第8話(2)
◆ ◇ ◆
「ねぇー。まだ付き合ってんのぉ?」
急ぎ足で歩く俺の後を、同じくせかせかと小走りに、千夏が追いかけてくる。
「あのな……そもそもまだ、3ヶ月しか付き合ってないんだぞ」
「そんだけ付き合えば十分じゃね? そろそろ、もっとテンションが高い女の子と付き合いたいなあとか思わない?」
「思わない」
「じゃあ千夏の友達を紹介したげよーか。るみたんが彗介のこと、かっこいーって言ってたよ」
「……」
こうなってくると、こいつが俺をどうしたいのかが良くわからなくなってくる。
これじゃあ単に、瀬名と別れさせたいだけみたいじゃないか。
「何なんだよそれ……」
ついてくるので仕方がない、速度を落として並んでやると、千夏は満足したように俺の腕を掴んで、俺を見上げた。
「大人しく俺の幸せを祈ってくれよ」
「祈ってるからこその意見でしょ」
「俺は瀬名と付き合ってて幸せなんだから、いーんだよそれで」
「あたしと付き合った方が幸せだってー」
お前、さっきはそんなこと言ってなかったじゃないか……。
千夏を引き連れたまま、瀬名と待ち合わせているCD屋の前まで辿り着いてしまい、俺はそこでぴたりと足を止めた。
「瀬名に向かってそんなこと、死んでも言うなよな」
「言わないよ、多分」
「多分て何だよ。……んじゃ俺行くぞ」
「えぇ〜? 千夏とお茶して行こうよ」
「馬鹿言え」
リハと本番の僅かな時間に待ち合わせてんだ。ただでさえ少ない時間を削ってくれるな。
ごねる千夏を置き去りにすると、俺はCD屋のあるビルに入った。エスカレーターで4階まで上がると、瀬名の姿を探す。
CD屋は混んでいてすぐには瀬名の姿を見つけられずにいると、先に俺を見つけてくれた瀬名が、俺の背中をツンとつついた。
「おつかれ」
「ごめん、待たせて」
振り返ると、瀬名がくしゃりと無邪気に笑った。
「ううん。どうせひとりの時とかも、CD屋とか楽器屋に行くこと、少なくないし」
「そっか。……駅前で千夏に捕まった。後で『GIO』にも来るんじゃないか?」
俺の言葉に、瀬名が小さな目をくるくるさせて顔を上げる。
「千夏さん? それで、彼女はどうしたの?」
「このビルの前に置き去りにしてきた」
「ひどいなあ」
「連れて来たってしょーがないじゃないか……」
生憎と、僅かな時間しかない彼女とのデートに他の女を連れてくる神経は持っていない。
「何か、いーのあった?」
瀬名の小さな手に、手を絡める。
「いーのって言うかねえ……知ってるバンドのCDが……」
「え?」
瀬名に引っ張られるままについて行くと、売場の隅にあるインディーズコーナーの更に隅に、小さなPOPがついているCDが見えた。
それを見て、どくんと心臓が音を立てた気がした。
(セレスト……)
「如月くんて、セレスト、知ってるんだっけ?」
「あ、うん……」
曖昧に頷きながら、CDを手に取る。
それそのものは、さして目新しいものではなかった。ライブの時の物販で置いてるのと同じ物だし、知り合いがやっているインディーズレーベルが、お情けで出してくれたようなものだと笑っていたのを覚えている。
目に留まったのは、ついているPOPの方だった。
『大久保サイクロンレーベル オーディション最優秀突破!! 来春にはアキシアから初のメジャーアルバムが!!』
(……)
最優秀突破、か……。
Blowin'がリタイアせずにいたとしても、結果がどうだったかなんてわからない、そんなことはわかってる。
たかだか選考者のひとりがちょっと気に入ってくれただけ、それで有頂天になるほど馬鹿じゃない。
だけど、一抹のショックと悔しさがこみ上げるのは、否定出来なかった。
セレストは、うまい。良いバンドだ。川崎だって他のメンバーだって良い奴だし、頑張ってる。認められる、祝福出来る――なのに。
……この、焦燥感は、どうしたら、いいんだ?
「如月くん?」
セレストのCDを手に取ったまま動かない俺に、瀬名が小首を傾げた。はっと我に返って、CDを棚に戻す。
「あ、ごめん。何でもない。……メシ、食うんだろ? 行こうか」
瀬名を促して、店を出る。エスカレーターで下へ下りながら、俺は少し笑ってみせた。
「やっぱ少し、焦るな」
「あ……ごめんね」
瀬名が、困った顔をする。
「いや、そういう意味じゃなくて。セレストがサイクロン通ったってのは、聞いてたし」
「え? そうなの? ……サイクロンって、ライブハウスだよね? オーディションなんか、やってたんだ?」
ああ……そこから知らないのか。
ビルを出て、歩き出す。この辺りには『GIO』の関係者もいるかもしれないから、手を繋ぐのはやめて俺は両手をポケットに突っ込んだ。
「まあ……Blowin'が活動休止する前の話だけどね。詳しくは忘れたけど、アキシア傘下のどこだかとサイクロンが共同でレーベルを立ち上げるとかで……結構、いろんなレコード会社が注目してたとかしてないとか」
「そうだったの?」
「うん。だから、もしそれでこぼれても、どっかに繋がりが出来るかもしれないとかって聞いたよ。……誰だったかな。そのオーディションに参加して滑った誰かが、いくつかのインディレーベルからオファーみたいなの来たとかって聞いたし」
「……詳しいね」
その言葉に俺は、微かな笑顔だけで応えた。それを見て、瀬名が目を見開いた。
「もしかして……」
「そ。出してた。Blowin'も」
「そうだったんだ……。知らなかった、わたし」
「言ってなかったから。……メシ、どこで食うの?」
このままだと、瀬名がメシを食いそびれる。俺は、『ELLE』についてから賄い頼めば済むんだけど。
「あ、じゃあ……コンビニでいーや。公園、行こ?」
「おっけ」
手近なコンビニで食料を購入すると、裏道に入って小さな児童公園へ向かった。ぶら下げたビニル袋をがさがさ言わせながら、瀬名が機嫌良さそうに俺を見上げた。
「わりと、如月くんと公園でごはんって、好き」
「へ? 何それ」
「何か遠足みたいじゃない。ひとりだと寂しいけど、ふたりだと嬉しい」
……あああ、もう……。
照れたような瀬名の顔が可愛く、そんなささやかな言葉までが愛しく、頭を軽く抱き寄せて撫でてやると、瀬名もはにかんだように目を細めた。
「幸せだな〜。わたし、如月くんと付き合えると思ってなかったもんな〜。あ、あそこのベンチ、空いてるッ」
完全な殺し文句を言うだけ言って、瀬名が弾むように駆け出した。はしゃぐ後ろ姿に微笑みつつ、その後をゆっくりと追う。
不意に、冷たい風が俺と瀬名の間を隔てて通り過ぎ、一瞬顔を顰めた俺に、ベンチを確保した瀬名が片手を振った。
「早く〜」
「はいはい……」
瀬名に促されるまま、ベンチに並んで腰を下ろす。辺りには余り人気はなく、12月の空は既に日が沈み始めていた。
燃えるような太陽と、暮れなずむ藍色が空にコントラストを彩っている。
「寒くなってきたな……」
「そうだね。あ〜、お腹すいたよぉ〜」
言いながら情けない表情を浮かべた瀬名は、じたじたと足を動かしながら俺が差し出したビニル袋を受け取った。
がさがさと音を立ててビニル袋を覗き込んだ瀬名は、菓子パンを取り出しながら一瞬不自然に動きを止め、そして、遠慮がちに尋ねた。
「ねえ……」
「ん?」
「それで、その……Blowin'は、どうだったの?」
一瞬聞かれている意味がわからず、それからその顔を見て、さっきからずっと聞きたかったのだろうと言う気がした。
苦笑して、短い答えを口にする。
「リタイア」
「え? あ……」
一瞬不思議そうな顔を見せた瀬名は、Blowin'の活動休止と被っていることに気がついて、目を丸くした。それから、しみじみとため息をつく。
「そっかぁー……そーゆーことかあ……」
「『そーゆーことか』って?」
「だって……セレストが最優秀でしょ」
サンドウィッチのセロファンを剥いていた俺は、動きを止めて瀬名を見た。
それから、思わず吹き出した。
「贔屓全開だな……。セレストが聞いたら怒るぞそれ」
「贔屓で結構ですぅ。わたしは、『GIO』に出入りするバンドで、Blowin'が一番好きだもん」
「セレストだって上手いよ」
「上手いけど。各々の個性を理解してないメンバーがいるのも事実だもんね」
「ああ……バランスな」
「ん。まあ、それも目を瞑るくらい、上手いけどね。……でも、Blowin'が残ってたら絶対Blowin'が最優秀だもん」
言い張る瀬名がおかしい。
それが事実かどうかはさておいて、少なくとも瀬名がそう言ってくれることは、少しだけ、俺の心を軽くした。
「さんきゅ……。えこ贔屓100%でも、嬉しいよ」
「まあ、えこ贔屓100%だけどさ」
「否定しておこう、ここは」
「あ、怒られた」
菓子パンを幸せそうに頬張りながら、瀬名がくすくすと笑う。その手元から食べかけのパンを摘んで口に放り込むと、瀬名がふくれた。
「あーッ。わたし、大好きなのに、このパン……」
「罰」
「ただでさえ、少ないくらいなのに……」
「ん。確かに旨いな、これ」
「でしょ?」
俺の略奪から免れた残り僅かなパンにかじりつきながら、瀬名は機嫌良さそうに、また足をぱたぱたとさせた。それを見るだけで、優しい気持ちになる。
目を細めて眺めていると、瀬名がふいっとこっちを向いた。
「如月くんは、大丈夫だよ」
「え?」
「今はね、まだ、夢の途中にいるだけ。夢が叶うその道の、途中にいるの」
CD屋での、俺の不安を見透かしているかのような言葉だった。
夕方と夜の境目にいる空を見上げ、俺に……と言うよりは、どこか自分に言い聞かせるように。
「ねえ。『叶わなかった』って、どういうことなんだと思う?」
「え? どういう……」
「同じ『夢を手に入れていない』としたって、『夢を追っている途中の人』は、『叶わなかった』とは言わない。……『諦める』ことが『叶わない』の先に立つんだよ」
「……」
空になったパンの袋を丁寧に折り畳んで、それを指先で弄ぶ。
瀬名の横顔は、真摯だった。
「自分が諦めさえしなければ、夢は継続中――『叶わなかった』のは、『自分が諦めた』から。諦めなければ、夢はエンドレスだよ。……如月くんは、大丈夫。休憩してる、だけだから」
諦めさえしなければ、継続中――……。
瀬名を、思わず抱き寄せる。いや、抱き寄せると言うよりは……しがみ付くような形になった。
「如月くん……」
「怖ぇよ……」
「……」
何をしていても、常に心の片隅から消えることのない不安。
Blowin'が継続中でさえ時に胸を塞いだ不安は、今となっては時に眠りを妨げようとするほどに育つことがある。千夏にセレストの話を聞いてからは、より一層。
これは嫉妬か? 焦りか? そんなことを感じる自分に、嫌悪感が沸く。でも止められない。渇望しながら手の届かないものを手に入れようとしている姿を見れば……。
――……悔しいッ……!!
「このまま、どうなってくんだろうと思うと、怖ぇよ。胸の内側が、何かずっともやもやしてるな……重たい。息が詰まりそうだ」
この先に続く未来を見詰めれば、薄く曇りがかってしか見えない。
瀬名のそばにいるひと時だけが、そんなことを考えずにいられた。瀬名のそばにいることで安らぎを求め、彼女の強さを欲しがっている。
「如月くん」
瀬名の言葉で胸の内に押し込まれていた弱音を吐き出すと、瀬名が俺の背中に両手を回した。きゅっと軽く抱き締め返し、俺の頬に頬を寄せる。
「答えを焦らないで。今欲しいと思うことが、自分を追いつめる。すぐに手に入るものなら、きっと最初から欲しがってない」
耳元で囁くように――けれど、はっきりとした意志を持った言葉。
「すぐに手に入るものじゃない。そんなこと、わかってて努力してる。あなたも……わたしも」
「……」
「『手に入らないかもしれない』、そんなことを考えて、どうするの? 今すぐその答えを求めるのなら、それは『かもしれない』じゃなくて『手に入らない』よ。まだ、努力出来るでしょ、如月くんは」
「……うん」
「焦らないで。如月くんは、立ち止まっているわけじゃない。少し速度を緩めただけ。これから、亮くんが戻ってきた時には、そんなこと言ってられない全力疾走になるんだから」
少し体を離して俺の顔を覗き込むようにした瀬名は、人差し指で俺の頬をつつきながら、にこっと笑った。
心に染み込むような瀬名の言葉に、思わず、再び腕の中に抱き締める。……さっきよりも、ずっと、強く。
脳裏に、ここへ来るまでの人込みが過ぎった。
街に溢れ返る人々の姿。これだけたくさんいる人間の中で、瀬名と出会えただけでも感謝したいくらいなのに、こうして想い合えて、抱き締め合える。
それが、どれほどの幸運なのか。
歩く道が少し逸れただけで、人生が重なり合うことはなかったかもしれない。この世に生きる人の数を考えれば、それは目も眩むほどの確率で、その確率を越えて手をつなぎ合えた偶然を、どれほど感謝してもし足りない気がした。
「い、痛いよ〜……」
「ごめん」
と言いながらも離さない俺に、瀬名が笑う。
「何だ、口だけかー」
「うん」
俺も笑って答えながら、少しだけ腕の力を緩めた。
少なくとも、俺は音楽そのものをやめているわけじゃない。PRICELESS AMUSEで動いていることも随分力になっているはずだし、Blowin'ではわからなかったことにも気づけているはずだ。
それが、自分の力に繋がっていないはずはない。だとすれば、今の期間も無駄であるはずがなかった。
「瀬名に会えて良かった」
甘えている、んだろうな。
彼女の強さが、俺を叱咤する。
「なあに? それ」
「いや……何か、そう思った」
「ふふ。じゃあさ」
ようやく瀬名を解放し、食べかけのサンドウィッチを口に運ぶ。ペットボトルの蓋を捻りながらにこにこすると、瀬名は俺を覗き込むように少し前屈みになった。
「クリスマスは、ロマンティックにしてよね」
「……」
――えッ!?
思わず、動きが止まった。
黙って瀬名の顔を見返す俺をどう受け止めたのか、瀬名が冗談ぽく、小さく舌を出す。
「休み、取れちゃった」
「……え」
返す言葉が、完全に、浮かばない。
「あれ? あんまり嬉しそうじゃないなあ。付き合って初めてのクリスマスなんだもん。……あ、バイト?」
「いや……」
返す言葉が掠れる。
「夜のバイト? 昼間だけとか、夜だけとかだったら……」
「ごめん……」
嘘だろ……!?
瀬名の都合を確認してから、PRICELESS AMUSEのヘルプを受けなかったことを後悔した。
でも、クリスマスはどっちにしろ、ほとんど名指しの勢いで頼まれて……瀬名と約束をしていたとしたって断わりきれた自信はない。
「バイトじゃ、ない……」
「え? 違うの?」
瀬名が、訝しげに眉根を寄せる。
「ヘルプ……」
片手で口元を押さえながら、苦く言葉を押し出す。瀬名が一瞬何かを言いたそうな顔つきをして、それからそっと、吐息をついた。
「そっかあ……」
また、足をぱたぱたと動かす。
「ま、クリスマスイベントだもんね……。そっかあ……」
「ごめん、本当に」
拝むように手を合わせて、頭を下げる。今更、PRICELESS AMUSEを断わることは、俺には出来ない。
「あ、ううん。大丈夫。勝手に休みを取ったわたしが、悪いんだし」