第3話(1)
窓の外を、次々と景色が流れていく。窓際に頬杖をついて、ぼんやりと俺はそれを眺めていた。
浜松へ向かう新幹線の車内は、空いている。平日のせいもあるだろうし、浜松駅に停車する新幹線はのぞみより遅いこだましかないせいもあるんだろう。
風景から視線を外して社内を眺めてみれば、俺の座る座席の斜め前では、足下の紙袋にアイドルの写真を貼ったウチワを突っ込んだ女の子が2人、先ほどからずっと化粧をしていた。誰かのコンサートがどこかであるのだろう。アイドルなんぞわからないので、良くわからない。ただ、俺の見ている間だけでもずっと化粧をしているので、みるみる顔貌が変化し、既に怖いを通り越して面白い領域にまで到達している。
そもそも化粧は自分を寄り綺麗に見せる為にするんじゃないかと思うんだが、ここまで来るとその目的を尋ねてみたい衝動に駆られた。変装なんだろうか。いよいよ人間の領域を旅立とうとしているように思えるんだが、目指している『終了地点』はどんなものなんだろう。どうでも良いんだが。
彼女たちの前の座席に座っているのは、若い男性だった。多分、俺よりほんの少し上くらいだろう。スーツを着こなし、しきりとノートパソコンを操作している。いかにも社会人といったその様子は、俺なんかは見ているだけで気後れした。
あれが、真っ当な姿のような気がする。だけど俺なんかがスーツを身につければ、髪の色と相まってどう考えてもいかがわしい仕事か何かをしていそうだ。
再び視線を、窓の外に向ける。それから、頬杖をついたまま、視線を風景から窓に映る自分へと移した。
実家に帰るのは、4年ぶりになる。
(あれから、4年……)
19歳になる年に、東京に出てきた。それから一度たりとも、実家へは帰っていない。
夢を形にする為に東京に出て4年――あの頃の俺と今の俺では、何が違うだろう。
(もう23か……)
いつまでも、若くはないんだな。
人に聞かれたら笑われそうだが、切実な想いでもある。
たった4年。されど、4年。
まだ23歳。……けれど、もう、23歳。
いつまでも何も形に出来ないままで、ふらふらしているわけにはいかないのは確かだ。
早い奴では同じ年でもう子供がいたりし始める年齢……。
(……いや、そうか)
そうだった……。寄りに寄って俺にとって最も身近と言える同級生が、父親になろうとしてるんだよな……。
(結婚、か)
その現象が、俺にとってはあまりに現実感がない。
想像の範疇にさえ、入っていない。
それは多分遠野にとってもそうだっただろうと思うんだが、どうして「じゃあ結婚しよう」と思えたのだろう。そこが凄い。
いや、状況が状況だけにそういう選択肢が自分の中で浮上するだろうことは想像出来るんだけど、そうは思うんだけど……。
……うーん。
果たして俺だったら……俺が、遠野の立場だったら、一体どうしただろう。このところずっと特定の彼女と言うものにご縁がないので一層リアリティはないが、この先の人生まかり間違ってそうならないとは言い切れないだろうし。……そうなることがありえないと言い切れる状況が延々と続くとそれはそれでどうかと……ま、まあいいや……。
ともかく。
誰か大切な人がいるとして、結婚しなければ失うだろう、あるいは傷つけるだろう状況下。
「じゃあ結婚しよう」と思えるんだろうか。そもそも何なんだ、結婚。
(わかんねー……)
夢を、諦めなきゃならなくなるような気がしてしまう。
結婚について具体的にイメージを描いたことがないけれど、こうして漠然と思い描いてみると、それは夢に対する『重石』のような気がする。
誰かの人生を背負う責任。自分ひとりではなく、並んで歩く誰か。
無茶苦茶なことは、もう、出来ない。
メリットはもちろんあるんだろうから誰もが最終的には結婚と言う選択肢を望むんだろうが、少なくとも今の俺から見れば今の生活に制約がかかるのは確かだろうし、自分で選んだとはいえ、実際遠野は制約がかかっている。
それでも、選びたいと思える『大切な人』。
我慢することに価値があると思えると言うことか?それともそもそも我慢が少なくて済む相手と言うことだろうか。それはそれぞれなんだろうが。
……うーん。
ため息をついて、頬杖をとく。ずるりとシートに深く沈み込む俺のポケットの辺りで、チャリ……と金属が触れ合う音がした。
あの日瀬名が俺にくれた、小さなマグライトだ。ジーンズと財布を繋ぐチェーンに、一緒にくっつけてある。
今はもう点らないこのマグライトは、壊れる前は暗闇の中、瀬名の夢を照らしていたんだろう。
(瀬名だったら……)
それを見て、その『大切な人』が瀬名だったら、俺はどうするだろう、と言う考えがふと過ぎった。
自覚したばかりの、まだ淡い想い。
もしも瀬名と付き合うことが出来て、選ばなければ瀬名を失うかもしれないとなった場合……その時、俺は、どうするんだろう。
(……)
指先でそれを弄びながら、Blowin'の活動休止告知ライブの日のことを思い出す。『GIO』でのライブだ。
あの日、瀬名は『GIO』に姿を現さなかった。
……別に、だからどう、と言うわけじゃない。ライブハウスなんて休みがあってないようなものだし、そりゃあ瀬名だってたまには休むこともあるだろう。聞けば体調を崩して、と言うことで、小林さんの知人である栗橋さんと言う小柄な男性が代打としてPAに立ってくれたし、腕に問題があったわけじゃないし、だからつまり何の問題もない。
ないんだが。
(避けられてんのかな)
馬鹿な考えが過ぎったりもする。
考えすぎなのは、わかっているんだ。ヤミナベの日に瀬名と話して、瀬名のことが好きなんだろうと自覚をして、そのせいで無駄に考えすぎている。
そうは思うんだが、あの日、瀬名が「次のBlowin'、いつだっけ」と確認した後だからこそ尚更……変な気を回し過ぎている。
避けられることをした覚えはないし、瀬名が『避ける』という発想になるほど俺に対して何か思うところが出来ると思うこと自体が、そもそも自意識過剰だろう。そこまでの関係じゃない。友達とさえ言いにくい。瀬名にとって、ただの1バンドのメンバーでしかない俺を避ける理由がない。
ただ、バンドが活動休止に入ってしまって、もう『GIO』へ行く理由がなくなるし、あの日会えなかったことが残念なだけだろう。
軽く頭を振ってついたため息が、窓を微かに白く染めた。その窓の向こう、風景が途切れ、新幹線が浜松駅のホームに滑り込む。車内アナウンスを耳にしながら、俺は隣の座席に放り出してあった荷物を手にして立ち上がった。大した荷物じゃない。小さなバックパックひとつきりだ。
階段を下りて改札を抜けると、北口へ向かう。ひさびさに来て見ると、入っている店舗が多少変わったりしていた。……まぁな、4年も経てば変わるよな。
歩いてすぐに新浜松駅が見えてくる。そこから遠州鉄道に乗り換えて、およそ5分ほど乗ると、俺の住んでいた遠州上島駅に到着する。駅から降りて歩き出すと、視界の隅で、巨大なマンションが建設されているのが見えた。ここもどうやら、変化の波に飲まれようとしているらしい。一抹の、センチメンタルな想いが胸を過ぎる。
遠州上島駅はさして大きくもない駅で、野球場が近くにあるが、スポーツ全般ほとんど興味のない俺には関係がない。
駅から歩いて10分くらいの住宅街の一角に、俺の実家はある。『ハハオヤ』がやっている花屋が見えた時、不覚にも俺は少し……ほっとしてしまった。
帰りたいとか一度も思ったことさえないくせに、帰ってきたんだという不思議な安堵感。ちらりと店の中を覗くと、どうやら少々混んでいるようだ。
どうするかな。別に実家なんだから、勝手に入ったところで不審者だと言われる筋合いじゃないんだが。
とは言え連絡もせずに帰って来てしまったから、誰もいないはずの家に人の気配がしたら、やっぱり普通はびびるだろう。
……。
……ま、いいや。ともかくも荷物だけ玄関先に放り出して、それから店のほうに回るか。
そう決めて、俺は店の脇から家へ続くドアへ向かった。ポケットから鍵を取り出して開錠し、ドアを開ける。懐かしい匂いが、鼻腔を刺激した。住んでいた頃は気がつかなかった『家の匂い』というやつだ。
「誰?」
懐かしい家で、バックパックを玄関先に置くと、良く見れば見慣れない小さな靴が転がっているのが見えた。果たして人間の足がこの中に納まるものなのか疑問に思う大きさ。このサイズで歩くことが出来るとすれば驚異としか思えない。
下らないことを考えてついそれを摘み上げていると、裏付けるように子供の声がした。とととっと軽い足音がそれに続く。俺の3分の1くらいしかないんじゃないかと思えるサイズの生き物が、きょとんとこちらを見上げている。
「あ……」
そうだった。
それを見て、俺は自分に弟がいることに気がついた。
……別に記憶喪失なわけではない。俺にしてみれば、弟の存在を覚えてなくても仕方がない。何せ、今が初対面なのだから。
俺の実の母親は、いない。俺が小学生の頃に、交通事故で他界している。今、隣の店舗で花屋をやっているのは親父の後妻、俺にとっては継母である弘美さんだ。弟が生まれたのが俺が高校を卒業した年――東京へ出た後で、一度も家に帰っていない俺は当然会ったことがない。名前さえも怪しい。……どれだけ薄情なんだ、俺。
我ながらその薄情さに呆れ返る俺の前で、『弟』は少し怯えたような顔で俺から距離を置いた位置で立ち止まったまま、首をかしげた。
「……誰?」
もう一度繰り返す。問われて俺は、返答に詰まった。この場合、何と答えるのが妥当なんだろう?
『はじめまして、お兄ちゃんです』というのはいささか問題があるような気もしないか?
俺の知識経験を見回しても、半分とはいえ実の弟に誰何され、初対面の挨拶をする兄と言う図式を見たことがないので、適切な挨拶を思いつけない。
「えーと……」
かと言って『如月彗介です』というのも何か違うような気がする……などと俺が悩んでいると、廊下の奥、店の方から声がした。
「コータぁ?お客様?」
弘美さんの声だ。客に切れ間が出来たんだろうか。
それに応じて『コータ』と呼ばれた弟は「知らないお兄ちゃんがいるー」と答えた。……おい。いやでもしかし、『コータ』の立場からすればそれ以外に答えようもないだろうし、けれどその答え方では俺が不審者みたいじゃないか。
案の定、弘美さんは驚いたような声を上げ、パタパタとこちらへ駆けてくる音がした。廊下の奥に姿を現し、一瞬俺を見て驚いたように足を止める。それから。
「彗介くん……」
「……ただいま」
なんとなく、ばつが悪い。
弘美さんは、目を丸くして驚きを顔一杯に表現したまま、こちらへ近づいてきた。
「やだやだやだ、ホントに彗介くんなの?えー、ちょっとぉ、帰ってくるなら帰ってくるってどうして一言先に言ってくれないのよッ。そしたらわたしだってお店閉めたんだし、英介さんだって仕事休んだに決まってるのにッ」
わかってる。だから連絡するのは嫌だったんだ。
「家で商売やってる弘美さんはともかく、息子が帰ってきたくらいで父親が仕事休むのはどうかと思うけど……」
ぼそぼそ答えながら、今更のようにようやく靴を脱いでいる俺の前で、弘美さんはむうーっと唇を尖らせた。そういう表情をすると、元々が童顔な弘美さんは、下手をすれば俺と同い年くらいには見える。そもそも実年齢だって、8歳しか離れていないのだ、この母親は。
親父より15歳も年下の弘美さんは、明るくて人懐っこくて、ありがちな『継母との確執』のようなものは俺との間にはいっさい、まったく起こらなかった。
「だって」
むっとしたままで、弘美さんは続けた。
「彗介くんったら家出たっきりこの4年間1度も帰ってきてくれないし、電話だってかけようにも電話番号教えてくれてなかったし、じゃあ手紙書いちゃえーって書いても返事はナシの礫だし、じゃあ行っちゃえーと思って『いついつ行きます』って手紙送ったら、なんと『転居先不明』で戻ってきちゃうしッ。知ってる?こういうの世間では行方不明って言うのよ?警察に捜索願出してやろうかと思ったわよ?本気で。そしたらその後はきっと懲りて、所在くらいは明らかにするだろうし」
「……」
返す言葉がない。
見ると、弘美さんの目がうるうるしている。しまった、このまま行くと興奮して泣き出しかねない。
「わかりました、俺が悪かったです。ごめんなさい、もうしません」
「うん。わかればいいのよ」
あっさり言うと、弘美さんは『コータ』を見下ろした。
「彗介くん、あのね、このコ、コータ。幸せって書いて、幸太よ。……幸恵さんの名前からもらったの」
「……」
母さんの名前から?
言葉が継げなくて黙り込んでしまった俺には構わず、弘美さんは幸太の隣に屈み込むようにしてその柔らかそうな頬をつついた。
「幸太くーん、おにいちゃんが帰ってきたよー」
お、おにいちゃん……。
何だか恥ずかしすぎる。
「おにーちゃんなの?」
「そうよー。幸太にはおにいちゃんがいるのよーって話したでしょー?おにーちゃん、ようやく帰って来てくれたねえ」
……すみませんね。
弘美さんの言葉に、戸惑ったようにもじもじしていた幸太は、俺をじっと見上げてやがて小さく尋ねた。
「おにいちゃん?」
「はあ」
こちらはこちらで困った返事を返すと、その様子を見ていた弘美さんが廊下に崩れるように大爆笑をぶちかました。……あのなあ、ずっと一人っ子として生まれ育ってきて突然19歳も年下の弟が出来た俺の身にもなってみろ。
くっくっと笑いをかみ殺しながら顔を上げた弘美さんは笑い顔をそのままに、憮然と玄関に突っ立ったままの俺を手招きした。
「とりあえず荷物置いて来たら?せっかく久々の我が家なのに、玄関先で立ち話もないでしょ。わたしはいったんお店に戻るから、少し幸太の相手をしてやって」
「あぁ、うん」
相手……相手?
俺にはこんな小さな生き物の扱い方がわからない。
困りながらもとりあえず家に上がり階段を上り始めた俺の背中を、弘美さんの声が追いかけた。
「彗介くんの部屋、そのままだからね」
「うん、ありがとう」
階段を上りきって一番奥にある部屋のドアを開ける。懐かしい、俺の部屋だ。たいして愛想のかけらもない部屋だが、俺にとって、かつては一番安らげる空間だった。
弘美さんが掃除をしてくれているのか、部屋に汚れはない。埃もたまっていなかった。床に荷物を転がして、何となくベッドに転がってみる。目の前に広がる白い天井。毎朝この下で目を覚ましていた。
この部屋に戻ると、夢だけを見つめていた頃を思い出す。純粋に、ただただひたすら音楽が好きだった。遠野と一緒に、ギター片手に走り回ることに夢中だった。
今は……。
「おにいちゃあああああんッ」
「……」
階下から、幸太の呼ぶ声が聞こえる。
俺は軽く頭を振って、ベッドから起き上がった。
◆ ◇ ◆
幸太の相手をしてやれと言われても、何をどうすれば満足するものなのか俺には良くわからない。
考えていることが全く理解不能な相手と遊べと言うのは、非常に難易度が高い。特に俺のように、想像力があらゆる意味で欠如している人間には。
けれど、幸太は幸い人見知りをするようなタチではないらしく、俺がここにいるだけでとりあえずは満足するようで、半ば自己完結しているように散々遊んだ後にそのまま眠ってしまった。何て自由な生き物なんだろうか。羨ましい。
やがて店を閉めて戻ってきた弘美さんが、煙草をくわえたままぼーっとしている俺の膝にもたれかかるようにして眠っている幸太を発見して笑った。
「寝ちゃったの?」
「うん」
「そう。……ありがとう。重いでしょ」
「別に」
「彗介くんたら、いつの間に煙草なんて吸うようになったの?」
「え?……ああ」
悪戯っぽく咎めるように言いながら、弘美さんが幸太を抱き上げる。こういうことは良くあるのか、ソファの上に子供用の毛布が丁寧に畳まれていて、弘美さんは抱き上げた幸太をソファに横にさせた。毛布を取り上げて、そっと掛ける。
「知らなかったっけ」
「知らなかったわ。それとも昔からこっそり吸ってたの?」
幸太の枕から解放されて、立ち上がる。親父の灰皿に煙草を放り込むと、弘美さんに招かれるままにダイニングの方へ足を向けた。
「吸ってなかったよ。この家にいた頃は」
「そうよね。……4年も会ってなかったんだもの。変わるわよね」
「……」
ダイニングの物の配置は、余り変化はない。ただ、子供用の小さな椅子が増え、他にも何だか用途のわからない、多分子供用の何かが目に付く。
以前自分が住んでいた頃にいつも座っていた椅子に、条件反射のように腰を下ろす俺に背中を向けて、弘美さんが冷蔵庫を覗き込んだ。
「コーヒーでも飲む?」
「うん」
「アイスでいーのよね」
「良く覚えてるね」
「ふふん。自分の息子のことだもの」
「……」
そりゃあ確かに中1から高校を卒業するまで、6年間も俺の『ハハオヤ』をやってたわけだが、冷静に考えるとそう年齢差があるわけじゃない人にそう言われると妙に気恥ずかしい。
「英介さんは絶対ホットなのにね。彗介くんは逆で絶対アイスなのよね」
かっこ悪かろうが何だろうが、凄まじい猫舌なんだから仕方ないだろう。
冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーのパックを、2つのグラスに注ぐ。ミルクを取り出して入れると、俺の方に差し出した。
「で、ミルクだけいれるんでしょ。わたしと一緒なんだもの」
「ありがとう」
何か、変な感じだ。
弘美さんとこうして改めて2人で向かい合うなんてことが、そうそうあったわけじゃない。
コーヒーのグラスに口をつける。まだ夕刻、外では遊び帰りか子供のはしゃぎ声が、少し遠く、聞こえた。
「店、閉めるの早かったんじゃないの?」
「だってせっかく彗介くんが帰ってるんだもの」
「いーのに。別に。放っておいて」
「ふっふーん。英介さんも飛んで帰って来るわよー」
「げ。連絡したの?」
「した」
「しなくて良いのに」
「そうやって邪険にすると、お父さん、泣いちゃうわよ」
「……泣かしとけよ」
げっそりして呟く俺のセリフに、弘美さんはまたひとしきりおかしそうに笑った。その顔を見て、俺も微笑が零れる。元気そうで何よりだ。
「何で、母さんの名前?」
不意にぽつっと尋ねた俺に、弘美さんが笑いを収めて目を丸くする。じっと俺を見つめた後、頬杖をつきながらリビングの方の幸太に目を向けた。
「幸太?」
「そう」
「どうして?変?」
「前の女の名前なんか気分悪くないの」
俺の言い草に、弘美さんががくんとコケる。そのままテーブルに突っ伏して、笑った。
「口が悪いなあ。気分悪かったら、大事な子供につけないわよ」
「あ、そう」
何となく、視線をリビングの方に向ける。リビングの更に向こう……最奥の小さな和室には、母の遺影と仏壇がある。記憶を掘り返してみれば、仏壇には毎日新しい季節の花が添えられていた。
「幸恵さんは、家族なんだもの」
「……」
黙って、視線を弘美さんに戻す。幸恵、が、俺の母親の名前だ。
弘美さんは、頬杖をついたままで先ほどの俺のように、奥の和室の方へと視線を向けていた。
「英介さんが幸恵さんを大切に思っているのはわかってるわ。幸恵さんとの息子である彗介くんを愛してるのも知ってるわ」
あ、愛……。
「幸恵さんは、英介さんにとっても彗介くんにとっても、今も大切な家族なの。忘れられないし、忘れてはいけないと思ってるわ。英介さんにとっては、今も幸恵さんは大切な妻だし、彗介くんにとってはたったひとりのお母さんなのよ」
「……」
「でもね、わたしも英介さんの妻だし、彗介くんのお母さんなの」