第10話(2)
触れたくて、するりと垂れ下がる長い髪に、指を伸ばした。
「遠野が……」
「え?」
「遠野が、死んだら、どうしよう」
それが誰なのかなどと言う説明はすっ飛ばして、頭の中をずっと回っている言葉だけを口にする。
口にしてみると、それは、現実的な響きを伴って重かった。
「このまま、意識が戻らないかもしれない」
涙が滲んだ。
「彗介くん……」
背筋を這い上がる悪寒に耐えかねて、体を起こす。立てた片膝に肘をつき、前髪に片手を突っ込む。
俯いて拳を額に押し当てていると、先ほど込み上げた涙が頬を伝った。情けないとか考えている余裕はどこにもなかった。
「俺」
「うん」
「母親も交通事故で亡くしてるんだ」
蓮池は、弘美さんが俺の義理の母親だと言うことを知っている。そのせいか、するりと口から出ていた。
「人はいきなりいなくなるって、知ってるんだよ。だったら……」
「うん」
「だったら、遠野もいきなりいなくなるかもしれない」
蓮池が、体を乗り出す。両腕を広げて、精一杯俺を抱き締める。
下手な慰めを口にしないでくれるのが有り難かった。「大丈夫」なんて言われたところで、それが本当だなんてどうやって信じていいのか俺にはわからないから。
ただそばにいてくれる人がいて、心情を吐露しても良いということが、俺を安心させていた。
「彗介くん、我慢しないで」
俺の頬に頬を寄せるようにして、蓮池が言う。耳元の、優しい声。
「え?」
「泣いて、いいから。怖くない人なんていないよ。だから泣いちゃっていいから。我慢しないで。堪えないで。かっこつけないで」
全身を包むようなその温もりと感触が、俺を心から心配してくれているような声と言葉が、俺の心のタガを外した。
ほとんどしがみ付くように、思わず力一杯抱き締める。塞き止めていた不安定な心が、涙になって次々と頬を伝う。
独りになれば、また追い詰められそうで、蓮池を離したくなかった。もっと、そばにいることを感じたかった。独りに、なりたくなかった。
――――――蓮池がそこにいてくれると言うことを、もっと、確かめたかった。
「……」
「……」
「……ごめん」
それは、ほとんど衝動だったとしか言いようがない。
気がついたら、蓮池に唇を重ねていた。蓮池も抵抗しなかった。
ただ、唇を離して謝罪した俺を、拗ねるように睨んだ。
「どうして謝るの?」
「どうしてって……俺、さいてぇじゃん……」
「何で?」
「彼女、いるんだって。知ってるだろ」
「知ってるよ」
「……ずっと、連絡取れてないけど」
蓮池が小さく息を呑んだ。
「連絡、取れてないの?」
「忙しいんだ、彼女。仕事で。わかってるし……わかってる、けど……」
わかってるよ。だけど会いたい。いや、会いたかった。
だから……こんなの、会えない瀬名の身代わりじゃないか。
浮かんだ考えに自分で打ちのめされて言葉に詰まっていると、蓮池が俺の首筋に両腕を回した。抱き締めるように、今度は蓮池から唇を重ねる。
「いいよ」
「……」
「誰にだって弱くなる時はある。誰かに触れていたくなる時もある。彗介くんが最低なわけじゃない。たまたま今、タイミングが重なっただけ」
切ない、だけど優しい笑顔で俺を覗き込む。大きな瞳に、俺を本当に気遣ってくれる色と、俺を想ってくれている愛情が揺れているみたいだ。
「だから大丈夫。……少し、眠って」
日がすっかり昇ってから目覚めると、蓮池は既にいなかった。
重さとだるさを残した頭と体を叱咤して、とりあえず『EXIT』に遅刻する旨を連絡すると、再び壁に背中を預けて、少しぼんやりとした。
昨夜、いや、今朝か。
俺と並んで壁に背中を預けて座り直した蓮池と手を繋いだまま、俺は眠ってしまったらしい。
蓮池のおかげで少し落ち着いたのか、深い眠りだったと思う。いつの間にか毛布の上に重ねて掛けられていた布団は、蓮池が掛けてくれたんだろう。……何か、全部が夢の中の出来事みたいだよな。遠野のことも、今朝の蓮池とのことも。
それから、緩慢とした動作で再び受話器を持ち上げる。
瀬名の電話番号をゆっくり押す。どうせ出ないだろうとどこかぼんやりとしたまま聞いていた呼び出し音が、突然途切れた。
「はい」
「瀬名……」
いたんだ。
あれほど待ち望んでいた瀬名との連絡がようやく取れたのに、俺はまだどこかぼんやりとしていた。もう、何かが少し、麻痺し始めていたのかもしれない。
「如月くんッ?」
ぼうっとした俺の声とは裏腹に、瀬名が弾んだ声を上げる。それを聞いて、少しほっとした。電話をかけたのは無駄じゃなかったと思えた。
「久しぶりッ」
「うん。久しぶりだな」
「元気だった? あ、今からバイト?」
「いや……今日は、まだ少し余裕がある」
これからシャワーを浴びたら、遠野の様子を見に病院に行って、それから『EXIT』に行こうと思っていた。
「ふうん? なら少し話してて平気なのかな」
「うん」
明るい瀬名の声を聞きながら、俺は目を細めた。なぜだか切ない気持ちが胸に湧き上がった。
「あのね、わたし、如月くんに聞いて欲しくって!」
そんな俺の胸中を知るはずのない瀬名は、明るく続ける。
「何?」
「あのね、今加藤さやかのカフェライブを手伝ってるって言ってたじゃない?」
瀬名。
今さ、遠野が意識不明で……へこむもんだな、やっぱ。
「それで、これからライブツアーに出ることになってるんだけど、わたしにも手伝って欲しいって言ってくれてるの」
怖いなって思うよ。
凄ぇ不安なんだ。
昔のことを思い出して、しんどいな。
だから、会いたい。せめてお前に会いたい。
「瀬名の頑張りが、認められたんだよ」
だけど、言えない。
会えないとわかっているから、会いたいと口には出せない。
「そうかな? だったらいーなあ」
「大丈夫だよ。瀬名なら。仕事も出来るし、明るいし」
本当に欲しいものは、他の誰かの言葉じゃない。
本当に欲しいのは、他の誰かの温もりじゃない。
ただ、瀬名だけ。
ただ、瀬名の笑顔が見たいだけ。
それきり黙った俺に、瀬名ははっと我に返ったように声のトーンを少し下げて、申し訳なさそうにおずおずと続けた。
「それで、その、会えないこととか、結構増えるかもしれないんだけど……」
今だって……十分、会えてないよ。
「いいよ」
精一杯、平静を装って、俺は明るい声で笑ってみせた。瀬名の足かせにだけはなりたくない、そう思うのは、最後の意地だった。
「大丈夫。せっかくのチャンスだもんな。目一杯頑張って来なきゃ損するよ」
「うん。そうだよね」
「それで、加藤さやかが武道館でやる時にはBlowin'呼んでくれるように言っといてよ」
冗談めかして続ける俺に、瀬名が可愛い笑い声をあげる。だけどその声にさえ俺は癒されることなく、ただ、心のどこかが乾いているのを感じていた。
そして瀬名が、ふと思い出したように尋ねた。
「あ、ごめんね。そう言えば、何か用事だった?」
……。
「何でもないよ。……じゃあ、俺、そろそろ出るから」
「あ、うん。わかった」
「頑張って」
あんなに聞きたかった瀬名の声だったけど、今はこれ以上長く聞いていられなかった。
用事なんて、何もないよ。
ごめんな。瀬名の声が、聞きたかっただけだよ……。
受話器を置くと、乾いた笑いが浮かんだ。
何かを諦めた笑いだった。
◆ ◇ ◆
シャワーを浴びると、再び遠野の病院へと足を向ける。
弾かれるかと思ったが、尚香ちゃんが話を通してくれていて、俺は病室に立ち入ることが許された。
昨日の連絡を受けてから、やっと遠野に会える。……意識が、ないとしても。
「如月くん……」
病室のドアを開けると、窓際に一つだけベッドが置かれていた。その隣に、点滴が設置されている。ぽつんと椅子に掛けていた尚香ちゃんが顔を上げた。
「遠野、どう?」
入りながら、胸を突かれた。息が詰まった。
身動きせずに静かに横たわる遠野は、頭も、首も、覗く肩も包帯に巻かれている。血の気のない顔は怖いほど穏やかだった。片足は吊られている。
迷惑なほどうるさい遠野と同一人物だとは思えなかった。
「まだ、起きないの」
どこか無邪気な優しさを含んでいるような尚香ちゃんの声に、泣きたくなる。
手近な椅子を静かに引き寄せると、俺は尚香ちゃんと向かい合うようにしてベッドの脇に腰を下ろした。眠る遠野の顔を眺める。日に焼けた肌に白い包帯が痛々しくて胸を締め付けられた。
現実感がない。
これほど静かでこれほど動かないこいつを、俺は今まで見たことがない。
「尚香ちゃん。ちゃんと休んでる?」
しばらく二人とも黙りこくったまま、ただ遠野の眠る顔を眺めていた。やがて、ふと気になって口を開くと、尚香ちゃんは儚くそっと微笑んだ。
「うん。わたしはさっきまで別室で休ませてもらってた。如月くんは、ちゃんと眠れた?」
「まあ、何とか。ご両親はどうしてる?」
「わたしの両親は一度家に帰ったけど、亮くんのご両親は、今わたしと入れ替わりで別室に」
「そっか。尚香ちゃんも一度家に帰っても良いよ。俺、代わりにここにいるから」
俺の言葉に、静かに顔を伏せて顔を横に振る。
「そばにいたいの」
悲しげでも、苦しげでもなく、感情の滲まない声で言う。それが却って痛々しく思える。
「こうして見ているとね」
返す言葉もなく沈黙する俺に、尚香ちゃんもまた少し黙った。それからまた、静かに口を開く。
「時々、この辺が動くの。少しだけ」
そう言って、尚香ちゃんは自分の頬を細い指で示した。目が合うと、遠野への愛情が滲み出るような優しい顔で目を細める。
「それを見ると、ああ生きてるんだなあって思う」
その頬を、何の前触れもなく涙が伝わり落ちた。
だけど、まるでそのことに気かついていないかのように表情を変えずに彼女はか細い声で続けた。
「ずっと見ていても、全然動かないでしょ。だから時々ね、怖くなるの。もしかすると、このまま死んじゃったんじゃないかって。心臓がぎゅってなるの」
返す言葉が見つけられない俺に、尚香ちゃんは構わずに言葉を紡ぐ。
「でも、ここがぴくって動くの見ると『ああ、生きてる』って安心する」
「……そうだな」
「ここにいないと、怖いのよ。そばにいない間に何か悪いことが起こるんじゃないかって。離れていると、今嫌なことが起こっていたらどうしようって。そればかり考えてしまう。だったらいっそ、ずっとここにいた方が、どれだけ気が休まるかわからないわ」
ぽたり、ぽたり、と彼女の頬を滑り落ちた涙がスカートの膝に落ちる音が微かに聞こえた。
「今、何の夢を見てるのかしらね」
「さあ。尚香ちゃんと、生まれてくる子供の夢じゃないのか」
「Blowin'の夢だと思うな」
どちらもありそうで、俺と尚香ちゃんは顔を見合わせて笑った。
その間も、尚香ちゃんの頬を伝う涙は止まりそうにない。
「後はもう、意識が戻るのを待つしかないって言われてるの」
「遠野次第って?」
「そう」
それから尚香ちゃんは、潤んだままの大きな瞳を遠野へ向けた。
「後は本人の生命力次第って言うなら、わたしは心配してない。だって亮くんって、一生懸命生きてるもの。自分の人生、とっても大切に生きようとしてるもの。だから、生きたい気持ちも、とっても強いはずなの」
「……うん。知ってる」
遠野の寝顔に視線を定めたままぽつっと答えると、尚香ちゃんが小さく笑う声が聞こえた。泣き笑いだった。
「そうだよね。知ってるよね。如月くん、ずっとそばにいるんだもの」
「まあ」
「ねえ」
大きく涙で震えた呼びかけに顔を上げると、尚香ちゃんが今日、初めて悲しげに顔を歪めていた。見ているこちらまで胸が潰れそうになるような、切なさと寂しさと不安と、そして悲しみの入り混じった眼差しを向ける。
「わたし、間違ってないよね」
「え?」
「亮くんは絶対に目が覚めるの。そう思っているの。間違いじゃないよね」
必ず意識が戻るとは、誰にも言えない。
誰にも言えないけれど、それがこいつの生きようとする気力にかかっているんだとすれば、俺ははっきり頷ける。
「間違ってない」
こいつが、一生懸命自分の人生と向き合って歩いていたことを、俺は知っている。
充実した人生を貪欲に掴もうとしていたことを知っている。
だから、目が覚めないわけがない。
この先も、歩いていこうとしないはずがない。
「間違ってない。必ず尚香ちゃんのそばに戻ってくるから」
「うん」
「だから……待っててやって」
両手に顔をうずめて、尚香ちゃんが声もなく深く頷いた。
◆ ◇ ◆
遠野の目覚める気配はなく、十三時ごろになって病院を後にした俺はその足で『EXIT』へ向かった。半ばぼうっとしたまま仕事をする俺をマスターがひどく心配してくれていたような気がするが、余り良く覚えていない。
帰り際、マスターが「何かあったらすぐに連絡するんだぞ」と言ってくれたことだけは覚えていた。人の気遣いを、ありがたいと思う。
自分が、『交通事故』と言うものにこれほどトラウマを残しているとは思ってもみなかった。……いや、それだけじゃないんだろう。だけど、必要以上に『遠野も俺のこの先の人生から姿を消すかもしれない』と考えてしまうのは、幼い頃のトラウマを引きずっている以外の何があるだろう。それともこれが正常なのか。俺には良くわからない。
目を瞑ると、母親が笑っていた姿が蘇る。
……ふざけて笑う遠野の顔が。
どうして人は、こういう時に限って、笑顔を思い出すんだろう。優しい言葉を思い出すんだろう。
夕方になって、夢の中を泳ぐように曖昧な意識の中で病院へ戻るが、遠野の意識はやっぱり戻らないままだった。二時間ほど病院で過ごし、面会時間の終了と共に、俺は自宅へ足を向けた。
「あ、あ、あッ……」
もうすぐアパートと言うところまで辿り着くと、通り過ぎたいつものコンビニの方から妙な声が聞こえた。蓮池の声だ。すぐにそう気がついて、俺は足を止めて振り返った。
「彗介くん、おかえりッ」
片手にビニル袋を持って、蓮池が俺の方へと駆けてくる。どうやら今日は待ち伏せていたわけではなく、本当に買い物をしていたようだ。
そんなふうに思いながら、今朝のことを思い出して少しだけ動揺する自分がいた。
「良かった。『EXIT』の方に行こうかどうしようか、迷ってたんだ」
「何で」
蓮池が追いつくのを待って、並んで歩き出す。蓮池が俺を見上げて、ふっくらした唇を尖らせた。
「だって。心配だったんだもん。本当はさっきチャイム鳴らしたんだけど、いないみたいだったし。バイトに行ったのかな、それとも、その……病院かなとかいろいろ考えて」
「そか。ごめんな。さんきゅ」
ぽんぽんと頭を軽く撫でると、蓮池はどこかはにかんだようにくしゃりと笑った。
「ねえ。ごはんちゃんと食べてる?」
ごはん?
「ああ。言われてみれば、忘れてたな」
そう言や、すっかり忘れてたな、そんな日常的なこと。
だけど朝メシはいつも大概食わないし、昼メシを食い忘れたってくらいで大した損失があるわけじゃない。まあ、確かにこのままでは晩メシも食い忘れるところだっただろうが。
アパートの階段に足をかけながらあっさりと答える俺に、しかし蓮池は「だと思った」と、眉を吊り上げた。
「こういう時だからこそちゃんと食べなきゃじゃない。彗介くんまで倒れたら馬鹿みたいだよ」
「倒れやしないよ、この程度で」
金がなくて断食していた経験を持つ俺を舐めるなよ?
そう続けると、後から階段を上っていた蓮池が、グーで俺の背中を殴った。
「そういう問題じゃないでしょー。精神的に参ってる時は、体にだって出やすいんだからね。好き好んで断食してる時とはワケが違うんだよ」