第3話
「ありがとうございます」
紅茶って美味しい飲み物だったんだなぁ。
湯気の立ち昇る紅茶を注がれながら、諒はそんなことを思う。だがそれは、決して現実を受け入れることが出来たからでは無い。戻らない記憶ではなく、新しく得た経験へと目を向けるようにしなければ、心が不安でどうにかなってしまいそうだったからだ。
「じゃあ、私が知っていることを話そうか」
リーリス。そう名乗った女性は、きっと自分以上に『諒』という人間について知っている。だから、彼女の話を聞けば思い出せることがあるかもしれないなんて希望を抱いてしまう。そんな確証、ありはしないのに。
必死に前を向こうとする自分と立ち直れない自分の板挟みにあいながら、青年は彼女の言葉へ耳を傾けた。
「君の名前は諒で、誕生日はたしか7月16日……だったかな?」
「誕生日…………」
彼女の言葉が合っているのなら、十数年前の7月16日、自分の人生が始まったはずだ。父さんと母さんは、いろんな想いを込めて『諒』という名前を付けてくれたのだろう。……だけど、その意味を知ることが出来る日は、きっと来ない。
「…………」
僕たちは仲の良い家族だったかな?心配をかけてしまうことも、喧嘩をしてしまったこともあったと思う。それでも、正面から向き合って、話し合って、分かり合えていたらいいな。
自分は何も思い出せない。想像しているような関係ではなかったかもしれない。それでも、きっと、自分にとってかけがえのない存在だったのだと思う。
そうじゃなかったら、こんなにも、…………こんなにも胸が苦しくなる理由がわからない。
「……ごめんなさい」
「君が謝る必要なんて無いんだ。君は私のせいで記憶を失い、ここに居る。記憶を取り戻す助けになるのなら、私はいつまでも待つよ」
その言葉に甘えてしまいそうになる気持ちを抑え、青年は目元を軽く擦り、前を向きなおす。大切な思い出を取り戻す為にも、彼女の話を聞かなくてはならない。
「続きを、お願いします」
「あとは……そうだね。君の記憶につながりそうなものか…………あっ」
瞳を閉じて考え込んでいた彼女から、不意に呟くような声が零れる。
「何か気付いたんですか?」
「いや……うーん…………」
何かに気付いた様子のリーリスは暫く自問した後に、不安そうな顔で口を開く。
「港は好きかい?」
「港……ですか?」
港というものを想像することは出来る。船が停まっている場所だ。
だが、『リョウ』という言葉を聞いたときのような引っ掛かりは覚えない。それに、どちらかと言えば港よりも海とか砂浜の方が好きだと思う。
「しっくり来ない………よね?」
「そう、ですね」
「……思っていたよりも、私は君について知らなかったらしい。力になれなくて、ごめん」
彼女の言葉を聞いた青年の中に、ある疑問が生まれる。いや、これは突如として生まれたものではない。ずっと思っていたが、聞くことが出来ずにいた問いだ。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「ああ!もちろんだよ」
申し訳なさそうに俯いていたリーリスは煌めく瞳を青年へ向け、自信に満ちた様子で答える。
「どうして、リーリスさんは僕のことを知っているんですか?」
「っ!それは…………言えない」
彼女なら、きっと答えてくれるだろう。そう思っていた青年に告げられた返答は、予想外の拒絶だった。
「………………」
二人の間に長い沈黙が生まれる。誰も望まない重苦しい沈黙は、どちらかが折れるまで続くのだろう。だが、それを彼女に強いることは出来そうにない。どうすれば口を開いてくれるのか、自分には分からなかったから。
……どうして、リーリスさんは答えてくれないのだろう。
せっかくの時間を無為に過ごすのは惜しい。だから、考えてみよう。記憶を取り戻す助けになると言ってくれた彼女が、どうして口をつぐんでしまったのかを。
例えば、話したら困ることがあるとか?いや、何に困るのか想像できない。
じゃあ、誰かから口止めされている?……そもそも、彼女以外の人と会ったことが無かった。
「…………!」
話せない理由を見つける為に今までのことを回想していた青年は、とても大切なことに気が付く。……いや、これを知っても自分の記憶を取り戻すということの役には立たないだろう。それでも、自分がこの場所に居る理由、その根幹を為すものであるのは確かだ。
「他のことを聞きますね」
「ありがとう……助かるよ……」
心の底から安堵したように、リーリスはふっと息を吐いた。
――これからする質問を聞いたら、彼女の顔は曇ってしまうだろうか?
そんなことを考えると、胸がズキズキと痛む。人を傷付けてしまうのは……嫌だ。
だが、聞かずに先へ進むことは出来ない。
覚悟を決め、諒はもう一度リーリスへと問い掛ける。
「魔術を発動させるには『願い』が必要なんですよね?」
「……?ああ、そうだよ」
きっと、彼女には質問の意図が分からなかったと思う。どうして今さら魔術のことを聞くのか、その理由を見つけるのは不可能に近しいはずだから。
青年の考えを証明するかのように、女性の表情は安堵から戸惑いへと移り変わっていく。
「僕をこの世界に呼んだとき、貴方は何を願ったんですか?」
「!…………」
目を伏せてしまった彼女に、青年は言葉を続ける。これ以上、無意味な沈黙を重ねてしまわないように。
「……また、教えてくれないんですか?」
「うっ…………」
……なんて酷い言い方だろうか。
そもそも、彼女には自分を助ける義務なんて無いんだ。目を覚ましたとき、自分は何も知らなかった。嘘をついて騙すことも、素知らぬ顔で追い出すことも簡単だったと思う。
けれど、彼女はこの場所が『異世界』であり、自分がここに居る原因は彼女自身なのだと教えてくれた。それはきっと、記憶を失った自分に対して誠実であろうとしてくれたからだ。
なら、問いに答えてくれなかったことには理由がある。そう分かっているのに、胸につかえる疑問を無視することは出来なかった。
「……君の力になると、誓ったものね」
湯気の消えた紅茶から視線を上げ、リーリスは青年へと薄緑の瞳を向ける。
「私が何を願ったのか、それを教えることは出来ない。だけど、その理由を伝えることは出来る……それでも、いいかな?」
「もちろんです!」
「こんなことを言う資格、私には無いけれど……君は一人の人間で、望む未来へと歩む自由を持っている。何を為し、何を選択するかを強いられるべきじゃないんだ」
「願いが何であるかを知ったら君は、きっと悩み苦しむことになる。私の願いは、君の未来を縛る枷以外の何物でもないんだよ」