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Distance〜夢までの距離〜  作者: 市尾弘那
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第9話(1)

 がたッ……がたがたがたッ……。

 どこか遠いところから音が聞こえる。

 眠りに沈んでいた意識の中でそう考えて、既視感を覚えた。

 何だっけ……前にもこんなこと……ああ、そうか。隣の人が引っ越していった時だったか。あの時は腕の中に瀬名がいて、「何してるんだろう」とか言ってて……。

 そんなことを考えている間にも物音は続き、時折振動さえも混じる。まさにあの時と同じような感じで、俺は眠っていられずに目を開けた。

 うるさい。

 布団の中から腕を伸ばして、目覚まし時計を引き寄せる。眠い目で時間を確認すると、13時を回ったところだった。

 こんな時間に寝ている俺が悪いので、「静かにしてくれ」と言えた義理ではない。6時ごろに家についたとは言え5時間近く寝てるんだから良しとしよう。

 あくびをして体を起こすと、俺はぼんやりと隣の物音に耳を傾けた。

 がたがたと言う音と若い男性の怒鳴り声。複数の足音。

 どうやら、引っ越していって空き部屋だった隣室に、今度は誰かが引越しをしてきたらしい。関係ない。

 布団から脱け出し、顔を洗う。歯磨きをしながら、俺はぼんやりと電話を眺めた。

 瀬名、どうしてるかな。

 年末はあのクリスマス・イブを最後に瀬名とは会えなかった。年が明けてからも、かれこれ一週間ほど連絡がついていない。

 電話をかけはするものの、不在のことが多いようだ。瀬名が俺に連絡をくれているのかどうかは、わからない。

(『GIO』に行ってみるかなー)

 どうしてるんだろうな。今、電話してみようか? 通常通り『GIO』に入っているとすれば、まだいる可能性もないでもない。いない可能性もあるけど。

 隣の部屋に家具なんかを運び入れる小刻みな振動を感じながら歯磨きを終えると、俺は受話器に手を伸ばした。指が覚えてしまった番号をプッシュして、しばし待機。

 プルル……プルルル……。

「……」

 耳元で繰り返されるコール音にやがて飽きて、俺は受話器を置いた。

 やはり買うべきなのか、携帯電話。

「何でそんなに忙しいんだろうな」

 小さく呟くと、一緒に深々とため息が漏れた。

 まあ仕方がない、けど。

 ため息を落としながら布団を片付けて、とりあえずテレビをつける。夜のバイトまで三時間弱。今日は別段しなきゃならないこともない。暇だ。

 しばらくそうして煙草片手にテレビを眺めている間に、隣の引っ越しは片がついたらしい。まだ何やら物音は聞こえるが、組織立った騒音ではなくなったようだ。個人レベル。家主が片付けをしているんだろう。

 どんな人が引っ越して来たんだろうな。

 ほんの少しだけ、興味をそそられた。

 どんな人でも別に構わないのだが、希望があるとすればあまり神経質じゃないとありがたい。何せわけのわからない時間に出入りをしたり、風呂に入ったりするので、生活雑音がこと細かに気になる人だと少しつらい。

 身勝手なことを考えつつ、空腹を覚えた俺はテレビを消して立ち上がった。『EXIT』が休みの日は、これが難点だ。

 金もないしなあ……コンビニは敷居が高いよなあ。と言って、食材を買って来て料理をする気にはなれない。大体、俺の部屋にある調味料類は一体いつ購入したものなのか記憶にない。危険だ。

 考えながら、ジャケットに袖を通し、鍵を手の中で鳴らしながら玄関へ向かう。スニーカーに足を突っ込みながらドアを開けたところで、ちょうど隣の部屋からもドアの開く音が聞こえた。何気なく顔を向け。

 向けて。

「……ッ?」

 言葉を失った。

「あ、彗介くん! いたんだッ」

「は、すいけ……?」

 一瞬で頭の中が混乱状態に陥る。

 俺の目の前に立ってにこにこしているのは、間違いなく蓮池麗名だった。

「あれ? え? 何、お前、何で……あれ? 知り合いとか……?」

 言いながら、頭のどこかで答えがわかってもいたんだろう、多分。

 にこーっと白い歯を覗かせて、蓮池は朗らかな笑顔で、俺に答えて見せた。

「引っ越してきたんだ。お隣さんだね。よろしくー」

 う……。

「嘘だろ?」


        ◆ ◇ ◆


「如月、今日何時まで?」

「今日は23時半上がり」

 蓮池が俺の隣に引っ越して来てから一週間ほど経過した。

 今のところ、平穏だ。

 と言うか、蓮池の方もバイトを探したり、家の環境を整えたりで外出していることが多いみたいだし、俺は俺でろくすっぽ自分の家に寄り付かないことが多かった。縁がない、と言うのが一番正しい。

「ふうん……お前、最近多いよな」

「何が」

「当日早退とか、欠勤とか」

 夜のバイト『ELLE』で同僚の北島にそんなふうに言われ、返す言葉に詰まる。その通り、俺は一月に入って『ELLE』の早退と欠勤が増えた。

「ま、別に俺はいーんだけど。上がさ、ちらっと言ってたから、やべーのかなと思って。一応」

「……さんきゅ」

「如月は長いから平気だと思うけどさ、気をつけろよ。何か言われっかも……あ、はーいッ」

 壁際でぼそぼそと話していると、客が手を上げた。反応して俺のそばを離れていく北島を見送って、俺は微かに視線を泳がせながら吐息をついた。

 やべー、か。まあ、真面目な勤務態度とは言えないよな。自分でわかっている。そして、万が一クビになったら困るのは俺だってことも、わかっている。

「すみませーん。おしぼり下さーい」

「はい」

 接客をしている女の子に言われておしぼりを持って行くと、客の男がにやついた嬉しそうな顔で女の子にしきりと何か話しているのが視界に入った。

 一礼して下がりながら、「こうなりたくないな」と思う反面、「しょーがねえだろう」と思う俺もいる。

 厳密に言えばどんな種類の感情なのかはともかくとして、好意ある相手に会いたいと思うのは、必然だろう。

 こうして店に足を運ぶ男性客だって、元々は暇つぶしとか下心とか興味本位とか付き合いとかいろいろな理由で来たんだろうが、気がつけば特定の女の子の為に熱心に通うようになっている客だっている。

 擬似恋愛かもしれない。だけど、それだって好意を持っていることに変わりはない。

 会いたいから来るんだ。一緒に時間を過ごしたいと思うから、金を使って足を運ぶ。

 自分のバイトを削って瀬名と会う時間を作っている俺は、この親父たちとどう違うんだろうな。

 一瞬、自嘲的にそんな考えが過ぎって、俺は軽く頭を横に振った。

 あほか。全然違うだろ。付き合ってんだ。一方的に俺が会いに行っているわけじゃない。双方合意の元で会っていて、「会いたいのは本当は俺だけなんじゃ?」とか思うと言うわけでもない。

 ただ、俺の方が時間が動かせるから。

 ただ、俺の方が融通の利く生活環境だから。

 それだけだ。

 俺が最初に約束したんだ。「俺が合わせる」って。

 ……一月に入って、瀬名は劇的に時間がなくなった。

 理由はいくつかあるようだ。

 まず、出演バンドの数が増えてきた。一日のブッキング数が増えると言うことは、瀬名の勤務時間が延びるということだ。瀬名の出勤時間は早くなり、退勤時間は遅くなる。

 次いで、小林さんの手伝いの仕事が増えていると聞いた。

 遠野の結婚式の頃に彼女が手伝った、何とか言う女性シンガーの仕事をちょくちょく手伝わせてもらっているのだそうだ。それによって、彼女は『GIO』での仕事を減らし、外部の仕事へ出かけ、一層不規則な生活をする日が増えた。

 そして、休みの日がことごとく潰れているせいで、瀬名の疲労も増えた。仕事終わりに俺と会うような元気がない日も。

 そもそも、女の子は男と違って「身一つで泊まっても別にいーや」と言うわけにはいかない。……らしい。

 いろいろと手持ちのものが必要なことも多く、これまで瀬名は仕事終わりに俺の部屋に泊まると、翌日仕事前に自宅に一度帰っていた。でも今は、その元気がない。

 だからせめて俺が瀬名の部屋へ行くことが増え、瀬名の都合に合わせなければ会えないのでバイトを急遽削ることが増えた。

 不満があるわけじゃない。ずっとこんな生活が続くわけじゃないだ……。

(それって、どういうことだ?)

 『今の生活が変わると言うことは、どういうことなんだ?』

 自分の考えに、俺は少し眉を顰めた。

 瀬名の本来の夢に近いのは、『GIO』での仕事よりも今手伝っているシンガーの仕事だ。それが叶えば、生活は不規則になっていく一方だ。

 だとすれば、『今のように俺が瀬名に合わせる生活』でなくなって会える日が増えるはずがない。

 これで、もしも俺が自分の夢を叶えた場合、どうなるんだ?

「如月」

 自分で投げ掛けた問いに対する回答が見つかる前に、北島が俺の思考に割って入った。はっと顔を上げる。

「そろそろ上がりだろ」

「あ、ああ。うん。そうだな。ごめん」

「いーって、俺は。ま、あんまり上の反感を買わないように気をつけてくれよな」

「うん」

「お前にいて欲しいしさ」

「さんきゅ」

 ……考えるな。

 今、考える必要があることじゃないんだから。


 『ELLE』を出て瀬名の家に向かった俺は、その部屋にまだ灯りが灯っていないのを見て、部屋の前で足を止めた。

 合鍵はもらっているが、無機質なドアの向こうにある、瀬名のいない瀬名の部屋に入る気になれなかった。

 瀬名の住むアパートは三階建てで、綺麗とは言いにくいものの俺のアパートほどひどくもない。

 瀬名の部屋に背中を向けて、通路の横についている柵に体を持たせかける。ここからアパートへ続く細い路地が見下ろせる。

 白い息を吐きながら、俺は暗い夜空を見上げた。最寄の新大久保駅付近は韓国系の料理屋なども多いから、どこか遠くの方から喧騒が風に乗って微かに届く。冷たい空気を吸い込むと、体が冷えると共に浄化されていくような気がする。

 しばらく、ただそこでぼんやりと夜空を見上げながら、無為に時間が過ぎるのを待った。

 瀬名が何時に帰るのかは知らない。ただ、帰ってくるとは聞いているから、行くと言ってある。

 ……会いたいよ。

 どれだけ時間を過ごしても、満たされることがないんだ。

 まだ足りない、まだ足りない――そばにいればいるだけ、次の飢餓感が増す。

 こんな感覚は、多分初めてだ。

 今まで好きになった人も、付き合った人もいるけれど、そして真面目に想っていたつもりはあるけれど、こんなふうに切羽詰ったような気持ちになったことは多分ない。

「如月くんッ?」

 深夜の一時を過ぎて、潜めた瀬名の声が夜道に響く。見下ろせば、暗い路地上からこちらを見上げる瀬名の姿が、街灯に照らされて微かに見えた。

 体はすっかり冷え切っていたが、逆に心がほっと温かくなる。

「どうして外にいるのッ」

「外で、待ってたかったから」

「馬鹿!」

 柵に寄りかかったまま、瀬名が駆けてくるのを見下ろして笑みが漏れる。

「風邪ひいちゃうじゃないッ」

「ひかないよ」

 馬鹿だとわかっている。

 情けない自分を知っている。

「おかえり」

「……ただいま」

 だけど、どうにもならないんだ。自分でも止められないんだ。

 情けなくて良い。彼女に振り回されていると他人に思われてもいい。

 自分の何を削っても、今は、瀬名に会いたい。


        ◆ ◇ ◆


「きゃーッ! 彗介くーんッ! 彗介くーんッ!」

 もうじき世間はバレンタインらしい。

 二月に入って、クリスマスの頃とはまた違う浮かれた空気が街を彩り始めたその日の昼過ぎ、甲高い悲鳴がアパートに響いた。

「うるせえ」

 朝方バイトを終えて帰ってきた俺は、小さく毒づきつつ布団から這い出した。

「彗介くーんッ! いないのおーッ? きゃーッ、どうしよーッ」

 隣室から蓮池の声が響く。同時に、何やら激しい水音が聞こえているような気がする。

 嫌な予感はしたものの、名指しで叫ばれては黙殺するのも居心地が悪い。と言うか、そんな響く声で俺の名前を連呼するのはやめて欲しい。

「何なんだよ、もう」

 ぐしゃぐしゃと寝癖のついた髪をかきあげて、仕方なしにサンダルを引っ掛けて外へ出る。

 途端、水音は盛大なものに変わった。

「彗介くーんッ! 誰かあーッ」

「うるさい、何だよ」

 このアパートは、風呂場が通路沿いに配置されている。そして通路沿いに風呂場の窓がある。

 もちろん擦りガラスだし、小さなものだし、鉄柵なんかもついてはいるが、入浴中にここを全開にする勇気は男の俺にもない。

 が、水音と蓮池の悲鳴が響いているのは、間違いなく風呂場の中からだった。窓は全開になっているが、万が一全裸でいられてもありがたい……じゃない、困るので、一応中が見えないような位置で足を止めて中に声をかける。

「あ、彗介くんッ。いたんだッ、やっぱりッ」

「いたよ」

「来てくれたんだあ」

「あれだけ連呼されたら来ないわけにいかないだろ」

 世間に恥ずかしくて。

 中に向かって声を呆れた返答をしている間も、激しい水音は続いている。何をしているんだろう。中が見えないので、と言うか見ていないので、今ひとつ蓮池が何をしているんだかわからない。

「お願い、助けてぇ」

「何してるんだよ? 中、覗くぞ? 服着てないことないよな?」

 念の為に確認してから、中を覗く。

 と、蓮池が蛇口を押さえたまま全身びしょ濡れになっているのが見えた。服を身につけているのは確かだけど、白い長袖Tシャツがずぶ濡れで全身に張り付いているので、ある意味着ていないより……何と言うか。

「蛇口が外れてえええ。水が止まらないのおおおお」

 窓越しに、半泣きで訴えてくる。どうやら風呂桶に設置されている蛇口のパイプがもげて、そこからドバドバと水が盛大に溢れ出しているようだ。良く見ればハンドルも風呂場の床に転がっている。蓮池は、パイプが外れて行き先をガイドできない水を、片手に持った洗面器で半ば無理矢理風呂桶に誘導していた。水は半ば以上まで溜まってきている。

「……何してんの」

「何してんのじゃなくてえええ。何とかしてえええ」

 引っ越して来て静かなものだと思ったら、これかよ。

「ちょっと待ってて」

 仕方なく言い置いて、俺はその場を離れた。ここのアパートは、各部屋の水やガスの元栓が通路沿いの壁に埋め込まれている。元栓を締めれば、とりあえず水が止まるのは間違いない。もちろん風呂場の水だけが止まるわけじゃないので、応急処置でしかないが。

 カシャンと簡易ロックを外して、水の元栓を締める。

 窓から漏れてきていたドバババババと言う音が次第に小さくなり、俺の手の動きに合わせてやがて止まった。風呂場から「うわあああ、やっと止まったあああ」と言う蓮池の安堵の声が聞こえてくる。

 それから、何かゴソゴソバタバタと言う音が響き、続いて部屋のドアが開いた。濡れたTシャツを体に貼り付けたまま、蓮池が外に出て来る。

「彗介くーん、助かったあ。ありがとおー」

「イイ年して水遊び?」

 とりあえず鉄扉を閉じながら立ち上がる。蓮池が唇を尖らせた。

「壊れちゃったの。ねえ、どうしよう?」

「どうするもこうするも、直さなきゃ元栓開いた途端に元通りだろ。って言って、締めとくわけにはいかないし」

「そうだよねえ。あれ? 今ってトイレも行けないんだっけ?」

「そうなる」

「えー。それは困るなあ」

 とゆーか、俺も目のやり場に困るので、早いところ着替えてきて欲しいのだが。

「彗介くん、直せる?」

「管理会社に連絡しろよ」

「するけどー。だって、直しに来てくれるまで水が使えないんでしょ? 彗介くんの家にトイレとか借りに行こうかなあ」

 馬鹿言え。

「だって直し方なんかわかんないもん」

「……とりあえず見てやるからさ」

 両手を腰に当てて胸をそらすようにすると、豊かな胸を包んでいるピンク色の下着が丸見えだ。羞恥心と言うものがないのか。それとも元栓を締めたお礼に目の保養なのか。

「いいから着替えて来いよ……」






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