かじゃない。……でも、あの森の最奥に、昔“封じられたもの”があったって、祖父は言ってたわ」
僕の中に、どこか覚えのある、けれどはっきりとは掴めない感覚が広がる。
マリナは、もう火の手を止めていた。
ただ、僕の目を見つめるように、少しだけ低い声で言った。
「……その“目”が、まだ見ているのなら。あなたがここにいるのも、偶然じゃないのかもしれないね」
―揺れる記憶―
マリナの家を出ると、夜気がひやりと肌をなでた。
昼よりも風が強くなっていた。
森の方から流れてくる空気が、どこか湿っていて、焦げたような匂いが混じっている気がした。
“見ている”
その言葉が、頭の片隅に残っていた。
マリナが語った言い伝えの中にあった、ただの言葉。
……のはずだった。
歩くたびに、足元の草が擦れる音が妙に耳に残った。
暗がりの中、木々の隙間から何かの視線を感じる。
見られている――という確信ではない。
ただ、“誰かの気配”が自分のすぐ後ろにいるような、そんな感覚だけが離れなかった。
僕は、振り返らなかった。
けれど。
“この感覚を、知っている”
そう思ってしまったことに、自分で戸惑った。
森の空気。乾いた枝の音。
どこか懐かしい、でも思い出せない、薄い膜の向こう側。
呼ばれたわけじゃない。
けれど、声なき声が、どこかで響いていた気がした。
“封は終わりに非ず”――
その一節が、ふいに胸を刺した。
(……違う。あれは、ただの昔話だ。僕には関係ない)
そう言い聞かせようとした。けれど、心の奥のどこかが、否定しきれなかった。
……あの言葉に、懐かしさを感じた自分がいる。
まるで、自分でも知らない“誰か”の記憶が、ほんの一瞬、重なったかのように。
僕は、夜の道を足早に歩いた。
リリィとルナが待つあの家へ。
あの静けさだけは、まだ僕の中で崩れていなかった。
けれど
その静けさすら、いつまで守れるのかは分からなかった。