エピソード10
―静寂の兆し―
朝、僕は研究室の窓辺に座り、昨夜張った結界がしっかりと機能している様子を見つめていた。
空気は澄み、森の奥から聞こえていた不穏な咆哮は、昨夜以来もう消えていた。
森の結界の向こう側。あの気配は確かに引いた。けれど
“完全に消えた”わけではない。
そう確信できるほど、あの夜の咆哮は鮮明だった。
あの風はただの風だった。そう思おうとしても、背中に残った冷気だけが、ずっと消えなかった。
まるで、誰かに見られていたような感覚だけが、まだそこにあった。
村の広場では、冒険者や村人が、結界のおかげで一安心した笑顔を浮かべながら、今日の朝食の準備に励んでいる。
リリィは、いつものように朝食の支度をしながらも、どこか安堵した表情を見せる。
「主様、結界、うまくいっているみたいですね」
彼女の声は穏やかで、何かを期待するような柔らかさがあった。
僕は無関心を装いつつも、内心でほっとしていた。
(面倒だと思っていたのに、これで村の安全が守られるなら、多少の手間は仕方ないか……)
ただ、僕の心の奥では、これまでの「何も変わらない日常」が確かに少しだけ色づき始めているのを感じていた。
昼下がり、村の中央広場では、新たなギルド支部の設立を祝う小さな宴が開かれていた。
レオンやエリス、そして先ほどまでの緊迫した面持ちが嘘のように、笑い声や歓声が響いている。
冒険者たちは、これからの任務に胸を膨らませ、互いの健闘を誓い合っている。
その中で、僕はただ静かに、しかしどこか心の中で何かが変わりつつあることを感じていた。
「大魔法使い様、今日はどうですか?」
一人の若い冒険者が、少し期待を込めた声で僕に尋ねる。
「特に、変わったことは……ないかな」
僕はいつもの調子で返したつもりだった。けれど、胸の奥に、言葉の重みが少しだけ引っかかっていた。
リリィは、そんな僕の横で、ふと小さく微笑んでくれた。その笑顔に、僕は言葉では表現しにくい温かさを覚えた。
そして、ルナが静かに膝の上で丸くなりながらも、まるでこの村全体を見守るかのように、安心した様子で僕を見上げる。
(これも、何かの縁なのかもしれないな……)
夕暮れ時、村が一段と落ち着きを取り戻した頃、僕はふと、一人で村外れの森の方へ歩みを進めた。
結界のおかげで、昨夜の脅威は収まったが、森の奥からは、かすかな風の囁きの奥に、何かが蠢いているような気配があった。
僕は無意識に足を速めながらも、心のどこかで「また新たな何かが起こるのではないか」という予感が頭をよぎった。
森の入り口付近で、一陣の風が吹き、木の葉がざわめいた。風に混じって、まるで喉を鳴らすような低いうねりが、ほんの一瞬だけ耳をかすめた。
それは獣がする呼吸……いや、何かがこちらを“感じ取っている”ような音に思えた。
その瞬間、僕は何か、見えない力が村を試そうとしているような気がした。
しかし、すぐにその予感は霧散し、ただの風の音に過ぎないのかもしれない、と考え直した。
でも、どこかで感じたあの微かな不安は、決して消えることはなかった。
村に戻ると、ギルド支部の仲間たちが、また次の任務の準備を始めている。
新たな仲間たちの意気込みに、村全体が一層活気づいているのが分かる。
ギルドマスターも、昨日の厳しい顔からは見られなかった。どこか柔らかい表情で、冗談を交えながら皆に指示を出している。
僕はふと、自分の研究机に戻りながらも、心の中で呟いた。
(面倒くさいことは増えるかもしれない……だが、これもまた、村の未来の一部なのだろう)
そんな思いが、今の僕には少しだけ響いていた。
夜が更け、星空が広がる中、僕は一人、窓から遠くに広がる村の灯りを見つめた。
結界はしっかりと村を守っているし、新たな仲間たちが集まることで、この場所は確かに進化している。
リリィの微笑み、ルナの穏やかな存在、そして仲間たちの熱意……すべてが、これまでの孤高な日々を少しずつ変えていっているように感じる。
(これから、どんな面倒な出来事が待ち受けているのだろうか……)
しかし、その答えを知る前に、ただ今夜は、この静かな一瞬を、大切にしようと思った。
騒がしい明日が来る前に、今だけは、この静けさに身を委ねていいだろう。
そう思えるようになった自分に、少しだけ驚いていた。