第7話(1)
がたッ……がたがたがたッ……「おーい、そっち持てー。せーの」……がたがたッ……。
何やら隣の部屋が騒がしい。薄い壁の向こうと外から聞こえてくる物音に起こされて目を開けると、腕の中に瀬名がいた。
直接触れ合っている瀬名の滑らかな肌が気持ちよくて、そっと抱き締めたまま足を絡める。瀬名が小さく身動ぎをした。
「んー……」
「おはよ」
「おはよ……。何の音? 騒がしいね……」
とろんとどこか寝ぼけたままのような甘い声。それが可愛くて、幸せで、眠そうな瀬名に口付ける。
衣服を身につけずにぼんやりとまどろむ瀬名の姿は朝から挑発的で、あっさり誘惑に負けた俺は口づけながら瀬名の肩や背中を手のひらで辿った。瀬名が腕の中で、小さく可愛い声を上げる。
「ん〜……如月くん〜……?」
「何?」
聞き返しながら半身を軽く起こし、覆い被さるように口付ける。と同時に瀬名の胸元をまさぐる俺に、瀬名が急に目覚めたみたいに目を開けた。
「きゃ……朝からえっち」
無言でその意見を聞き流す俺に、瀬名が尚も試みた反撃は、俺の『その気』を停止させるには十分だった。
「そんなことしてたら、バイトに遅刻しちゃうから」
「……………………」
がくっと頭を瀬名の真横――枕に墜落させる俺に、瀬名がくすくすと笑うのが聞こえた。耳元でくすぐるような声に、顔を上げる。
「そんなに笑わなくても」
「そんなあからさまに落ち込まなくても」
未練がましく瀬名にもう一度キスをすると、俺はようやく体を起こした。仕事が午後からの瀬名は、まだ布団の中で俺を見送っている。
「瀬名、どうする? しばらくいる?」
「ん。如月くんが行ってからシャワー借りてく」
「了解」
初めて瀬名が俺の部屋に泊まりに来てから、2週間。
あれから瀬名は時に泊まってくれるようになり、つい先日には部屋の合い鍵を預けた。
互いがどこか見えずにいた互いの気持ちがようやく見えて、距離は以前より近づいたのだろうと言う気がしている。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、瀬名がまだ布団の中で体育座りをしているのが見えた。いつの間にか俺のTシャツをすっぽりと身につけて、まだ眠そうな顔をしながらこちらを見ている。かなり可愛い。
「何?」
「いや……」
「『朝メシくらい作れよ』って感じ?」
「最初から期待してない」
俺の返答に、瀬名は笑いながら枕を投げた。俺も笑いながらそれを避ける。
――ガタンッ。
途端、一際大きな音が隣から聞こえてきた。思わず瀬名と顔を見合わせる。
「……何してんの。隣」
「さあ……引っ越しかな」
複数の人がバタバタと行き交う音、時折かかる気合の声、階段を行き来するドスンドスンと言う足音がボロアパートをゆらゆらと揺らす。
俺の隣は、多分俺と同年代の男のひとり暮らしだったと思う。
俺と同じく不規則な生活をしているらしく、夜中に出てって明け方に帰ってくる物音がしたりもしていた。何をして生活しているかは知らないし興味もないが、わけのわからないのはお互い様だろう。
別に、交流があったわけじゃないし、大して感慨も覚えないままで俺はバイトへ行く支度を整えた。バイトの後にPRICELESS AMUSEのスタジオがあるので、肩にギターケースを引っ掛けると瀬名を振り返る。
「んじゃあ、鍵だけ宜しく」
「うん」
ふわあっとあくびをした瀬名は、布団の中から出て来て、俺を見送りに玄関口に立った。上だけTシャツを被っている姿で、綺麗な長い脚がその裾から覗いている。
「頑張ってね」
「ん。スタジオ、早く終わったら『GIO』に顔を出すよ」
「うん。……あ、そうだ。如月くん、来週の金曜とかって、バイト?」
くたびれたスニーカーに足を突っ込んで、瀬名を振り返る。玄関口に立ったままで、瀬名は俺を見上げながら小首を傾げた。
「来週……? うん……昼も夜もバイトだな。何で」
「そっか。……ううん。わたし、オフになったから、聞いてみただけ」
「そうなの?」
俺と瀬名は、結局今のところ『1日フリー』と言う日がない。それぞれはそれぞれにあるのだが、合う日がない。
「そっかー……」
なので、俺がバイトの日に瀬名が休みだと聞くと、何かひどく損をしたような気分になる。
ため息をつく俺に、瀬名がつま先だって口付けた。それから、笑う。
「ごめんね、平気。気にしないで。バイト、頑張ってね」
「うん……ごめんな。じゃあ……」
「いってらっしゃい」
――『いってらっしゃい』。
「……い、行ってきます……」
何となしにその言葉に照れながら、ようやく家を出る。
部屋の前に出てみると、狭い通路には冷蔵庫だの洗濯機だのが置かれ、頭にタオルを巻いた男性が数人、慌しく行き来していた。どこからどう見ても、引越しだ。どうやら俺の隣室は空き部屋になるらしい。
「あ、どうもすみませんねぇ。通れますか?」
「はあ……大丈夫です」
「おーい、人通る、人ーッ。下ちょっと空けろーッ」
「はーいッ」
「……」
俺が階段を下りる為に引っ越し屋らしき男性が数人、階段の下を片付けて並んだ。お出迎えをされているようで、何かいたたまれない。
「すみません……」
なぜか恐縮して階段を下りると、新宿駅へ向かう道を辿る。次第に増えていく人の流れの一部になりながら、あくびを噛み殺して、さっきの瀬名の言葉を思い出した。
(来週の金曜か……)
『右ハゲ』に破壊された俺の愛用ギターは、まだネックがぷらんとしたままだ。直す費用がないので、直っていない。
ついでに言えば、アンプのローンの残りもある。
おかげでバイトを増やしていて、実はこのところ、スタジオに入る必要がある日以外はバイトを休んでいない。
でもな……せっかく瀬名が休みなんだから、何とかならないだろうか。いやでも来月の給料でギターを直したいし……1日くらい、休んでも平気か? 2つとも休むのはきついかな……どちらか片方だけなら……昼の『EXIT』だけ休んで、夜の『ELLE』を早番からラストまでのフル勤務にすれば結構……。
煩悩に侵されつつ、『EXIT』のドアを開ける。Blowin'と言う、俺にとって生活の拠り所のようなものが動いていない今、俺の視点はどうやら久々に出来た彼女に向いてしまっているらしい。ここまで恋愛に傾倒することが、多分これまでの人生でなかったんじゃないかと思う。
「おう。ケイちゃん、おはよう」
「おはようございます。……あの、マスター」
「んん〜? 何だい〜?」
迷って、迷って、迷いながら、迷う。
頭の中で給料計算をしつつ、結局俺は、瀬名との時間作りたさに、口を開いていた。
「来週の金曜日、休み貰うことって、出来ますか」
「来週? ちょっと待ってね。……ああ、うん、大丈夫だよ。何か用事が出来たかい」
「ええと、まあ、その、はあ……」
ちょっとかっこ悪くて理由は言いたくない。
曖昧に口篭ってカウンターの内側に回りながら、それでも現金なもので休みを確保してみれば嬉しくなった。
木曜の夜は、北条と藤谷とスタジオに入ることになっているから、夜のバイトが最初からない。スタジオが終わって、瀬名の仕事が終われば、そこから翌日の夜までは、一緒にいることが出来るだろう。
◆ ◇ ◆
「ちぃーっす。すいてますねえー。経営、大丈夫なんですかあ?」
かららん、と言うドアベルの音と共に失礼なことを言ってのけたのは、藤谷だった。
昼を過ぎて13時になった時には店に客の姿はなく、今日はいつもよりピークが過ぎるのが早かった。そういう日もある。
「いらっしゃい」
無礼な藤谷の言葉に怒りもせずに、マスターはにこにこと藤谷にカウンター席を勧めた。素直に従う藤谷の前に、呆れながらチェイサーのグラスを置いてやる。
「お前、言葉を選べよ……」
「え? 俺、何かまずいこと言いました?」
自覚がないところを尊敬する。
「何にする?」
「じゃあブレンドで。思音さんは?」
「もうじき来んだろ」
マスターが入れてくれたコーヒーカップを藤谷の前に差し出してやりながら、何となくドアに目を向けた。ガラスの扉からは、外の様子を見ることが出来る。
今日藤谷が来たのは、別に偶然じゃない。俺がバイトの間に、ここで待ち合わせた。北条が来るのもまた然りだ。
「んーで、当日はここ、借りちゃっていーんですよねぇ」
壁にかかったカントリー調のカレンダーを眺めながら尋ねる藤谷に、マスターが煙草をくわえながら頷いた。通常マスターは客がいる間は煙草を吸わないが、どうやら藤谷は客と見なされていないようだ。
「もちろん。他ならぬ亮くんの結婚パーティだからね。僕で出来る手伝いなら、してあげるよ」
「一応、費用は実費だけってことで……だから要はメシ代だよ。貸し切りで発生するマイナスは、勘定に含まないって言ってくれてるから」
元大企業を経営していたマスターが引退後の道楽で始めたサ店だから、最初から売り上げは大して期待していないらしい。懐が豊かな人は心も広い。
「んで、費用のカンパしてくれんのって、どのくらいいますかね」
「とりあえずは俺とお前、北条もオッケーって聞いてる。まだはっきりした話はわからないけど、瀬名と千夏、セレストがバンド単位、PRICELESS AMUSEもバンドで。今んトコ俺が確認取れてるのはそのくらいだな。後は千夏がナノハナのメンツに聞いてみるってところで止まってる」
遠野から、尚香ちゃんの誕生日に入籍だけで済ませると言う話を聞いたのは、3人で飲みに行ってから間もなくだった。
やはり、挙式だけでも予約や準備にそれなりに時間は必要になりそうだとのことで、予算の枠に制限がかかっていることから会場も「どこでも良い」と言うわけにはいかない。そうしている間に尚香ちゃんのお腹も目立ってくるだろうし、2人でいろいろと検討した結果そうすることにしたらしい。
電話が途中で尚香ちゃんに代わり、「いつか落ち着いてから身内だけでやっても良いんだし」と笑ってはいたけれど、俺にとっても親友と言える遠野の一大転機に何も祝ってやれないと言うのはやはり悔いが残りそうだし、マスターや藤谷に相談をしてパーティくらいはしてやろうと……まあ、そういう話である。
「ああ、僕もいくらか出させてもらうよ」
マスターが口を挟む。ポケットからメモ帳を出して書き込んでいた藤谷が、ぱっと顔を上げてマスターに言った。
「10万くらい?」
遠慮と言う言葉を知れ。
咄嗟に頭を叩いてやると、マスターが苦笑いをした。新郎の友人がここで働いていて、新郎とも顔見知りと言うだけで、この場所をタダで貸してくれる気概に大人しく感謝をして欲しいものだ。しかもマスターは、場所貸しだけじゃなくて当日の料理提供だってタダ働きになるんだからな。そうじゃなくたって、四六時中新郎にメシを食い逃げされてるってのに。
「んで、香典は、俺らは勘弁してもらうとしてー……」
「……」
誰が死んだんだよ?
「馬鹿。結婚祝いだよ。勝手に葬式挙げるなよ」
「あ、香典ってお葬式の時でしたっけ」
「常識くらいはわきまえてくれ、せめて」
俺がカウンターの仕切りにがくりとうなだれ、マスターが噛み殺した笑い声を上げたところで、ようやく北条が到着した。俺たちを見比べて小首を傾げると、切れ長の目を瞬きながら藤谷の隣に向かって歩いてくる。
「遅くなってごめん。どうしたの? 彗介」
「いや……藤谷の社会性に頭を悩ませていたところ」
「はあ?」
「しっつれーですねー、彗介さんてー」
「んで? どうするって? あ、マスター。あたし、カフェオレ下さい」
「はいはい」
「あ、そう言えばさ、彗介」
藤谷の隣に腰を下ろして上着を脱ぐなり、チェイサーを置く俺に向かって北条が思い出したように口を開いた。
「こないだ、千夏に会ったんだけど」
「あそう。ナノハナでも行ったのか」
「ううん。遊びで出てるバンドのライブがこないだあってね」
マスターが、北条のカフェオレのカップを横から差し出す。
「ああ……そうなんだ。言ってくれれば見に行ったのに」
「本当〜?」
思い切り疑わしそうな表情をしてから、北条は「ま、それはいーんだけど」とあっさり終わらせて、カフェオレを引き寄せた。改めて口を開く。
「その時の対バンに千夏の知ってるバンドがいたみたいで、来てたんだよ。んでその時に聞いたんだけどさあ……」
そこで一度言葉を途切れさせた北条は、話を聞いているマスターと藤谷の顔を眺めてから、俺のことを手招きした。招かれても、俺と北条の間にはカウンターとその仕切りがあるので、上半身を乗り出すしかないんだが。
内緒話をするように北条が片手で口元を覆って顔を上げるので、俺も耳を近づけるように身を乗り出す。藤谷がクレームの声を上げた。
「ずるい」
「彗介って、瀬名ちゃんと付き合ってるの?」
「はあッ!?」
体を起こして大声を上げてしまった。野次馬根性旺盛な藤谷が「俺も俺も俺も俺も」と喚いているが、とりあえず放置で北条の顔を見返す。
「あ、やっぱそうなんだ」
「俺はまだ何も言ってない……」
「違うの?」
「……まあ」
曖昧に答えかけて、ふと、瀬名と喧嘩をした時のことを思い出した。
――わたしって、言えない彼女?
(……)
深く、吐息をつく。
俺のこういう、ことなかれ主義のような部分が、瀬名に余計な心配をかける原因なんだろう。
そう思い直して、返答を変える。
「付き合ってるよ」
「蓮池さんですか?」
脇合いから藤谷が、またも余計な口を挟む。頭を叩いて黙らせてから、藤谷の誤解を解く意味合いも込めて、俺は改めて口を開いた。
「違うよ。誤解してるからついでに言っておくけど、俺は蓮池とは付き合ってない。あれはただの地元の人間。俺は……」
「えええええッ!? 違うんですかあ!? うっそだあッ」
言わせろよ、だから。
またも思い切り遮られる俺に、北条が隣の席から藤谷へ足蹴りを目一杯くらわせた。もろに食らって椅子から転げ落ちた藤谷の言葉が途切れた瞬間に、北条が言葉を浴びせる。
「うるさいんだよ。黙って聞け」
……。
こうやって藤谷に自分の話を聞かせるべきなんだろうか。
しみじみと北条の鮮やかな手並み……もとい足並みに感心しつつ口を噤んでいると、北条が俺の方に向き直って呆れたような目線を投げ掛けた。
「で? 黙らせてる間に言わないと、また妨害されんじゃないの?」
「あ、うん……」
マスターが成り行きを見て爆笑している。
「だから、瀬名と付き合ってるんだよ」
ようやくの思いでそのセリフにまで辿り着くと、「ひど過ぎる、思音さん……」とぼやきながら椅子に這い上がりかけていた藤谷が、がばっと体を起こした。
「ええ!?」
「いちいちうっさいんだよあんたわッ」
素早く北条がもう一撃、今度は肘で藤谷に叩き込むと、藤谷は「ぐはあッ」と大袈裟に呻きながらカウンターに突っ伏した。
それから改めて、俺を見上げる。
「あれ? じゃあ蓮池さんは?」
「だから言ってるだろ。ただの地元の人間だよ」
「誰? ハスイケサンて」
「こないだ彗介さんが連れて来た……」
連れて来たわけじゃない。ついて来たんだ。
黙って食器を拭いていたマスターが、俺の横で「ああ」と小さく声を上げた。
「前に和弘くんが来た時に、ずっと店にいた女の子か」
今ひとつ状況の読めていない北条に簡単に説明してやると、藤谷はそれから鼻の頭に皺を寄せて渋い顔を見せた。
「じゃあ俺、この前まずかったんじゃないですか」
「何が? 瀬名?」
「うん。だって俺、瀬名さんに蓮池さんのこと、『彗介さんの彼女』って紹介しちゃいましたもん」
「あんたってさいてえ」
テーブルに頬杖をついて、北条が呆れた目線を今度は藤谷に向ける。「だって!!」と反論しかける藤谷に、俺も苦笑いをしながら北条に答えた。
「それは俺にも責任はあるし」
「どうせ和弘に遮られて言えなかったんでしょ」
「それもある」
「そうやって俺のせいにして」
「でも、面倒臭くて放置しときゃいいやって思ってたのも確かだから」
「瀬名ちゃん、キレなかった?」
「何とか解決済み」
俺の答えになぜだか深々と吐息をついた北条は、今度は軽く藤谷の頭を小突いた。