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Distance〜夢までの距離〜  作者: 市尾弘那
36/40

第10話(1)

 落ち着け。

 ……落ち着け。

 藤谷に言われた病院は俺の家から歩いて行ける場所にあった。その病院の前で、俺は速い鼓動を鎮めようと、深く息をつく。

 大丈夫。

 大丈夫だ。

 藤谷はそそっかしいから慌てていたが、行ってみたら意外と「何だよ、お前まで来ちゃったのかよ」とか言って苦笑くらいされるかもしれない。

 そう言い聞かせる頭の片隅で、俺の幼い記憶が顔を出す。こんな感覚には覚えがある。

 あれは、そう……八歳の時だ。

 学校から帰ってきたら、いつも出迎えてくれるはずの母親がいなかった。どうしたんだろうと思いながら、緊急用に持っていた鍵でドアを開け家に入って一人で留守番をしていた。誰もいない家に突然鳴り響いた電話の音が、いつも以上に大きく聞こえて怯えたのを覚えている。子供心に、何か不吉な予感がした。

 鳴り止まないのでとにかく電話に出てみると、警察からだった。いやに冷静な声で、母親が交通事故で病院に運ばれたと告げられた。

 それからのことは、記憶が曖昧になっていて良く覚えていない。多分、俺が父親の会社に電話をしたんだろう。そして父親が俺を迎えに来て、一緒に病院へ行って……そして……。

 体が、微かに震えるのがわかった。こみ上げる吐き気と、ただただ不安感、いや、恐怖。

 ……またなのか?

 また、俺から大切な人間を奪うのか?

 ――――――奪わないでくれ。

「彗介ッ」

 ぐらぐらする頭を、背後から聞こえた声が引き戻した。車のドアが閉まる音が響き、振り返ると北条が駆けて来るところだった。

「ああ……お疲れ」

 足を止めて、北条が追いつくのを待つ。気が強そうな綺麗な顔に、不安が色濃く浮かんでいた。

「亮、どうしたの? どうなった?」

「俺も今ついたばかり。行こう」

 当然病院は終わっている時間だから、正門からずれた位置にある緊急用夜間窓口に向かう。北条もこわばった顔で俺を追いかけながら口を開いた。

「バイト終わって、帰るトコだったんだって?」

 先ほど俺が藤谷から聞いたことと同じことを北条が口にした。

 配達を終えて会社へ戻る途中、半居眠り運転のトラックに突っ込まれたのだと。

「あいつ、バイク便のバイトを始めたんだよ」

 さっきそう本人から聞いたばかりだ。

 そう思って、軽く唇を噛む。

「そう」

 それきり黙る北条と、夜間受付を通ってエレベーターに乗る。鼻につく薬の匂いが、俺の嫌な記憶を呼び起こす。

 父親に手を引かれて歩いた病院。連れて行かれた病室で、母は静かに横たわっていた。

 顔を、白い布に覆われて。

「彗介。ついたよ」

 軽い振動と共にエレベーターが止まり、ぼんやりしていた俺を北条が促す。廊下に出ると、目眩がした。

「大丈夫?」

「……俺はね」

 沈鬱な気持ちを加速させるような陰気な通路の先は、暗い。非常灯のぼんやりとした緑の光が、人気のない病院を強調しているように思える。

「彗介さん。思音さん」

 遠野のいる集中治療室は、すぐにわかった。

 通路の途中にあるガラス窓のついた扉を抜けた少し先で、ソファに座っていた藤谷が立ち上がる。『手術中』の赤いランプが光っているのが見えた。

「遅くなった。悪い」

「いえ」

「遠野は?」

 俺の問いに、そばまで来た藤谷は真っ赤な目で唇を噛んだ。黙って顔を横に振って、赤いランプを見上げる。

 それから俺は、藤谷の向こうに遠野の両親の姿を見つけて足を止めた。父親の方が立ち上がって頭を下げる。俺も黙って、それに倣った。母親の方はと言うと、立ち上がる気力どころか顔を上げる気力さえないようだ。ソファに崩れるように座ったまま、両手に自分の顔を埋めている。

「……尚香ちゃんは」

「尚香さんは、さっき意識を失って……別室で休んでます」

 藤谷が、尚香ちゃんがいない理由を告げた。

「尚香さんのご両親がそちらについてますから」

「そっか。さんきゅ」

 掠れた声で答えて、俺は固く閉ざされた扉の前に立った。

 交通事故。母親。子供を避けようとして。駅近くの横断歩道。歩いていたお母さんの方に。声もなく泣いていた父親。ダンプ。脳座礁。鼻につく病院の匂い。警察からの電話。―― 一度も目を開かなかった母親の白い顔。

 背筋を戦慄が走った。

 急に、押し寄せる悪寒と吐き気に眩暈がして、ドアに背を向けた俺は壁に額を押し付けた。両目をきつく瞑る。胃が、胸が……体の内側がぎゅっと凝縮するような痛み。

 短い爪が手のひらに食い込んでしまいそうなほどきつく、壁に押し当てた拳を握り締めた。そうしないと、立っていられなくなりそうだった。

 なあ……嘘だろ?

 何が起こったんだよ。

 何なんだよ、これ。

 悪い冗談、よせよ。

 心臓のあたりが、掴まれているように痛い。

 遠野の笑顔とか、俺をからかってばかりいる様子が浮かんでは消える。そして、急に俺の部屋へやってきたあの日の珍しく真剣な眼差しが蘇った。

 ―――俺、尚香だけは、ちゃんと大事にしたいんだ。

(馬鹿野郎)

 ……だったら。

 だったら、ちゃんと大切にしろよ。

 守るって、泣かせないって、言ったんじゃないか。

 だったらちゃんとそばにいてやれよ。

 口だけじゃないって、証明しろよ。

(頼むよ……)

 頼む……。


 ―――……生きてくれ。




 手術が終わったのは、俺が病院についてから三時間ほど経ってからのことだった。

 全部で六時間に及んだ手術は一応のところ、無事に終わったらしい。

 だけどそれは、一時的に一命を取りとめたと言うことに過ぎず、余談は全く許されない状況なのは確かだったが、それでも……それでも、少なくとも今はまだ生きていると言うこともまた、確かなことだった。

 脳挫傷、頭がい骨骨折、大腿部複雑骨折、急性硬膜下血腫、外傷性くも膜下出血、肺挫傷、全身打撲、擦過傷――それが、医者に告げられた遠野の症状だ。

 手術を終えて個室へ移された遠野には家族以外ついていることが出来ず、俺と藤谷、そして北条は、夜が明けてから再訪することに決めて、一度病院を後にすることにした。

 もうすぐ、四時になる。

「藤谷。お疲れ」

 下へ降りるエレベーターの中で、今夜、きっと最もすることが多かっただろう藤谷の肩を軽く叩いて労うと、藤谷が俺を見上げて顔を歪ませた。

「彗介さん……亮さん、亮さん、大丈夫ですよね」

「大丈夫だよ。無事、手術は終わったんだ」

 それは、藤谷にと言うよりは、自分に言い聞かせるように言った言葉だ。

 考えるほどに怖くなる。このまま目を開けなかったら。そんなことにならないとは、誰にも言えない。

 エレベーターが一階に到着して、ドアが開く。胸の内の不安を飲み込むように唇をきつく噛みながら廊下へ足を踏み出した俺は、唯一明るい夜間受付の出入り口の方に顔を向けて、そして足を止めた。

「彗……」

「誰?」

 ガラス扉の向こうに、ツナギを身につけた男が突っ立っている。

 躊躇うようにドアを見上げ、踵を返し、そしてまた足を止め、ドアを見上げる。

 ツナギ……こんな時間の訪問……?

「何……」

 言いかけて、次の瞬間、俺は息を飲んで走り出した。

「彗介っ?」

 あいつ……あいつ、遠野を轢いたトラックのッ……?

「おいッ!」

 受付の前を駆け抜けて、そのまま外へ飛び出す。

 また迷うように背中を向けかけていた男は、突然駆け出してきた俺にびくりと身を震わせて足を止めた。

「遠野を撥ねた運転手か?」

 胸倉を掴んで引き寄せると、男が喉の奥から引き連れるような悲鳴を上げた。

「わ、私は……」

「どうなんだって聞いてんだよッ」

「彗介ッ」

 北条が慌てて割って入ろうとするが、俺はその手を振り払った。男の顔だけを見据えてやると、男が泣き出しそうな顔で俺から目を逸らした。

「すみ、すみませんッ……」

 てめえがッ……!

「すみませんじゃねえだろう。てめえが何したか、わかってんのかよッ? 謝って済む話じゃねえだろうがッ」

「彗介さんッ! まずいですってばッ」

 北条では抑えられなかったのを見て取って、藤谷が無理矢理俺と男の間に割って入る。

「放せよ、藤谷」

「放せよじゃないですよ。こんなとこで余計な揉め事起こしてどうするんですかッ」

「うるせえッ。わかってんのかッ? こいつが、遠野があんな目にッ……」

「わかってますよッ! わかってるけど、彗介さんがこいつを殴ったって、それで亮さんが目を覚ますわけじゃない!」

 はっきりと怒鳴られて、俺は抵抗する力を緩めた。代わりに、きつく握った拳を一層握り締めながら、男の胸倉を突き飛ばすように解放してやる。

「らしくないですよ、これじゃあ、いつもと逆でしょ」

「逆?」

「いっつも俺より冷静なくせに」

「……冷静で、いられるかよ」

「す、すみませんでしたッ……」

 俺から解放された男は、かたかたと震えるように俺と藤谷を見ていたが、やがて突然地面にひれ伏した。勢い、俺も藤谷も、そして北条も、黙って男を見つめる。

「すみませんすみませんすみませんすみませんすみません……」

 良く聞けば、声も震えている。いや、涙も混じっているように聞こえた。

 それしか言葉が浮かばないと言うようにひたすらに繰り返す男の姿に、冷水を浴びせられたような気分になる。今し方まで胸倉を掴んでいたその男の、惨めで哀れな姿だった。

「奥さんに、謝れよ……」

 きつく責める気力をなくし、まだ俺を抑えるようにしている藤谷を軽く払う。

 男が、動きを止めて顔を上げた。

「奥さん……」

 その顔を見て、気がつかなければ良かったと思った。男の横をすり抜けるようにして、俺は歩き出した。

「そうだよ。妊娠八ヶ月。……土下座するなら、そっちでしてくれ」

 気の小さそうな、真面目で純朴そうな男だった。やつれた顔に浮かんだ、濃い疲労の色。

 事故もその原因の一つだろうが、一朝一夕でと言う気もする。違う。きっと、日夜積み重なった疲労の色だ。

 これ以上、男の顔を見ていたくなかった。怒りのやり場がわからなくなりそうだ。疲れ果てた体で、男だって運転なんかしたくなかっただろう。だけどそれでもしなければいけない境遇にいたのだとしたら、俺は誰を責めれば良い?

 母親の時も、そうだったんだ。

 あの時は、急に飛び出した子供を避けようとハンドルを切った運転手が、車を制御しきれずに歩道に突っ込んだ。

 その先にいたのが、俺の母親だったんだ。

 母親は即死、運転手も生死をさ迷う重傷を負って、一ヶ月ほど意識不明だったと聞いている。無事だったのは、飛び出した子供だけだった。

 原因である四歳の子供を責めるわけにはいかない。子供の母親にだって、予測不能な事態だったのだろうから責められない。子供を避けるためにハンドルを咄嗟にきった運転手が悪いとは思えないし、ましてや道を歩いていただけの母親に何の責任があろうはずがない。

 誰に憎悪を向けて良いのか、わからなかった。

 失った悲しみ、理不尽に奪われた怒りは確かにそこに存在したのに、そのやり場がどこにもない。それがつらかった。

 背中の方から、男のすすり泣く声が聞こえてくる。そして、藤谷と北条が俺を追いかけてくる気配。

 ……もう、何も考えたくない。

 ただ、ただ、願う。

 遠野の意識が、無事、戻ってくれることを。


        ◆ ◇ ◆


 家に帰る途中、電話ボックスの前で足を止めた。

 どうしても瀬名に会いたかった。いや、会えないのならば、せめて声が聞きたかった。

 別に泣き言を聞いてもらいたいわけじゃない。慰めて欲しいわけじゃない。

 ただ、会いたい。

 ただ、その存在に触れたい。

 気を抜くと崩れそうな自我を、一人で保つのは限界だった。

 非常識な時間と知りながら、欲求に勝てずに、指先が覚えた電話番号をプッシュする。

(どうして……)

 耳元で繰り返される無機質なコール音に、思わず公衆電話の上に突っ伏した。それこそ連日のバイト疲れなんかも手伝って、精神的ダメージと眠気と疲労で眩暈がする。

 どうして、いないんだよ……。もう限界だ、俺……。

 体を引き摺るようにアパートに辿り着いた頃には、東の空が白み始めていた。朝の訪れが、また一層体を重く感じさせた。

 錆び付いた階段の軋みを聞きながらアパートの二階へ上がり、部屋の前へと辿り着く。こうしている間に、遠野の容態が悪化したらどうしようと思うと、また吐き気が込み上げた。

 やっぱり病院へ戻ろうか? いや、戻っても今はまだ家族以外は入れない。でも、少しでもそばにいた方が。だけどここで俺が体を壊しても馬鹿みたいじゃないか。壊れるか? この程度で壊れるほど品行方正な生活をしてないだろう。やっぱり戻って……残っている彼らが余計な気を使うだろうか。

 ぐらぐらと考えながら取り出した鍵が、俺の手から滑り落ちた。カシャンと言う軽い音を朝の空に響かせて、鍵が落ちる。

 それを拾おうとしゃがみ込んで、体がぐらりと揺れた。

「嘘だろ……」

 参ってるな。俺。

 体が、じゃない。

 心が、だ。

 同時に襲い掛かってきた激しい耳鳴りに、じっとその場に片膝をついたまま耐えていると、どこかで音がした。だけどそれさえ、何の音なのかわからなかった。

「ちょ……彗介くんッ?」

「えッ……?」

 眩暈と耳鳴りが引くのをじっと待っていると、唐突に肩を掴まれた。全く予想をしていなかった俺は、本気で驚いて顔を上げた。

「蓮、池」

 俺を覗き込むように、眉根を寄せて心配そうな表情を浮かべる蓮池を見つける。そこでようやく、さっき聞こえた音がドアの音だったと気がついた。

「彗介くん、どうしたのッ? 具合、悪いの?」

 しゃがみ込んだままの俺を、背中から包むように両肩に軽く手を乗せる。シャツ越しに伝わる蓮池の温もりが、思いがけないほどの安堵を与えて、不覚にも俺は泣きたくなった。

「平、気」

 人の温もりと言うのは、これほどに人を安心させるものなのか……。

 ふっと肩の力が抜けて、今自分が一人ではないことを感じ、心の緊張が微かに解かれる。

 そんな自分を恥じたり嫌悪したりしているほど、今の俺には、心の余裕がなかった。

「平気じゃないでしょッ! ……立てる?」

「立てる」

 眩暈が引いた。

 ようやく立ち上がって手の中の鍵を持ち替える。その間も蓮池は、心配そうに俺の背中にそっと手を当てていた。蓮池の触れている部分が心地良く、ずっとそうしていて欲しい衝動に駆られる。

「大丈夫」

 ドアを開けると、俺は自分の欲求に逆らって、蓮池の手を外させた。

「大丈夫。ごめん、心配かけて」

 嘘だ。

 このまま、そばにいて欲しい。

 張り詰めていた心が、蓮池の温もりに触れて緩んでいる。もう一度独りにされるのは、耐えられそうになかった。

 眠るまで――せめて、眠りにつくまで。

 俺の胸の内が聞こえたわけでもないだろうが、蓮池は少し黙って俺の顔を見上げていた。それから改めて、俺の背中を軽く押す。

「わかった。じゃあ、彗介くんがお布団に入ったら、帰るよ」

「……良いよ。平気だって」

「大丈夫よ? 別に一緒に潜り込んだりしないから」

 ゴン。

 開けたドアに額をぶつけた。

「あのな」

「ほらほら。さっさと入った入った」

 急かすように言いながらも、背中に添える手は優しい。

 蓮池に促されるようにしてようやく自宅に上がった俺は、上着も脱がずにそのまま床に座り込んだ。壁に背中を預ける。

「えーと」

「何?」

「お布団、敷かないの?」

 動こうとしない俺に、蓮池が困惑顔で尋ねた。綺麗に整えられた眉根を寄せる。コケティッシュな表情が、愛らしく思えた。

「いい」

「良くないと思う」

「面倒」

「もう。じゃあせめて毛布とか。押入れの中? 開けて良い?」

「どうぞ」

 もう何もしたくない。何も考えたくない。

 壁に背中を預けたまま、ずずずっと床に横倒しになる。勝手に押入れを開けて毛布を引っ張り出した蓮池は、ふわりと毛布を広げて俺を包んだ。

「どうしたの?」

 優しい声で覗き込まれ、泣き出したくなる。






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