第9話(2)
「そうでした。ごめーん。我に返ってみると寒かったり」
そりゃ寒いだろう。
「あ、とりあえず入って入って」
張り付いたシャツを引っ張って体から引き剥がしながら、蓮池がドアを大きく開く。招きに応じて、仕方なく俺も蓮池の部屋に続いた。
「お風呂ね、そっち」
「知ってる。俺の部屋と同じ造りだから」
答えながら、靴を脱いで上がりこむ。蓮池はと言えば、着替えの為に部屋の奥の方へ足を向けた。とは言っても小さな部屋だから丸見えと言えばそうなのだが、俺が風呂場に入ってしまえば一応視界から外れる。
元々靴下は履いていなかったので、ジーンズの裾を少し折って裸足のまま水浸しの風呂場に入り込んだ。床にはゴロゴロと外れていてはいけないものが転がっている。
はあ。ハンドルを押さえているナットでも緩んでいたんだろうか。ハンドルのみならず、スピンドルごとすっぽ抜けている。で、パイプも外れているものだから、一見して蛇口と思えない……「何だコレ?」と言うような状態になってしまっている。壁から生えている中心部分だけが生き残っている状態だ。意味不明だ。
「どう? どう?」
「お前、コレ、何したらこんなことになるんだよ。意図的に分解したとしか思えないんだけど」
「だって、何だか水漏れが止まらないなーと思ったから、ペンチでちょっとぐるってやったら、回す向きを間違えたみたいでー。水の勢いでぶわって外れてー」
ああ、そう。自分で直そうと思ったら分解になってしまったと。
「水漏れね……これ、パッキングが腐ってんじゃないの」
「ええ? 腐るもんなの?」
「腐るって言うか、劣化してる。ボロボロじゃん」
「えー、ひどーい。わたし、引っ越してきたばっかりなのに」
「そんなこと俺に言われても。ま、管理会社に直してもらってもいいだろうけど、これだったら新しいパッキングを自分で買って来て変えた方が早いだろうな」
ひどいな、本当に。
パッキングを抜き出すと、ボロボロと中に崩れ残った。それを指で掻き出している俺に、蓮池が眉根を寄せる。
「買ってきて自分で変えることが出来るものなの?」
「……」
なぜそんなことも知らない? それとも女の子は知らないものなのだろうか。
「大したことじゃないだろ。これと同じのを買って来て、ここにはめ込んで、で、ナット締めて……」
「どこで売ってるの? パッキングっていくつも種類があるものじゃないの? はめ込むってどうやるの?」
「どうって……」
「えー。彗介くん、助けてくれない?」
「……」
俺の良くない癖だと思う。
お節介と言うか、特に彼女がいるのに別の女の子に対してなら尚更だとも思う。
だけど、どうにも性分と言うか。
「わかったよ。買いに行くの付き合ってやるよ」
放っておけないじゃないか。目の前で困ってるのに。
「えー、ホントー? やったあー」
はあー。
この、頼られると弱い性分は何とかしないといつか面倒を引き起こすような気もする……。
蓮池と一緒に新宿にある大型生活雑貨店に行くと、蓮池は大喜びした。どうやら東京を余り知らない彼女は、近場にこんな便利なものがあることを知らなかったらしい。ただし、少々高い。俺はマニアックなものを買う場合以外は出来るだけ遠慮することにしている。
水道のパッキングを無事入手して再びアパートへ戻ると、蓮池が見守る中、水道を元通りに組み立て直して作業は片付いた。実際問題、大した作業じゃないんだが。
「きゃー。凄ーい。男の子だねー。助かったー、かっこいいー」
……。
決してかっこいい要素がどこにもない些末な作業で、これほど喜んでもらえれば俺だって嬉しかったりはする。
「これで多分しばらくは持つだろ。もう分解するなよな」
水道の元栓を開けて、水がちゃんと出るかどうかを確認すると、俺は蛇口を締めて立ち上がった。蓮池が両手を組んで神様にお願いするようなポーズでキラキラと俺を見上げた。
「本当にありがとうッ」
「いえ……」
「やっぱり男の子がいると助かるね」
男だ女だと言う作業をしたつもりはないが、女の子はやっぱりこういう作業は苦手なんだろうか。
そう思うと、少しだけ蓮池が可愛くも見える。
「あ、そう」
妙に大喜びをされてしまっているので、こちらも何だかどうして良いのかわからず、照れたせいでそっけなくなった。バスルームを出て、蓮池に借りたタオルで足を拭く。俺に続いてバスルームを出た蓮池が、捲り上げていたジーンズの裾を下ろしている俺を見下ろした。
「ねえ、彗介くん」
「ん?」
「この後、何か用事とかあるの?」
「いや、別に」
夜のバイトも休みだし、PRICELESS AMUSEのスタジオが入っているわけでもない。一人で部屋でヘッドフォンでもしながら、作りかけたまま放置してある曲の続きを考えようかと思っているくらいだ。
ジーンズの裾を整えて体を起こすと、蓮池がにこーっと微笑んできた。
「じゃあさ、お昼まだでしょ? 良かったら一緒に食べに行こうよ」
「え」
「お礼に奢るから。わたしが」
「い、いーよ、別に。大したことしたわけじゃないし」
「そんなこと言わないでよー。わたし、東京に出て来たばっかりで、まだ友達も他にいないんだよー。それにこの辺のことも良く知らないんだもんー」
とゆーか、じゃあ何でわざわざ東京に出て来たんだよ。しかも寄りによって俺の隣に。
「何だよそれ。お礼って言うより付き合わされるような気がするんだけど」
「お礼だってば、お礼。付き合ってよー」
言ってることがめちゃくちゃだ。
玄関にしゃがみ込んで靴を履きかける俺の背中を、蓮池がぐいぐいと引っ張った。まるで駄々をこねる子供のようだ。
「わかったよ。どっかその辺で良いんだろ?」
「うん。わーい。あ、ちょっと待ってね、上着持ってくるッ」
蓮池に押し切られる形で頷くと、蓮池がはしゃいだ声を上げて体を翻した。スニーカーを履き終えて立ち上がる頃には、ダウンジャケットに袖を突っ込みながら戻って来る。
「何かすーごい嬉しいー」
蓮池を引き連れてアパートの階段を降りると、背中の方から追いついて隣に並んだ蓮池が俺を見上げた。
「何が」
「だって、誰かと外食なんて久しぶりだし。それに、ようやく彗介くんに構ってもらえた気がするし」
「お前なあ……」
あのさあ、どきっとするじゃないか、そんなふうに言われると。何の気もないのかもしれないが、少し罪だと思うぞ、そのセリフは。
こうして見ると蓮池はそこそこ可愛いし、スタイルは文句なしだし、こんなふうに言われればそのうち勘違いする男が出てもおかしくない。
じとっと咎めるように見下ろす俺に、蓮池は大きな目を瞬いた。長い睫毛が上下に揺れる。
「何?」
「何でもない。何食うの。俺もそんなに知ってるわけじゃないよ、店」
「えー? そんなことないでしょー?」
「そんなことないけど、お前が今後使いそうな店があんまりわからない。俺が一人で行ったりするのって、定食屋とかになっちゃうし」
「おいしい?」
「うまいけど」
ついでに安いけど。
女の子が喜びそうな店ってのが、あんまりわからないんだよな。そりゃあ瀬名とこの辺の店にふらっと食いに出たりしたことだってあるけど、瀬名は……ああだし。まあ、そういうところがまた好きだったりするわけだが。
余計なことを考えて勝手に照れつつ、とりあえず大通りの方へ何となく足を向ける。蓮池も、まるで子犬のように俺を追ってついて来た。
「だったら、彗介くんが普段行くようなとこでいいよ」
「とか言って、行くなり『汚い』とか言われたらへこむんだけど、俺」
「何で彗介くんがへこむの」
「何となく」
「ぷぷぷ……でも彗介くんってへこむことあるんだ」
俺だって人間なんだが。
どういう意味だか良くわからないが、その言葉に俺は軽く片手で蓮池の頭を小突いた。小突かれた部分を両手で押さえ、なぜだかいやにへらへらと蓮池が笑う。
「何?」
「ううん」
「何だよ? 何にたにたしてるんだよ。気持ち悪いな」
「ひどーい。気持ち悪いことないでしょー。だって、だってさ」
「うん」
「……何でもない」
「はぁ?」
わけわからん。
呆れた視線を向ける俺に、蓮池は「へへ」と小さく笑った。その視線が道沿いにある小さな店にふと向けられるのを見て、口を開く。
「その店、俺は結構良く使う」
「お弁当屋さん? お惣菜屋さんかな?」
「弁当も売ってるし惣菜も売ってる」
「へえ。わたしも今度買ってみよー。あ、あのお店はおいしい?」
「あー……あれは、何度か買ってみたけど高い割りに今イチ」
「高いんだ?」
「さあ? でも結構良い値段すると思うよ」
特に目的の店を定めないまま、蓮池にこの辺の店で俺の知っていることをぼそぼそと話しながら歩く。良く考えてみれば、瀬名以外の女の子とこんなふうにゆっくり話したり歩いたりするのは久しぶりのような気がする。いや、別に必要もないんだけど。
「蓮池さあ」
基本的には住宅街なので、それほど多くの店があるわけじゃない。大通りにぶつかって、反対側に渡るために信号待ちで足を止めて、俺はふと気になっていたことを聞いてみた。
「何で引っ越してきたの?」
蓮池が目を丸くして俺を見上げる。そんなに驚くようなことだろうか。普通の疑問だと思う。
きょとんと見返していると、蓮池はやがて目線を逸らして唇を微かに尖らせた。迷うような目つきで、口を開きかけては閉じる。
「えーとね」
「うん」
「まあ、何て言うかさ、あのまま上島にいても仕方ないし」
上島と言うのは、俺たちの地元の地名だ。
「ふうん? 東京に出てきて何したいの?」
「おヨメさんになりたいのッ」
は?
「あほか」
「む。女の子の切実な夢を」
「そんなん地元でなれよ」
「だって」
信号が青に変わった。歩き出す俺にやや遅れて、蓮池のむくれたような声が追いかけて来た。
「離れてちゃ、距離が縮まらないんだもん」
「『離れてちゃ』? 何だ、それ」
横断歩道を渡りきって振り返ると、蓮池が何かを躊躇うような目付きで俺を真っ直ぐ見詰めていた。そんなふうに見られる覚えがないので黙って見返していると、蓮池は視線を泳がせて口を開きかけた。
「あのね」
「うん」
「あのー」
「何。……あ」
何気なく視線を外した俺は、その先に瀬名がとても気に入っていたパスタ屋を見つけて小さく呟いた。一応パスタ屋らしく、しょぼくはあるけどお洒落風に努力をしている気配はあって、汚くはない。安いわりには旨く、女の子の一人客なんかも時折見かける。これは蓮池も気に入るかもしれない。
「え? 何?」
俺の意識が逸れたことに気づいたのか、蓮池も俺の視線を追って首を傾げた。
「あそこのパスタ屋は結構旨いよ。蓮池も気に入るかも」
「へえ、そうなの?」
「うん。俺の彼女も凄い気に入ってた」
「……え」
「え?」
小さな声が不意に硬くなったように聞こえて、蓮池を振り返る。
蓮池は驚いたように表情を凍りつかせて、目を見開いたまま俺に視線を戻していた。
「どうし……」
「彗介くん、彼女、いたの?」
「へッ?」
注目すべきポイントはそこじゃなかったんだが。
そう思いながらも事実なので、頷く。少し照れ臭い。
「うん、まあ」
「嘘ぉッ? だって前、いないって」
「いつ言ったっけ? そんなこと」
横断歩道を渡りきったまま足を止めてしまっている間に、信号は再び赤に変わった。車道を車の列が通り過ぎていく。巻き起こる風に、蓮池の長い髪が緩く舞い上がった。
「だって……お家に帰って来た時に……」
お家?
ああ。夏に実家に帰った時――蓮池に最初に会った時か。
あの時は結構話してはいるから、覚えていないけどそんなことを言ったのかもしれない。事実、あの時はまだ瀬名と付き合っていなかったわけだし。
「いーだろ、別に。俺に彼女が出来たら変かよ」
わざと鼻の頭に皺を寄せながらひねた口調で言う。蓮池は硬い表情を崩さない。
「あん時はいなかったんだよ。あの後出来たの」
「嘘ぉ……。わたしが東京に遊びに来た時は?」
「あの時はいた。ああ、お前会って……」
「嘘でしょお……」
あのライブに来ていたことを言おうとして、遮るような、俺の言葉を聞いていないような蓮池の言葉に口を閉ざす。
あれ? 何か蓮池、変だけど。
変、だよな?
あれ? え? 何で?
何だか状況が良くわからない俺の前で、蓮池が突然すとんとその場にしゃがみ込んだ。そのまま、しゃがんだ自分の膝を抱えるようにして俯く。え? え?
「蓮池? どうし……」
「先に言ってよおおおおお。何の為に一大決心して……」
「は? あの」
「わたし、もう東京に出てきちゃったじゃないのよおー」
「はあ。あの、それが?」
「『それが?』じゃないわよッ」
しゃがみ込んだままでぐいっと顔を上げた蓮池は、何だか涙混じりの怒ったような表情を浮かべて俺を睨みあげた。睨まれる理由がわからない。
焦りつつ言葉のない俺の前で、蓮池は俺を睨みつけるようにしたまま、怒鳴るように言った。
「わたし、彗介くんの彼女になりたかったのにッ」
「……」
……はー?
◆ ◇ ◆
バスルームから、シャワーの音と一緒に瀬名の鼻歌が流れて来る。
瀬名の部屋でぼーっとテレビの画面を眺めていた俺は、それに気がつくと一人で笑った。瀬名の機嫌が良いと、何だか俺も嬉しい。
それからテレビのチャンネルを回し、つまらないのでスイッチを切った。ステレオの電源を入れてみる。再生ボタンを押すと、俺にはわからないR&Bの曲が流れて来た。
瀬名って、R&Bが好きなんだろうな。CDラックを指先でなぞってみると、多いような気がする。
――彗介くんの彼女になりたかったのにッ!
CDを一枚抜き出してライナーノーツをつらつらと眺めていると、なぜだか急に先日の蓮池の声が脳裏に蘇った。
……蘇って、どきっとした。
「だってわたし、彗介くんが好きなんだもん」
「何だよ、それ。って言うか、お前、俺のこと良く知らないだろ」
あの日、信号のそばで足を止めたまま、動揺して言う俺に蓮池は微かに頬を膨らませた。
「知らないよ。それが何?」