第1話(3)
笑う俺に、瀬名が唇を尖らせる。
「じゃあさ、良かったら瀬名も来ない?打ち上げ」
籠をPA席の床の上に置いて、卓前の椅子に腰をおろした瀬名が目を瞬いた。ヴォーカルマイクを取り上げる。
「打ち上げ?」
「うん。『RED CAST』と遠野が、一緒に飲みに行こうとか勝手に決めてる」
俺らだって別にライブの後そうしょっちゅう飲みに行ったりしているわけじゃないが、今日は気の合ったバンドがいたせいで飲みに行くと聞いている。
「ああ、そうなんだ。でも、お邪魔じゃない?」
……。
「邪魔だったら誘ってないんだけど」
「それはそうかもしれないけど」
俺の返事に、瀬名はマイクのウィンドスクリーンを外しながら笑い出した。言葉を続けようと口を開きかけた途端、背後から予想外の衝撃を受けて前につんのめる。
「そうそう。こいつが人を誘うなんて滅多にないことなんだから、是非是非おいでなさい」
遠野だ。
つんのめった体を、卓に腕を伸ばして支えて瀬名に激突するのを避けながら、振り返る。
「どういう意味だよ」
「だって、お前ってなすがままされるがままの受身男じゃん」
結構失礼な物言いだと思うぞ、それは……。
「苦しいっつーの……」
体勢を立て直して、首を絞めるように回された遠野の腕を引き剥がすと、瀬名がマイク本体を卓の上に置いてドライバーを取り上げながら笑った。
「そう?」
「そうなさい」
遠野の物言いにとりあえず瀬名は納得したらしく、そっか、と微笑んだ。ウィンドスクリーンにドライバーの柄を軽く突っ込みながら、「じゃあ、ここの片づけが終わったら合流します」と笑顔で応じた。
◆ ◇ ◆
「んだからさあぁ、俺はやっぱレスポールが好きなわけ。ストラトは駄目。テレキャスならまだ使うけど、とにかくレスポールなわけ……」
はいはい。
打ち上げ、と言う飲みの場に移動をしたのは、総勢で20人を越えた。『RED CAST』のメンバー6人と、そのファン。ウチのメンバー4人と、萩原たちだ。なぜか俺はべろべろに酔った『RED CAST』のギタリスト堀内に、ずっと隣を陣取られて語られ続けている。語られていると言っても、堀内はずっと「レスポールが好きなんだ」と繰り返しているだけで、その詳細や想いについては深く触れられていないので、何を言われてるんだか俺にも良くわからない。本人も既に何を語りたいのか良くわからなくなっているんだろう。
参加者は、かなり楽しいテンションになっているようだ。あちこちで交わされている会話は会話として成立しておらず、聞いている分には笑えて来る。比較的平静なのは酒が飲めない北条と酒にまず酔わない遠野、多少の酒量では酔わない俺くらいのものだろう。藤谷は酒にも煙草にも弱いので、真っ先にべろんべろんだ。
俺は酔わないわけじゃないんだけどね……顔にも出なければテンションもさして変わるわけではないから、傍から見ているとわからないようだ。ちなみに遠野は、べろべろになっているところを見たことがない。本当にない。酒と偽って水を飲んでるんじゃないかと疑いたくなるくらい、酔わない。とは言っても普段からテンションのおかしな奴だから、酔った奴の中で置いていかれるようなこともないんだが。
今は遠野は、俺の斜め前の更に隣くらいの場所で横に萩原を張り付かせたまま、藤谷と『RED CAST』のベーシスト大沢と手を叩いて大爆笑をしている。尚香ちゃんは、弟を連れてるからと言って来なかったようだ。
「だーかーら……如月、聞いてる?」
「如月くん、絡まれてるの?おーたん、如月くん、困ってるよー」
助かった。『RED CAST』のファンらしき女の子がグラスを片手に移動してきて、彼女に任せることにして席を立つ。立ったついでに、煙草でも買ってこよう。
(瀬名、どうしたかな……)
『GIO』を出てから、1時間以上が経過している。一応2時間ってことで聞いてるけど、この状態じゃどうなるかはわからない。店の空き具合によっては、長引く可能性も大だ。腕時計に目を落としながら席を立って、隔離された団体用個室から抜け出す。店内移動用のサンダルを引っ掛けて自動販売機の前に立つと、つんと背中を突付かれた。
「あ……瀬名。お疲れ」
「遅くなっちゃってごめんね。良かった、如月くん見つけられて」
「ああ、そうだね。席、あっち」
目当ての煙草のボタンを押して、取り出し口に手を突っ込むと瀬名を促す。さっきまで縛っていた髪は今は解かれて、肩の辺りでふわふわと揺れていた。
「何か忙しかったりした?」
終わってから出るまでにこれだけ時間がかかってるってことは、無理に誘ったみたいで悪かっただろうか。そう思いながら煙草を片手で弾ませると、瀬名は俺を見上げて目を細めた。
「忙しかったって言うか……マイクのメンテナンスをね、してたから」
「メンテナンス?」
「そう。今日、結構大人数で来てるみたいだね」
「うん。多いよ。でもほとんどがべろべろで、はっきり言ってもう既に言ってることがわけわかんないよ」
「ええ〜?もうべろべろなの?」
「ライブの最中から飲んでたんだろ、多分」
瀬名を連れて部屋に戻ると、出入り口付近にいた遠野が振り返った。
「おお〜。瀬名ちゃんッ、おっつかれーーーー」
「お疲れ様ー。亮くん、普段通りだね」
「ころ人はふらんからこんなれすよ」
真っ赤な顔で、藤谷が遠野を指差す。藤谷は確か、ビールをグラスに2杯くらいしか飲んでなかったと思うんだが。
「瀬名ちゃん、そっち、そこ座って。はい、彗介、瀬名ちゃんに食べ物と飲み物の手配!!」
「何で俺……」
「あ、いいよ、如月くん。わたし、自分で……」
「けぇぇぇぇすけぇぇぇ!!」
はいはい……。
どうして酔ってもいないくせに、このテンションなのか。
なぜか遠野の指示を受けて席に荷物を下ろした瀬名が、俺の後をついて来る。
「瀬名、座ってていいよ。グラスと取り皿とか追加してもらうだけだから。何か食い物も注文した方が良いんじゃない?あの辺にあるの、食い散らかされて食う気しないだろ」
「う、うーん……」
じゃあお願いします、と瀬名が席に戻るのを見届けると、通りがかった店員に瀬名の分の取り皿とか箸を頼んで、ついでにオーダーしたい旨も伝えると部屋に戻った。カンカンとテーブルを叩いて遠野が座れと指示をするので、瀬名の隣に腰を下ろす。
「……お邪魔します」
俺が先ほど座っていた席は既に乗っ取られていて、店員が新しく運んで来てくれた新しいグラスと取り皿に俺も手を伸ばした。
「亮ぁ〜」
萩原がすっかりべろべろで、遠野にしなだれかかっている。
「だぁれぇ、この人ぉ……。あ、わかった。如月くん、彼女!?」
「そうそう」
待て。
「え、彗介って瀬名ちゃんのこと好きだったの?」
瀬名の反対側の隣に座って萩原の友達と話していたはずの北条が、唐突に口を突っ込んだ。
「俺が今、何か言ったか?」
瀬名が俺の隣で赤くなってあわあわしている。
「だって亮の素振り見てるとさ」
「俺の気持ちはさておいて、遠野がそう思ってるってことは、俺にもよくわかった」
買ってきたばかりの煙草のパッケージを剥きながら、壁に背中を預けて瀬名に言う。
「気にするな。あいつ、そういうやつだから」
「ううううん」
「真に受けてたら、俺は1年に100人ぐらい惚れてなきゃならない」
「……3日にひとりはさばかなきゃなんなくなっちゃうね」
さばくの意味がわからんが。
「瀬名ちゃん、彗介の彼女になってやったら?無愛想だし冷たいけどギターだけは上手いから」
へらへらと舌を出しながらピッチャーの追加なんかしている遠野に割り箸を投げ付けてから、俺は逆襲体勢に入った。遠野には萩原がべったりだ。
「尚香ちゃんに報告してやろうか?」
「何をですか?」
「してしてしてー」
萩原が遠野の腕にしがみ付く。どちらかと言えば引け腰の遠野は、自分の腕を引っ張りながら噛み付きそうな目つきで俺を睨んだ。
「けええええええちゃん」
「尚香さんってあんまりヤキモチ妬いたりしなそうれすれー」
とろんとした目つきでぼーっとしていた藤谷が、呟くように言う。俺らより2つ年下の尚香ちゃんは、同じく2つ年下の藤谷とは同い年のはずなんだけど、藤谷はなぜか『さん』付けで呼んでいる。年上という理由で未だに俺らに対して敬語を貫き通しているくらいだから、その遠野の彼女の尚香ちゃんも同じ扱いになるのかもしれなかった。藤谷はこう見えて、義理堅く礼儀を非常に重んじる男だったりする。
「いきなり何?」
「だって、こんな亮さんべったりの萩原さんが一緒に飲みに行くって知ってたら、普通意地でもついてきません?気が気じゃないですよね?」
「あ〜……そう?」
「きっと尚香さんって亮さんのことよっぽど……」
『信用してるんですね』とでも続けると思ったのか、遠野は胸をそらせた。それを見やってきょとんとしながら、藤谷は続けた。
「ろーれもいーんれすかれー。……何れコケるんれす、亮さん」
「あのなあ……」
「そうそうそうそう」
がっくりしながらも反論しようとした遠野の言葉を遮るように、萩原が身を乗り出した。露出した胸元が更に露になるのも構わない。目のやり場に困る。
「きっとどーでもいいんだよー。そんな亮のことどうでもいい彼女なんて放っておいて、あたしと浮気しよー」
「……で?」
「あたしがちゃんと彼女に報告したげるからー」
「意味わからーん……」
「あ、俺も尚香さんに報告したげますよ」
「だから俺もしといてやるって。遠慮すんな」
「俺が何をしたと言うんだ……」
俺の反論材料だったはずだが、いつの間にか総ぐるみになってしまっている。とは言え、言い出したのは俺ではあるけど、実際問題遠野は尚香ちゃんを裏切る真似はそうそうしないだろうとも思ってるけどな。
「俺は、尚香を裏切るような真似は絶対しませんッ」
「亮さん、尚香さんと別れそうになったころってないんれすかぁ?」
尚も藤谷が食い下がる。隣で萩原が別れちゃえ別れちゃえと呟いた。
「うーん……ないことはないけど」
くすくす笑いながら追加注文した料理に箸を伸ばす瀬名に、北条がビールを注ぎ足した。
「あ、ごめんね。ありがとう」
「今日も瀬名ちゃん、良い仕事してたから。……瀬名ちゃんってフリーなの?」
「え?……ああ。うん、そうだよ。だって出会いないもんー」
「出会いはあるんじゃないか」
俺も一緒になって湯気の上がる豚キムチに箸を伸ばしていると、瀬名が「うー」と唸った。
「そりゃね。単に知り合うって意味での出会いならあるけどさ。一期一会だよ。ホント」
「それもそうか」
そりゃあ俺らだっていろんなライブハウスで随分ライブ活動してるけど、PAとここまで親しくなったのは……初めてだし。ライブハウスの店員ならまだ、バンドやってるやつとか多いし、飲みに行ったりするやつもいなくはないけど。うーん。エンジニアになると、そうでもないのかな。どうなんだろう。
「だってわたし、もう……2年くらい彼氏いないんだよぉ〜」
情けない声を出しながら、瀬名はビールの入ったグラスを撫ぜた。北条がそれを受けて微笑む。
「あたしと一緒じゃない」
「え?嘘ー。だって思音ちゃんくらい美人だったら、男の人放っておかないでしょー」
そう言ったのは、あながちお世辞でもないらしい。思い切り真顔でそう言うと、北条が泣き崩れる真似をした。
「ほんっと可愛いわー、瀬名ちゃん。嫁に欲しいわ」
「じゃあ思音ちゃんの嫁になろっかな」
「えー。俺、今日は瀬名ちゃんと彗介くっつけて帰ろうと思ってたのに。女同士でデキちゃったの?」
各々の勝手なセリフを適当に聞き流して、自分でグラスにビールを継ぎ足しながら、俺は煙草に火をつけた。
「尚香さんって可愛いっすよれー」
「……何?今聞き捨てならんことを言ったな?」
「いいいいい言ってないっす」
「そうかー和弘ーお前そーいうことかぁ〜。尚香狙いなんだな?許さ〜ん」
「違いますよぉ〜ぅ……」
遠野が藤谷の首を絞めにかかるのを見ながら、煙を吐き出して煙草の先で灰皿をなぞる。
「瀬名、仕事大変?」
「え?何で?楽しいよ」
「いや……今日のリハの2バンド目、ヤな感じだったから」
瀬名は丸い目を更にくりっとさせて、あぁ……と呟くと煙草を取り出した。
「別に、今更だしねー。ああいうのも」
「よくある?」
「うん……」
頬にかかった髪を耳にかけながら、少し目を伏せた瀬名は、元気のない笑顔を見せた。
「ああいうタイプの女性ヴォーカルさんに嫌われやすいみたい、わたし。今日の人も言ってたでしょ」
「何て?」
「笑って謝れば済んで来てるんでしょって」
ああ……言ってたような気がする。
思い出しながら、瀬名の容姿をしみじみと眺めてみる。『普通にワンピースでも着て歩いていれば、その辺の女の子と何の違いもない』華奢な容姿。……それが、逆効果ってやつなんだろうか。
「若い女だからって、甘えてやってんでしょって見方されること、少なくない。バンドの男の子とかに媚びてるみたいに見えんのかなって思うと、悔しくなる」
「ふうん?俺はそんなふうに見えたこと、ないけどな」
「はは。如月くんは男の子だもん。……ま、わたしのことはともかくとして、やっぱり見た目で判断されることも少なくないと思うよ。わたしの知ってる男性の先輩でもね、言ってた」
「何て?」
灰皿に、短くなった煙草を押し付ける。ビールのグラスを指先で弾いて、瀬名が両手を顔の前で組んだ。顎を乗せるようにして、首を傾げて俺を見る。
「小柄で、凄い若く見える人で。もう30半ばだし、高卒でずっとエンジニアやってるから場数も踏んでるんだけど、見た目はどう見ても20代半ばくらいなの。身長、ちっちゃいし」
「ふうん?」
「舐められるって言ってたよ」
「そう?」
「うん。舐めとけって思ってるって言ってたけどね。自分にちゃんと自信を持てるだけの裏づけが、その人はあるから」
その言い方が引っ掛かる。まるで、瀬名は自信がないみたいだ。
「……瀬名は?」
「わたしは……」
言葉に詰まった瀬名は、リハ前に見せたのと同じような、深い色合いを滲ませた横顔を見せた。真剣に何かを見据えるような眼差し。
「わたしは、負けちゃいけないんだって思ってるよ。まだまだ上見て頑張んなきゃいけないんだって。毎日毎日、その日の仕事が真剣勝負だって」
「……」
「わたしは毎日の仕事だとしても、バンドさんにしてみればその日のライブは1日きりで……その日が、本番で。だから毎日、失敗しちゃいけない。明日のライブで問題なく終われたって、今日のライブでぐちゃぐちゃだったらBlowin'は困るでしょ」
「うん……」
「……如月くんも、そうやって、毎回のライブを頑張ってるんでしょ?」
俺?
問われて、言葉に詰まった。
プロ志向――その為に、地元静岡から出て来た。今も、その為に頑張ってるはずだ。
「うん……」
だけど、ひとりで毎日バンドを相手にする重圧に立ち向かってる瀬名に比べると、自分がいるのがぬるま湯のような気さえする。
俺は、そこまでのプレッシャーを跳ね除けて頑張ろうとしてるだろうか。
俯いた顔で唇を噛み締めて、笑顔で顔を上げるような、そんなふうにつらいことを飲み込んで真っ直ぐ強く歩くような生き方をしているだろうか。
「瀬名ちゃーん。デザートだってー」
「ありがとー」
笑う瀬名の横顔を眺めながら、ぼんやりと俺は、そんなふうに思った。
◆ ◇ ◆
「……大丈夫?」
電車に乗り込んで、瀬名を庇うように立つ。さすがにライブ終わりに酒を飲んでて疲れた体に、肩にかけたギターケースが重く感じられる。
『RED CAST』の面々とは渋谷で別れていて、藤谷と北条は半蔵門線だ。遠野は俺と同じ新宿だが、何やらもぞもぞと言い訳をしていなくなった。渋谷には尚香ちゃんの家がある。
「うん。大丈夫だよ」
「何か悪かったな。疲れたろ」
「ううん。楽しかった。あんなふうにみんなで飲んだの、久しぶりだったし……」
瀬名は、新大久保に住んでいると聞いている。山手線で、俺と方向が同じだ。萩原の友人のひとりと同じ方向で、彼女が代々木駅で総武線に乗り換える為に下車すると、飲み帰りばかりのような車内に目を向けながら口を開いた。
「瀬名は何でPA始めたの」
酔ってるんだろうか。瀬名の顔は赤く、少し目つきがとろんとしている。……ああ。疲れてるのもあるんだろう。俺たちはライブ終わりだけど、瀬名にとっては仕事終わりだ。
「ん〜……何でってこと……ないけど。何となく」
「何となくで続くもんか?結構キツイだろ?」
「そうだなぁ。でもホントにそんな、これっていうきっかけがあったわけじゃないんだよね。多分……如月くんと同じだよ」
俺と同じ?
俺が沈黙で答えると、瀬名は自分で答えを舌に乗せた。
「音楽が好きだから。結構ね、いろんな音楽聴いてるんだよ、これでも」
「そう言えば、瀬名ってどういうのが好きなの」