エピソード9
ー脅威の影ー
朝の静寂は、昨夜の嵐のように突如として破られた。
いつも通り、僕は研究室で魔法書に没頭していたが、外からは村の騒然としたざわめきが聞こえてきた。
窓を開けると、商人たちの囁きと、村人たちが焦り気味に話し合う声が重なっていた。
「森の奥から、危険な魔獣が……」
「夜中に何度も奇妙な咆哮が聞こえたという話もある……」
その噂に、僕の心はわずかにざわついた。村が急速に発展し、ギルド支部も設立された今、外部からの影響は避けられないらしい。
もともと辺境にあったこの地に、人の手が加わると、森の静寂を乱す何かが現れるのは当然のような気もする。
ちょうどその時、ギルドマスターが部屋に入ってきた。彼は顔に険しい表情を浮かべ、僕に鋭い視線を向ける。
「大魔法使い、お前に頼みたいことがある」
彼の声は重く、緊迫した空気をまとっていた。
「またか……」
僕は面倒くさそうに足を組みながら答える。
「何だ、今回は?」
ギルドマスターは一呼吸おいて、説明を始めた。
「村の発展と共に、森の奥から魔獣が頻繁に来ている。村人たちが安全を訴えているのだ。
お前の力で、せめて森の入り口に強力な結界を張って、被害を未然に防いでくれ」
僕は一瞬、ため息をついた。
「……子どもたちが怯えてるんだ。あんな顔は、二度と見たくない」
「面倒だな……でも、研究のついでなら、結界魔法くらいは組めるだろう」
ギルドマスターは、僕の答えを聞いて、厳しくうなずいた。
「頼むぞ。お前ならあっという間に解決できると信じている」
その言葉には、期待と共に責任がのしかかる重みがあった。
部屋を出ると、村の広場にはすでに緊張感が漂っていた。
冒険者や新たに集まった仲間たちが、森の方を警戒しながら見守っている。
レオンは鋭い眼差しで森の奥を見つめ、エリスはやさしく村人たちに声をかけながら、不安を和らげようとしていた。
僕は静かに森の入り口へと向かった。手には、結界魔法の呪文が記された古びたスクロールを握っている。
森は薄暗く、不気味な静寂が支配していたが、僕はただ、結界の準備を進めるしかなかった。
広場に集まった村人の一人が、近づいてきて、声を震わせながら訴えた。
「大魔法使い様、昨夜は子供たちが逃げ惑うほどの咆哮が……」
僕はその言葉に、心のどこかで少しだけ責任を感じる。
「わかった。すぐに対策を講じる」
「面倒だな……」
呟いた声とは裏腹に、指先はもう、結界を描く準備を始めていた。
心が拒んでいても、身体が先に動いてしまう――その理由は、もう分かっている。
森の入口に立ち、僕は深呼吸をしてから、結界の魔法陣を描き始めた。
指先から放たれる淡い光が、地面に複雑な模様を浮かび上がらせる。
呪文の言葉が口から零れるたびに空気が震え、結界が徐々にその力を蓄えていくのを感じた。
まるで大地が呼吸し、森と村との境界線を定めるかのように。
しばらくすると、周囲の空気が一変した。まるで、森そのものが静まり返り、侵入しようとする魔獣の気配を拒むかのような、強固な防壁が完成した。
光の筋が地を走り、空気が張り詰める。
その瞬間、大地が“守る意志”を持ったように、森の気配が一歩引いた。
――結界が、生きているかのようだった。
その瞬間、僕はほんの少しだけ、安心感を覚えた。
「これで、村はしばらく安全だろう」
そう呟きながら、僕は森を見つめた。遠くで、かすかに野生の咆哮が聞こえる。
森の奥から、確かに何かが目覚めていた。
ただの咆哮ではない――それは、境界を越えようとする“意思”の音だった。
その音には、どこか知性めいた気配があった。咆哮の尾に、何か……言葉のような、意味を持つ音節が混じっていた気がした。
それは風に紛れるには、あまりにも明確だった。
まるで、こちらを試すかのようだった。
……風のせいか、僕の聞き間違いか。だが――
もしそれが言葉なら、これはただの魔獣では済まされない。
結界がそれを抑え込むように、空気は再び静寂に包まれた。
風が一度、村の方へと吹き抜けた。まるで「ここまでだ」と囁くように。
帰路につくと、村の広場にはほっとした表情の村人たちと、安堵の笑みを浮かべる仲間たちがいた。
ギルドマスターも、どこか満足げに頷いていた。
「よくやった、大魔法使い」
満足そうに笑う彼の声が、どこか遠く感じた。
その言葉に、僕は重い責任を感じながらも、内心で「面倒だな……」と呟いた。
しかし、これもまた、村と仲間たちの未来のための一歩であると、少しだけ実感する瞬間でもあった。
たとえ面倒でも、また僕は動くだろう。
それが、守るべきものに触れてしまった者の宿命だとしたら
僕はすでに、その渦の中にいるのかもしれない。