18.空気が変わった
(彼は魔力の量は少なく、魔術の使い方は稚拙だわ)
魔術の授業では、いつも居眠りをこいているギルバートの姿を見ていたクロエは、彼が魔法関係は不得手なのを知っていた。
(しかし、地面をひび割れさせるなんて、力は一級品ね)
飛び退いた姿のまま、クロエは逡巡する。
土埃でゆらめく大気の中、大きな体の彼がゆらりと一歩前に出るのが見えた。
「あと何回避けれるかな、お嬢さまよぉ!」
また素早く距離を詰めてきた。
(そして動きが速い。肉食獣の捕食のスピードね……!)
彼の拳を避けるため、足に魔力を貯めジェット噴射の如く飛び退く。
地面は裂け粉塵が上がる。
拳が振り下ろされる、瞬時に避ける、また拳が来る。
コンマ1秒の戦闘だが、的確に相手の動きを読みながらクロエはギリギリでかわしていく。
しかし一瞬、拳の軌道が変わったのが目線の先に見えた。
「―――――!」
クロエは声にならない声をあげて首を上に向け逸らした。
チッ、と頬に痛みが走る。
拳を振るっていたギルバートが、フェイントをかけて今度は自慢の鉤爪を剥き出し、右から左へ切り裂こうとしてきたのだ。
クロエの左頬から、一筋の血が流れる。
右手の爪から滴る血を眺めながら、ギルバートは肩で息をするクロエを眺める。
「殴り潰し、掻っ捌き、喰らいつく……それが俺たちの戦い方だ」
武器も魔力も使わないと豪語した彼は、自分の「力」に絶対的な自信を持っているようだった。
自身の爪についたクロエの鮮血をベロリと舐めると、
「逃げてばっかじゃ勝てねぇぜ、お嬢様」
牙を見せつけて不敵に笑った。
そこからは一方的なギルバートの交戦だった。
中庭を走り、一気に距離を詰め、拳を叩き込む。
地面は割れ土埃が舞うが、間一髪で避けたクロエが上体を守りながら飛び退く。
叩き込む、避ける、叩き込む、避ける。幾度ものそれの繰り返しだ。
側から見ている観客たちからしたら、圧倒的にギルバートが優勢に見える。
「ねえまずいよ誰か止めなきゃ。このままじゃクロエちゃんが大怪我しちゃう…!」
ローランが顔を歪めて、見てられないと言わんばかりに二人の決闘を見ている。
しかし魔力は多いが、物理攻撃にめっぽう弱いピクシーとしては、二人の間に入って止めるのは、万が一ギルバートの拳を受けたらひとたまりでもないと尻込みしているようだった。
レヴィンは眼鏡を押し上げ、すごい速度て繰り広げられる二人の攻防を見ながら、悟った。
(彼女はまだ、本気を出していない)
逃げているのではない。力を発揮するタイミングを見計らっているのだと。
ギルバートの拳の応酬をすんでのところで避けながら、クロエの瞳はギルバートの隙を押し計っているように思えたからだ。
第三者が止めに入るにはまだ早いと、レヴィンはローランの嘆きに首を振る。
ドォン、と地響きが学園中に響き渡る。
とびきり激しい拳の一髪が、中庭の中央を抉り取った振動だ。
ビリビリと耳鳴りがして、大きな岩が空中に飛び交う。
目を半分瞑りながらクロエが避けようとしたが、岩の影に隠れたギルバートが瞬間的に近づいてきた。
間近に迫ったギルバートの一撃を、間一髪避けるクロエ。
咆哮のような雄叫びを上げながら、ギルバートは楽しげに語る。
「俺はよォ、尊敬してるんだぜ。魔王様のことは心から」
この学園の創始者であり、魔界に住む悪魔たちの羨望の元である、魔王ヴィンス。
「十年前のゴルゴーンの森の戦いで、人間たちをたった一人で殲滅したんだってんだからな」
拳を握ったまま、不敵に笑う。
しかしクロエは、「ゴルゴーンの森の戦い」という言葉を聞いた途端、その綺麗な顔から一切の表情を消した。
引っ掻き傷を負い、頬から垂れる血をゆっくりと親指で拭った後、無表情でギルバートを見据える。
(なんだ……空気が変わった……?)
二人の戦いを目で追うのが精一杯だったレヴィンが、対峙するクロエの表情を見て、ピリつく空気をいち早く感じ取った。
「不意打ちの襲撃にも関わらず、一人で何百人もの人間を倒して、英雄扱いされて魔王と呼ばれるようになったんだってな。でも何人か生きて帰しちまったんだろ?」
朗々と語るギルバートを、クロエは少し俯き、無表情で見つめている。
「俺なら、もっと上手くやる。
生き残りなんて残さないで人間を倒す。
今は俺は一生徒にすぎないが、いずれ魔王を超える魔界一の強者になる! 手始めにアンタを倒してな!」
鍛えられた腕、肉食獣の爪を尖らせ、ギルバートは渾身の一撃を叩き込むためにクロエへ肉薄した。
しかし、急に突風が吹き、ギルバートはその足を止めてしまった。