クローバーのくびかざり
あれは、土砂降りの雨の朝だった。
冬に逆戻りしたような寒い空気に包まれて、おいらたちはしまったばかりのストーブを引っ張り出して、朝から温かい紅茶をすすっていた。
外は凍り付くような冷たい雨だったけど。
おいらたちの素敵な巣穴は、びっくりするくらいにあたたかくて、乾いていて、快適だった。
おいらたちの郷は、もう何代もホビットたちの暮らした郷だったから、地面の下の家は、それぞれ、くねくねしたトンネルで繋がれていた。
なんなら、一度も地上に出ないで、郷中の家を回れるくらいだ。
地面の下にあるホビットの郷は、この上なく安全で、あたたかくて、快適な場所だった。
最初の異変はなんだったんだろう。
うちの敏感な従弟が、あれ?と言って、紅茶のカップから顔を上げたことだった、かもしれない。
「なんか、変な音、しない?」
その場には、もうひとりの従弟と、おいらの弟妹たち、それから、叔父さん叔母さん、父さん母さん、祖父ちゃん祖母ちゃん、あと、もろもろの郷の人たちがいた。
何人いたか、正確なところは覚えていない。
おいらたちは、いつも親戚一同集まっていたし、親戚じゃない人たちも、たいていよく集まっていたから。
その全員が、妙な音なんか聞かなかった、と証言した。
「・・・そっか。」
年下の従弟はそう言って、クッキーを一口齧った。
叔母さんのお得意の発酵バターのクッキー。
前もって生地をよく捏ねて、長く氷室でねかせてあった特別なご馳走。
外に出られないくらいひどい天候のときにだけ食べる、幸せの味だった。
最初に気づいたそのときに逃げていれば、もしかしたら全員無事に逃げ切れたのかもしれない。
後から何度そう悔いたことだろう。
けれども、突然の災難は、いつもこんなふうにやってくるものだ。
気が付いたとき、おいらたちの巣穴の出口は、やつらに塞がれていた。
やつらの狙いは食糧だ。
祖父ちゃんはそう言って、さっさと巣穴を放棄して逃げようとした。
ホビットの巣穴には、正面の出入口と、それとは反対側に、もうひとつ裏口がある。
オークたちに占拠されたのは正面の出入口のほうで、裏口のほうはまだ気づかれていなかった。
からだの大きなオークが、ホビット用の出入口から出入りするのは、そう簡単じゃない。
やつらがその鋭い爪で正面の出入口を拡げている間に、おいらたちは裏口から逃げようとした。
けど、全員が裏口を出たときに、いきなり、母さんは言ったんだ。
大切なものを置いてきてしまったから、もう一度戻る、って。
もちろん、全員がそれには反対した。
けど、母さんはとっても頑固で、誰に何を言われようと、自分の意見は曲げなかった。
ちょっと行って、すぐに戻ってくるから。
そう言ってきかなかった。
そうやって言い争っている時間も惜しかった。
そんな暇があったら、さっさと行って戻ってくるほうが早そうだった。
オークは必死になって出入口を爪で掻いていたけど、固く固められた出入口は、あの爪でもそう簡単に崩れそうにはなかった。
言い争うのに倦んだ母さんは、もう何も言わずに、いきなり家に引き返した。
父さんは、チビたちや年寄りを無事に逃がすだけで精一杯だった。
裏口は普段使っていないから、地上へと続くトンネルは細く曲がりくねっていて、ところどころ崩れ落ちてもいる。
崩れたところは土を掘りながら進まないといけないから、とても、力の弱い者だけを放っておくわけにはいかなかった。
おいらは母さんを追って家に戻った。
母さんはなにか大切なものを探しているように、あちこちの箪笥やら、抽斗やらをひっくり返していた。
家のなかの有様は、いっそオークの家探しに遭った後みたいだった。
「母さん、早く行こう。」
おいらはそう言って母さんを急かした。
命より大事なものなんて、なにもないだろう?
オークの激しい鼻息は、もうすぐそこに迫っていた。
ぐさりぐさりと突き刺された鋭い爪の周囲から、ぱらぱらと砂が落ちてきていた。
「もう少し。もう少しだけ待って。」
おいらなら、いくらでも待ってあげる。
けど、相手はオークだ。それは通用しない。
そう言いたかったけど、今は余計なことを言って時間をとるわけにはいかなかった。
「何を探してるの?」
少しでも手伝おうとおいらはそう尋ねた。
母さんはちょっと言い難そうに口ごもってから答えた。
「あなたたちからもらった、あの、誕生日プレゼント・・・」
「そんなの、無事に逃げたら、またあげるのに。」
本当にそう思った。
けど、母さんはそうは思わないようだった。
いや、内心じゃ、母さんだって分かっていたんだろう。
だから、おいらに何も言い返さなかった。
けど、探し物はやめなかった。
それは今年の母さんの誕生日に、おいらたちきょうだいで母さんにプレゼントしたものだった。
きょうだいで探した四葉のクローバーを、わざわざ街まで持って行って、魔法使いに永久保存の魔法をかけてもらった、世界でひとつだけのペンダントだった。
幸せのクローバーはなかなか見つからなくて、何日も、何日も、きょうだい全員で探し続けた。
ようやっと見つけたのは、うちの一番チビっ子で、みんなでチビを抱え上げて、ばんざいばんざいと踊り歩いた。
街に行くのはみんな初めてで、怖くて、びくびくもので、けど、カラ元気を出して、行きも帰りも大きな声で歌い続けた。
魔法使いに依頼するには、お金がたくさん必要で、だけど、お金なんてみんな持ってなくて、少しずつ溜めていたのを出し合って、全部差し出したら、魔法使いは、全然足りないけど、あんたたちに免じて魔法をかけてあげる、って言ったんだ。
そんなおいらたちの思い出の、いっぱいつまったペンダント。
あれやこれや、なかなかうまくいかなくて、でも、みんなで切り抜けて手に入れた。
おいらたちが生まれて初めて、母さんに渡したプレゼント。
これを手に入れるのにどんなに苦労したのか、そんな話を、おいらたち全員で、代わる代わる母さんに聞かせたら、母さんは、ちょっと涙ぐんで、でも、とびっきりの笑顔で笑ってくれた。
母さんの取りに戻ったのは、そんなペンダントだった。
「母さん、これじゃない?」
抽斗の隅にあった箱のなかに、おいらはペンダントを見つけた。
こんなところに大事にしまい込んであったのかと思った。
「それだわ!フィオーリ。有難う!」
母さんは嬉しそうにこっちに手を出した。
そのときだった。
ざくっ、とひときわ大きな音がして、それから、どさっと土の塊が落ちて来た。
ぽっかり開いた穴からは、面白いくらいくっきりとオークの姿が見えていた。
「母さん!危ないっ!」
穴の真下にいた母さんを突き飛ばして、おいらはとっさに手に持っていた抽斗を持ち上げて、オークの開けた穴を塞ごうとした。
力でオークになんてかないっこないのに、そのときには、そんなことも思いつかなかった。
ぐりぐりと抽斗を穴に押し付けながら、おいらは母さんを振り返った。
「逃げて!母さんっ!!」
母さんは真っ青になって、それから、きっぱりした顔をして、おいらの隣に並んで、一緒に抽斗を抑えた。
「あんたが逃げなさい、フィオーリ!」
母さんの抑えた側は、オークの力にはかなわずに、がくがくと押し負けている。
ときどき開く隙間から、オークの鋭い爪が、こちら側に飛び出してくる。
「いいから。母さん、逃げて!」
おいらはもう一度そう叫んだ。
いつの間にか、おいらの力は母さんより強くなっていた。
こんなちっぽけなバリケードだけど、母さんじゃなくておいらなら、もう少しは耐えられそうだと思った。
「おいらなら、大丈夫だよ。
ひとりだけなら、やつらの目を盗んで、ちゃんと逃げ出してみせるから。
おいら、かくれんぼなら、誰より得意だ。
母さんだって、おいらを見つけるのは、いつも苦労してた。
母さん、そんなことはよく知ってるよね?」
おいらは精一杯、なんでもなさそうに笑ってみせた。
本当は、心の奥底から怖くて、ぶるぶるで、今にも泣きだしそうだったんだけど。
ここで頑張らなくて、いつ頑張るんだ。
そう思って、必死に堪えていた。
「母さん、チビたちが待ってるんだ。
みんなを心配させないで。」
「お兄ちゃんのことだって、みんな待っているわよ。」
「ちゃんと、あとから追いついてみせるよ。
母さん、おいら、母さんとの約束を破ったことはないよ?」
母さんの瞳が揺れた。
迷っている証拠だった。
もう一押しだと思った。
「母さんは、おいらのことを信じてくれるよね?」
それが決め手だった。
母さんの瞳に、揺らぎない光がひとつ宿った。
「必ず、後から、来なさい。約束したわよ?」
母さんはそう言うと、身を翻した。
母さんの力の抜けたバリケードは、一瞬、押し破られそうになる。
おいらは全力でそれを押し返した。
「もちろん。約束だ。」
笑え。
笑え!
今こそ。笑え。
声が震えないように。
手が震えないように。
おいらは、必死こいて、母さんに笑ってみせた。
ばんっ!!!
母さんの後ろ姿が消えたのと、ちっぽけなバリケードが破られたのとは同時だった。
そして、おいらはその後、なにも分からなくなった・・・
***
気が付いたのは、どこか見覚えのないあばら家だった。
細い光が、天井からいくつも降り注いでいる。
ひどく優しい手がおいらの額を撫でて顔にかかる髪をどけてくれていた。
「目ぇ、覚ましはったか?
もう大丈夫やで。
怪我も大したことあらへん。」
聞き慣れない言葉でそう優しく言ったのは、ホビット?いや、ドワーフだろうか・・・
「ここのオークはな、まだいくらか知性が残っとんねん。
そやから、捕虜を捕まえて働かせはしても、不必要に傷つけるようなことはせえへん。
まあ、自由を奪われて、働かせられるんは、幸せなことやないけど。
命さえあれば、また何か、局面の変わることもあるからな。」
それは慰めの台詞だろうか。
おいらはどうやらオークに捕まって連れてこられたらしい。
この先どうなるのかはさっぱり分からないけれど。
とりあえず、食べられたりは、しないのかな?
「からだは起こせるか?
気分が悪くないようなら、ちょっとお水、飲み。」
言いながらそっと抱き起してくれる。
その腕の優しさに、父さん母さんを思い出して、思わず涙が溢れた。
「あらあらあら。泣いてんのん?
そうかそうか、かわいそうにな。
どこか痛いところはあるか?」
声の主はおいらを気遣うように優しく続けた。
「えらい目にあったな。辛かったやろ。
けど、もう大丈夫やで?
大人しぃにしてたら、もうここでは危険な目に遭うことはないからな。」
どこかのんびりしたその口調と、優し気な声音に、おいらは涙が止まらなかった。
声の主はおいらの背中をゆっくりと撫でながら、何度も何度も、大丈夫と繰り返してくれた。
「・・・母さんは・・・ちびたちは、みんな、ちゃんと、逃げられたんでしょうか・・・?」
しばらくしておいらはそう尋ねた。
相手は、そうやなあ、と言ってちょっと考えてから答えた。
「あんたの他に連れてこられたホビットはおらんかったからな。
きっと、無事に逃げられたと思うよ。」
「・・・そっか。・・・よかった・・・」
ほっとしたら、また涙が溢れて止まらくなった。
すると、ふわり、と顔を胸に押し付けられた。
父さん母さんとは違う、ちょっとがっしりした胸だった。
「よう頑張ったな。
あんたのおかげで、みんな無事に逃げられたんやろ。
偉かった。」
偉かった。
その言葉が、不思議に胸に沁みた。
そしてまた涙が出てきた。
こんなふうに、誰かに縋り付いて泣くなんて、いつぶりだろう。
父さんの胸も、母さんの胸も、もう誰かべつのチビのもので。
いや、それどころか、いつもなら、チビの誰かがおいらの胸で泣いていたくらいで。
だけど、こんなふうに泣かせてもらえるのは、不思議に心地よかった。
泣いても泣いても、涙が枯れないのが不思議なくらいに、おいらは泣き続けた。
「よしよし、偉かった偉かった。」
その人は、いつまでもそう言っておいらの頭を撫で続けてくれていた・・・
読んでいただき、有難うございました。
あなたにも、なにかよいことがありますように。