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第1話

 グツグツと何かが沸騰するような音で、青年は目を覚ます。いつの間に寝てしまったのだろうと不思議に思うが、寝起きで霞がかった頭では何も考えることが出来ない。


 瞳を閉じたまま毛布の中でしばらくぼーっとしていると、今度は落ち着いた良い香りが漂ってきた。嗅いだことはある気がするけれど、それが何の匂いかまでは分らない。


 ……そうか、これは紅茶の香りだ。


 紅茶なんて何年ぶりだろう?そう思い記憶を辿るが、何一つとして思い出せることがない。

 そもそも、眠る前に何をしていた?自分は何処にいた?

 どれだけ頭の中に問いを浮かべても、その答えを見つけ出すことが出来ない。そのことがとても恐ろしくて、青年は微睡む思考を余所に体を起こす。


「………………」


 横になっていた長椅子に腰を掛け、視界に飛び込んできたものは、齢十八に満たない青年の思考を停止させるには余りあるものだった。


 煉瓦造りの壁に木の柱、そして窓から見える鬱蒼とした針葉樹の森。画面の中でしか見たことがないようなそれらの光景は、青年に非現実的とすら思わせた。だが、未だに漂う紅茶の香りも、肌に触れる少し冷たい空気も、何もかもが現実であることを証明している。


「おや、目を覚ましていたんだね」


 茫然としていた青年は突然の声に驚き、体を硬直させる。自分以外にも人が居たことを喜べばいいのか、恐怖すればいいのか。そんなことすら分からない程に混乱した思考は、青年に何かしらの行動を起こさせることなんて出来なかった。


「……?」


 反応も返事も無く固まるだけの青年を怪訝に思ったのか、声の主は次第に青年へと近づいて行く。気配が近づいて来るにつれ、混乱した青年の思考は、より確かな恐怖に塗りつぶされていった。


 声の主が自分をここに連れて来た犯人で、自分は殺されてしまうのかもしれない。


 そういった悲観的な考えが、青年の思考を支配したのだ。

 だが、そんな不確かな恐怖は新たな感情によって直ぐに上書きされてしまった。


「大丈夫かい?」


 動けない自分を覗き込んだその女性は、現実離れしたこの空間が霞んでしまう程に、異質だった。


 これを純白と呼ぶのだと一目で理解出来る程に一点の曇りなく透き通った長い髪に、色素の薄い肌。そして、こちらを少し心配そうに見つめる透明に近い薄緑の瞳。きっと、美しい人なのだろう。そう思うのに、青年の心を占めたのは綺麗だと思う感情ではなく、不思議や困惑に近しいものだった。そう思ってしまったのは、彼女の姿があまりにも空想的に見えたからかもしれない。


「…………」


 困惑する青年と女性の間に、僅かな沈黙が生まれる。

 その沈黙に何を思ったのだろう。つい先ほどまでこちらを見つめていた薄緑の瞳は曇り、その表情は悲しみを噛み締めているかのように、段々と暗いものへと変わっていった。


「……君は、自分の事を思い出せない。違うかい?」

「っ!どうして……ゴホッ!ゴホッ!」


 何故そのことを知っているのか問おうと声を出した瞬間、青年は自らの喉が尋常ではない程に乾いていることに気付く。どうして気付かなかったのだろうとも思うが、止まらない咳に思考を乱され、答えを出すことはできなかった。


「大丈夫⁉……これを飲んで!」


 突然の咳に慌てた様子の女性は辺りを見渡すと、机の上に置かれていた紅茶を青年に差し出した。


「熱いから落ち着いて……」


「ゴクッ……ゴクッ……」

 青年は紅茶を受け取ると、女性の助言を待たずに喉へと流し込む。湯気が立ち上る紅茶はたしかに熱そうだったが、それよりも乾いた喉を潤せる喜びの方が大きかったのだ。

 

 

 暖かいものを飲んで落ち着いた青年は、ようやく自らの状況を少しだけ客観的に見られるようになった。

 今の自分に分かること。それはこの女性が何かを知っていて、たぶん悪い人ではない。ということだけだ。


「落ち着いたかな?」

「はい……お茶、ありがとうございました」


 椅子に腰掛け自分を待っていてくれた女性に、青年は感謝を口にする。もはや、この女性が悪い人かもしれないなんて想像は青年の中から消え去っていた。


「ああ、いいんだ。私が君にしてあげられることなんて、これくらいしか無いから」


 そう言って微笑を浮かべる彼女に青年は、先ほどの出会いとはまるで別人かのように親しみやすい印象を受ける。それは、彼女の人となりをほんの少しでも知った気になっているからだろうか?


「……君にはきっと、聞きたいことがたくさんあると思う」


 微笑みを消した彼女の声音は真剣そのもので、これから自分が知りたかったことを教えてくれるのだと青年に確信させた。


「私に答えることが出来る、その全てに答えるよ」


  

 

「君はまず、何から聞きたいかな?」


 際限なく積み上がった疑問の山をついに消化できること、それ自体は嬉しい。だが、聞きたいことが多すぎて何から聞けばいいのか迷ってしまう。

 しばらく考えたのち、青年は最初に感じた疑問から聞いていくことにした。


「……ここは何処なんですか?」

「ここは私の家だよ。……だけど、君にとっては『異世界』というべき場所だ」

「…………え?」


 女性の口から出た『異世界』という言葉を理解することは出来る。聞き馴染みがないという訳でもない。ただ、彼女の言う『異世界』というものと目の前に広がる光景が嚙み合わなかった。


 たしかに、正面に座っている女性はとても綺麗な人だとは思う。だけど、耳は尖っていないし、体中が毛皮に覆われてもいない。少なくとも外見は人間だ。煉瓦造りの壁も、針葉樹の森も、自分には珍しいというだけで有り得ないものではない。


 この場所は現実というには空想的で、異世界というには現実的過ぎるように思えた。


「突然ここは『異世界』だと言われても信じられないよね…………そうだ、君の世界には無いものがあったよ」


 彼女はそう言うと、右手の人差し指を上に向けた。

 天井に何かあるのかと視線を上げるが、木製の梁と天井板が見えるだけで目新しいものは特にない。


「……うわぁっ⁉」


 視線を正面へと戻した瞬間、女性の指先から燃え上がる火球が出現した。

 突然の熱さと視界を覆うほどの火に、青年は椅子から落ちてしまいそうになるほど驚く。だが、あれほど大きかった火は、次の瞬間にはもう消え去っていた。


「はぁ……はぁ…………」

「ごめんね。そんなに驚くとは思わなかったんだ」


 何が起こったのか分からないまま乱れた呼吸を整える青年を、女性は心配そうな、けれど、どこか面白がっているような顔で見つめる。


「今のは……?」

「いま私が見せたのは『魔術』と呼ばれるものだよ。これはたしか、君の世界には無かったよね?」


 たしかに、彼女が火の玉を出したとき何か仕掛けがあるようには見えなかった。それに、火球というのは『魔術』という言葉から連想するものに近しいとも思う。


「本当にここは違う世界…………」


 そう思うと、不意に心細いような、寂しいような感情が込み上げてきた。家族も、友達も、頼れる人も居ない世界で生きていかなければいけないという避け得ない現実が、青年に圧し掛かったのだ。


 だが、そんな感情と共に湧き上がってきた疑問があった。


「ここが貴方の言うように『異世界』なのなら、どうして……どうして僕はこの世界に居るんですか⁉」


 ただの高校生であった自分がどうして『異世界』なんかに居るのか。その理由を、きっとこの人は知っている。


「それは…………」


 その質問に女性は少し俯き、言い淀む。だが、その反応は青年に何かを知っているのだと、より強く確信させただけだった。


「教えてください!お願いします!」


 青年の気迫に折れたのか、それとも覚悟を決めたのか。俯いていた女性は瞳を閉じ、少しだけ大きく呼吸をすると、その薄緑の瞳を青年に向け、口を開く。



「君がこの世界に来たのは…………私が願ってしまったからなんだ」

 

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