第10話(3)
「別に好き好んでやってたわけじゃないよ」
「ごちゃごちゃ言わないの。とにかく駄目。ちゃんと食べなきゃ」
「はいはい」
階段を上りきって部屋の前で足を止めると、蓮池が睨むようにしているのが見えた。
「少し待っててね」
「は?」
「いーからいーから。あ、部屋に入ってていいよ。すぐ行くから」
「……」
は?
心の中でもう一度繰り返している俺を一切意に介さず、蓮池は自分の部屋へと姿を消した。良くわからないが、とりあえず俺も自分の部屋に入って上着を脱いでいると、言葉通りすぐに蓮池が顔を覗かせた。
「入っても良い?」
「は、あ……」
ぽかんとしたままの俺に、蓮池がにこっと白い歯を覗かせる。少し心を動かされる可愛らしい笑顔で、そんな自分の頬を軽く叩く。
あほ。しっかりしろよ。今朝のことがあるから、気持ちがふらついているだけだ。あんなこと、そうそうあって良いわけがない。お前が好きなのは、瀬名だろ。蓮池の気持ちだって考えてみろ。
これ以上瀬名を裏切るようなことなんて……。
……。
「あのね」
自分の理性を頼みの綱として言い聞かせている俺には気づかず、蓮池は俺の部屋に上がりこんで来た。それから俺の目の前で、片手に持った包みを軽く持ち上げた。
「お弁当」
「お弁当?」
聞き返すと、蓮池は少し照れくさそうに、どこか遠慮がちにその包みを下へ下げた。
「食べてないんじゃないかなあって思って……作ったの。さっき」
「嘘」
「よ、余計なお世話かなあってのは思ったのよ? 思ったんだけど。そんなこと言ってる場合じゃないかなって」
慌てたような早口で、蓮池が俯いていく。その顔が紅潮しているのは、俯いていてもわかった。それを見て、胸の内がふわっと温かくなる。
嬉しい。
こうして俺のことを心配してくれる蓮池の気持ちが、俺の心を優しく包む。
「余計じゃないよ……」
心の底からの感謝の気持ちをどう伝えれば良いのかわからず、俺は短く口にした。蓮池が顔を上げる。ぎこちなく笑って見せると、蓮池も「へへ」と笑った。
「なら良かった。ちょっと調子に乗りすぎかなって心配したんだ」
「調子に乗りすぎ?」
「ううん。あ、じゃあさ、せっかくだからお味噌汁くらい作ってあげるよ」
「え、いいよ、そんなの。悪いよ」
もごもごと断る俺に、蓮池が人差し指をつきつける。
「わたしのお味噌汁、悪いけどめっちゃうまいから。……ちょっと待ってて。材料取って……あ、違った。彗介くん、どうせだからシャワーとか浴びちゃいなよ。わたし、その間にお味噌汁作っててあげるから」
おいおい。
「何……」
「そしたらすぐ眠れるじゃない。食べて寝る。これ、基本ね」
何者なんだ、お前。
俺の反論を許さない姿勢でじっと見つめる蓮池に、思わず俺は苦笑した。蓮池の言うことは正しいかもしれない。このままでは俺は、ぼんやりしたままメシも食いそびれて、眠るに眠れずぼうっと過ごす羽目になっていたような気はする。
……蓮池に、甘えさせてもらっても良いだろうか。
蓮池の言う通り、このままペースに巻き込まれていた方が、少し落ち着いて眠れそうな気がした。
「わかった」
「うん。じゃあ、シャワー浴びてきて。あ、大丈夫よ。わたし別に覗いたりしないから」
「変質者かよ」
「逆でしょッ? 覗かないって言ってるんだから至って真っ当じゃないの」
いや、それをわざわざ宣言しておく辺りが危なかしくて仕方がないだろう。
バスタオルを引っ張り出しながら笑いをかみ殺す俺の背中を、もう一発でグーで殴ってから、蓮池は部屋を出て行った。
そうして俺がシャワーを浴びて出て来ると、既に食卓の準備が整っていた。
「おっかえりー」
「……はあ。あの、はい……た、ただいま……?」
ただいまって……。
小さな折り畳みのテーブルの上に、手作り感満載の弁当箱。その隣にはサラダの入った小皿が添えられていて、蓮池はキッチンに向かって俺を振り返っていた。片手には、自分の部屋から持ってきたのかお椀とおたまを持っている。
その構図に、照れ臭さと嬉しさと、一抹の罪悪感が交じり合った。
何なんだろう、この状況。
しっかりしろってば、俺。新婚夫婦じゃないんだから。
自分を誤魔化すように頭からバスタオルを引っ掛けてがしがしと水滴を拭っていると、狭い部屋にチャイムの音が鳴り響いた。
「あ、誰か来た」
「ん? うん」
――その時俺は、もう少し考えるべきだった。
後になって考えれば、やっぱり少し、まともな精神状態じゃなかったんだろう。
どこかぼんやりとしていて、何か気が回りきっていなくて、通常だったら考えるだろう可能性を、一ミリたりとも考慮しなかった。
「は……」
何気なくドアを開け、次の瞬間、心臓が止まりそうになった。
誰より愛しいはずの、誰より会いたかったはずの瀬名が、そこに立っていた。
「如月くん、良かった。いたん……」
「瀬名」
瀬名の言葉が途中で止まる。
瀬名の表情が、凍りつく。
「だ、れ」
瀬名の視線は、俺を通り抜けて部屋の奥へと向けられていた。狭い部屋は、玄関からだって全てが一望出来る。瀬名が尋ねているのは、キッチンに立っている蓮池だと言うことは、確認しなくたってわかる。
「あの」
完全に思考がホワイトアウトした。口にすべき言葉の断片さえも浮かばなかった。ただ、心の片隅で、自分の迂闊さを呪う。
せめてドアを開ける前に、誰が来たのか確認くらい……。
……いや。状況は、同じか。
この狭い部屋では、蓮池を隠す場所なんてありはしない。まさか好意で食事を作ってくれている蓮池を、ベランダに追い出すわけにも行かないだろう。
どっちにしても蓮池を部屋に入れた時点で、こうなることになっていたんだ。そして俺は、蓮池が気遣ってくれることを喜んでいた。
「どういうこと」
瀬名が表情を消して問う。俺は言い逃れる術を持たなかった。
「見ての通り」
俺の言語能力ではその程度の言葉が精一杯だ。瀬名ではない女の子が部屋にいて食事を用意してくれている……それが全てであり、そしてそれを瀬名がどう解釈するかはまた別の問題だ。
一瞬、瀬名が俯いた。下ろしたままの緩く波打つ髪が、その顔を覆う。泣いているのかと思ったが、そうではなかったようだ。顔を上げた瞬間、瀬名の平手打ちが俺の頬に直撃した。
「……ッ……」
刺すような鋭い痛みに、咄嗟に片目をきつく瞑る。だけど、それ以上に胸に突き刺さったのは、瀬名の眼差しの方だった。
「電話で、様子が変だと思ったから。仕事抜けて様子を見に来たの」
朝の電話を思い出す。思い出そうとするが、全てが霞がかっていて、明確に思い出せない。
返事のない俺に、瀬名が抑えたような低い声で吐き出すように言った。
「余計なお世話だったみたいね」
「待ちなさいよ」
その時、部屋の奥から鋭い声が飛んだ。瀬名を遮るようなその声には、こちらはこちらで怒りを塗装した色が滲み出ている。
振り返ると、状況を把握したらしい蓮池がこちらを睨みすえているのが見えた。俺と瀬名の、いや、瀬名の視線を真っ向から睨み返しながら、蓮池は続けた。
「あなたにそんなこと言う資格、あるの?」
「なッ……」
瀬名がかっとしたように顔を上げる。
「蓮池」
「だって! 彗介くんの彼女ってこの人のことでしょうッ?」
諌めようとする俺の言葉にも耳を貸さず、蓮池がこちらへ向かって歩いてきた。大きな瞳に涙が浮かんでいるのを見て、俺は困惑した。
「蓮……」
「彗介くんがどんな状態だったか、わかってんのッ?」
瀬名が驚いたように眉をひそめて、蓮池を凝視する。蓮池はそれを真正面から受け止めて、一歩も引かなかった。
「どうしてそばにいてあげなかったのよッ」
「蓮池ッ」
「あんなぼろぼろの状態の彗介くん放って、何も知らないで、それでよく彼女だなんて言えるわよね」
蓮池を止めようとその肩を軽く掴むが、蓮池は瀬名から視線を逸らさないままでそれを振り払った。
「だってわたし、わかってるもん。彗介くん、普段なら絶対わたしなんか部屋に上げたりしない。……あなたのことが好きなことぐらい、わたしだってわかってんのよ」
蓮池……。
自分の言葉に刺激されたように、浮かび上がっていた涙が頬を伝わり落ちた。
「それなのにわたしのお節介を跳ね除けないのなんて、普通の状態じゃないもん。それだけでどれだけ参っちゃってるか、わたしだってわかるわよ。そんな状態の彼を放って仕事なんかしてて、それでよく彼女なんて言えるよッ」
「……」
「あなたがそばにいてあげないからじゃない!」
「蓮池ッ! それは違っ……」
「違わないわよ!」
違う。そんなのは違う。俺には俺の都合があるように、瀬名には瀬名の都合がある。
それは、ただの、責任転嫁だ……ッ。
ぐらつく頭の中が、言葉にならない。瀬名はただ黙って、蓮池を見つめている。蓮池が押し殺すように続けた。
「わたしだから、じゃないことくらい……わたしだってわかってる。わたしでも構わないくらい、誰かにそばにいて欲しかったのよ。それだけ参ってたってことじゃないの。どうしてそばにいてあげなかったのよッ。……甘えないでよ」
違う……瀬名のせいじゃないだろう……?
俺も瀬名も、言葉がなかった。しばらくの沈黙の後、瀬名がぽつりと尋ねた。
「何か、あったの」
言ったら瀬名を追い込んでしまいそうで、俺は口ごもった。そんな俺を見て、蓮池がイライラしたように更に口を開く。
「わたしが言ったげる」
「蓮池、よせよ。……遠野が」
俺は、深く息をついた。
死なない。意識は戻る。尚香ちゃんと、そう話したばかりだ。
だけど言葉にするのが嫌で、俺は出来る限り表情を抑えて両目を伏せた。
「交通事故で、意識がない」
瀬名が小さく驚きの声を上げるのが聞こえた。彼女に視線を戻し、俺は殊更淡々と言葉を続けた。
「立ち話で言う話でもないけど、俺、母親を交通事故で亡くしててさ」
「だって、お花屋さんは」
「義理の母親がやってる。ちょっと、トラウマなんだよな、多分」
無意識に乾いた笑いを浮かべたのがわかった。どうして良いのかわからなくなった時、人間はどうやら笑うものらしい。
「あいつ、あれでも一応、俺の親友だから。俺にとって大事な奴だから。万が一、いなくなったりしたら、ちときついよな」
はは、と小さく笑うが、瀬名は愕然としたような表情のまま、俺を黙って見つめていた。見ていられなくて、俺の方が視線を逸らした。
「余計なこと考えて、確かに少し参ってて、だせぇけど不安で、会いたかったのは確か。瀬名がそばにいてくれたらって思ったのは、本当」
「……」
「ごめんな。瀬名には瀬名の生活があるし、俺は俺で勝手にやってんだから、そんなこと瀬名に言ったって困るのもわかってるんだ。だからこれは別に瀬名を責めてるわけじゃない。仕方がないって知ってる。俺の自分勝手に過ぎない……」
「何が勝手なの?」
再び蓮池が、尖った声を出した。
「当たり前じゃない? 調子がいい時にそばにいるなんて、簡単なことじゃない? 参っている時にそばにいてあげてこそじゃないの? そうじゃなきゃ、一緒にいることに何の意味があるの?」
「……」
「別々の人間が一緒にいたいって言うんだから、何も犠牲にしないなんてそんなの無理だよ。相手の為に、そばにいてあげたい自分の為に、自分は何を我慢できるだろうって……どうしても手が必要な時に何をしてあげられるだろうって……それが、大切にしてあげるってことなんじゃないの? 一人で生きてるわけじゃないじゃない。弱くなったら支えて欲しいの、当然じゃない。そんなに強がること、ないのに」
俺が顔を背けて黙っていると、蓮池は今度は瀬名に向かって言った。
「ねえ、どうしてこんなに彗介くんに我慢させてるの?」
「わたしは……」
顔を上げた瀬名の表情が強張る。そのまま二の句を継げずに押し黙った。
「蓮池。別に俺、我慢させられてるわけじゃ……」
「我慢してるんじゃない」
「わたし、帰る……」
瀬名が押し殺したように小さく言った。深く俯く瀬名に、蓮池が更に言葉を続けた。
「あなたが勘違いしてると困るから、一つ言っておくけど」
「……何」
「わたしと彗介くん、何もないから」
まさか蓮池がフォローに回ってくれるとは思いもよらなかったので驚く。俺の表情を読んで、蓮池が拗ねたような顔をした。
「別にわたしだってフォローなんかしたくないわよ。だけど、これ以上彗介くん悩ましたら可哀想だもん。これ以上参ってる彗介くん、見たくないよ」
その瞳の中に、悲しげな色が揺れる。今朝、そして今と、蓮池がどれほど自分の複雑な気持ちを押し殺して俺を気遣ってくれていたのかがわかったような気がした。
「帰るね」
瀬名がもう一度、繰り返す。それから俺に向けた目線には、もう怒りの色は見当たらなかった。
代わりに、ただただ悲しげに俺を見上げていた。そのままドアを押し開けて、一歩下がる。通路に出た瀬名が手を放すと、ドアが静かにパタンと閉まった。
「瀬名」
反射的に、思わず外に飛び出した。
踵を踏み潰したままのスニーカーで、廊下の柵から身体を乗り出す。瀬名はアパートの階段を降りて、通りへ出たところだった。
「瀬名ッ」
声もなく瀬名が俺を見上げた。薄暗がりの街灯しかないので、その表情まではわからない。
追いかけたら逃げてしまうような気がして、俺はそれ以上動けなかった。代わりに何か言おうと思うが、その言葉も浮かばなかった。
夜風が瀬名の髪を軽く揺らす。
「俺……」
それきり黙る俺に、瀬名も何も言わない。
やがて、静かに片手を振った。それから、夜道を歩き出す。ただ黙って遠ざかっていくその背中を見つめながら、俺は心のどこかで何かを諦めたような気持ちになった。
瀬名が好きだ。
今でも、変わらず瀬名のことを大切に思っている。
だけど、俺と瀬名の間には、深い亀裂が見える。
◆ ◇ ◆
それから少しして、遠野の状態は安定した。
相変わらず意識は戻らないが、とりあえず、急転直下で悪化して死ぬようなことはもうないだろうと聞いている。
事故を起こした運転手は、俺に胸倉を掴まれたあの後すぐに尚香ちゃんに、そして家族に謝罪をしたと後から聞いた。俺はあれ以降見かけることはなかったが、遠野の病室に毎日耐えない花束は、彼が時間の許す限り届けに来ているのだと。きっと彼も、遠野の容態がとりあえずは落ち着いたと言うことを聞いて、ひとまずはほっとしたことだろう。
完全に安心はもちろん出来ないが、それでも遠野が生きているというそのこと自体が、俺に精神の安定を取り戻させた。
朝『EXIT』へ行ってバイトをし、それが済んだら病院へ寄って、夜のバイトへ行くという生活を俺はしている。尚香ちゃんも、とりあえずお腹の子には大きな影響は出なかったようで、順調に育っているということだった。
瀬名とは、あの日以来連絡を取っていない。
蓮池とも、あの日以来立ち話をする程度に留まっている。
俺の心の中にいるのは、今でも変わらず、瀬名の姿だけだった。
でも――もうわかっている。
瀬名と俺は、もう、元のようにはきっと戻れないだろう。
「はい、如月……」
五月に入って、空気は少しずつ熱を孕み始めている。
久々に夜のバイトがオフのその日、いつもより少し長めに病院にいた俺が部屋に戻ると、まるで待ち構えていたかのように電話が鳴った。
鍵を閉めるのもそこそこに部屋に上がって、受話器を取り上げる。そう言えば携帯電話、どうし……。
「Blowin'のギターの如月彗介さんのお宅ですか?」
……は?
受話器から聞こえてきた予想外過ぎる言葉に、目を瞬く。
そんなふうにかけてくる人間に心当たりがなく、俺は困惑しながら電話の前にとりあえず腰を下ろした。
「はあ。はい、まあ一応」
活動してないけど。
内心で付け足しながら肯定すると、電話の向こうでほっとしたような男の声が聞こえた。
「良かった。失礼しました。私、フィーリングハウスの山口と申します」
「はあ」
誰?
「突然のお電話で申し訳ないのですが、Blowin’のことで少しお話をさせて頂きたくてお電話をしました。今、お時間大丈夫ですか?」
「はあ」
何のことやらさっぱりわからずに間抜けな返事を繰り返す。山口さんとやらは、俺の対応に気分を害した様子もなく、朗らかに続けた。
「いや、一応そちらの窓口が遠野さんだってことは伺っているんですが、どうにも連絡がつきませんので」
「はあ。そうでしょうね」
遠野は入院中で、尚香ちゃんも遠野のそばにずっといるから、ほとんど家にいないだろう。
「今回お電話させていただいたのはですね、Blowin'さんの音源を聴かせて頂いたので……もし良かったら、いろいろと話を聞きたいなと思ったものですから」
「はあ」
……は?
言葉の意味を脳味噌が理解せず、少し反応が遅れる。
その言葉の意味を少し考え、それから俺は、ようやく、愕然とした。