プロローグ
――約束して。何があっても、お互いの夢を大事にしようって……。
◆ ◇ ◆
ぶっ続けだったニューアルバムのレコーディングが、ようやく中休みになった。今日明日は久々のオフだ。ここ2週間、ロンドンでのレコーディングを行っていたので、慣れない環境から解放されたせいかそれともただの時差ぼけなのか……とにかく体が重い。
家についてから荷解きさえせずにシャワーだけ浴びて昏々と死んだように眠っていた俺は、遠くの方で繰り返し聞こえる何かの音に、次第に意識を引き戻されていった。どうやらチャイムの音らしい。
(うるさい……)
心の中で、短く毒づく。薄く目を開けると、まだ窓から差し込む日は明るかった。こんな平日の昼間に来るのなんか、どうせろくな訪問じゃない。入り口がオートロックだから、以前に住んでいた安アパートのように新聞の勧誘やら保険のセールスやらは入っては来られないだろうが……。
湿気を吸った真綿のように重い体と頭でシカトを決め込んだ俺は、寝返りを打って夏掛けの布団を抱きしめた。まだ眠い……。
……。
……。
……。
……うるさいな、本当に。
しつこく続く連打チャイムに、俺は仕方なくベッドから身を起こした。立てた膝に肘を乗せて、寝乱れた髪に手を突っ込みながらため息をつく。こんなことをするやつには、ひとりしか心当たりがない。……まったく。
一応これでもプロのミュージシャンであるという立場上、念の為インターフォンのカメラをオンにすると、案の定思った通りの顔が予想を裏切ることなくそこに立っていて俺の頭痛を誘った。前に教えた……と言うよりは吐かされた暗証番号でマンションの建物の中までは侵入を果たしたらしく、俺の部屋の前である。面倒くさいのでインターフォンを通すなどと言う手間は省く。
「うるさい」
何の前触れもなくバンとドアを開けると、一瞬きょとんとしたような顔をして、ウチのヴォーカリスト遠野亮は俺の顔を見た。すらりとした長身、赤茶けた長めの前髪の下で黒目がちな大きな瞳が丸くなっている。俺と同じスケジュールをこなしているせいで、その整った顔にはさすがに少し疲れが浮かんでいた。Tシャツの上に黒と白のツートンカラーのシャツを羽織ってジーパンにスニーカーというラフな服装だが、街を歩いていれば人目を惹くだろう容貌の持ち主だ。
「やっぱいるんじゃん」
「他に言うことはないのか?」
「せっかくのオフだよ?家でひとりでごろごろしてるなんて、どうかと思いません?」
「どうしてせっかくのオフにまで、同じバンドのお前の顔を見なきゃならない?」
気持ちよく眠っているところを不愉快なチャイムの連打音に起こされて相当不機嫌な俺は、いつにも増して無愛想だったと思うが、中学からつるんでいる遠野には今更何てことはないようで、俺の脇をすり抜けてずかずかと部屋へと上がりこんできた。
「あっつ〜〜〜い、この部屋……。どうして冷房くらい入れないの?」
余計なお世話だ。
ずかずかと上がりこんだ遠野は勝手に冷房のスイッチを入れると、今度は勝手に冷蔵庫を漁りビールを取り出した。ぷしゅっとプルリングを引いて開けると、ごくごくと飲む。
「うまー。しっかしこの真夏に冷房もつけず部屋にこもって平然としてる彗介くんって、やっぱ変温動物なの?」
変温動物だったら一緒に体温上がって、今頃暑過ぎでのたうちまわってるんじゃないんだろうか。
「俺の部屋で俺が冷房をつけようがつけなかろうが、自由だろ」
まぁいいや。遠野の1人や2人いたところで、気を使う必要はない。放っておけば好き勝手やっているだろう。俺が寝ていても、差し迫った問題があるとは思えない。
「いても別にいいけど、俺寝るよ」
「どーぞどーぞ。……えー、この部屋漫画のひとつもないー。俺にどうせよと?」
……。
「どうもせんでいい。29にもなって漫画読むなよ。せっかくの休みなんだから、家帰ったら」
「尚香は仕事だし、由依は学校だもん。休みが不規則で困っちゃうよなぁ〜まったく。こんな突然、しかも平日にオフもらってもさぁ」
あぁそうか……普通は平日の昼間と言えば、学校やら仕事やらすべきことがあるだろうな。高校を卒業してからこっち、そんな規則正しい生活とは無縁だったから忘れていた。大体、5日働けば休みがもらえるというそのシステムが羨ましい。俺はこの前の休みは……いつだっただろう。
虚しさを覚えて考えることを放棄した俺は、再び寝室に戻ってベッドにずるずると潜り込むと布団を抱き締めた。遠野はリビングの方で、何やら勝手にごそごそとその辺を漁りまわしているようだ。今更こいつに見られて困るようなものなど、何もない。と言うか、そんなものがあったらこいつが今まで見逃しているわけがない。好きに漁ってくれ。
「あ、写真発見」
「……写真?」
布団を被って背中を向けたドアの方から、声がする。くぐもった声で目も開けずに尋ねるが、聞こえなかったのか遠野からの返事はなかった。
リビング、とは言ってもひとり暮らしの2LDKだ。ほとんど私室みたいなもので、生活空間が主にリビングになる都合上そちらに置かれている棚や引出しなどにもプライベートなものと言うのはもちろん、多々置かれている。遠野の言う写真と言うのは多分、テレビボードの下に突っ込んである紙袋のことだろう。アルバムに貼って整理したりするのが面倒なので、俺はこれまでの写真を全てその中に突っ込んである。どうせ大して写真を撮るようなタチでもないから、さほどの量があるわけでもない。
(写真ねぇ……)
どんな写真があっただろう。高校時代以前のものはみんな実家に置きっ放しだから、それ以降……ほとんどライブだとかその打ち上げだとか、そんなもんしかないと思うんだが。
また少しずつ眠りに誘われながらぼんやりと思っていると、遠野の足音が近付いて来た。がさがさと紙袋を漁る音が、ベッドの脇にすとんと座る。
「見ていいよね?見ていいっしょ?凄いのあったらどーしよー……ケイちゃんにそんな甲斐性はないか……」
無言で俺は、ベッドにうつ伏せのまま遠野に蹴りを入れた。
「いてぇぇぇ……あ、俺の写真が……」
蹴られた拍子に写真を床にぶちまけてくれたらしい。迷惑な奴だ。……ひとつ言っておくと、その写真はお前のじゃなくて俺のである。無視を決め込んだまま寝返りを打つと、遠野がごそごそと写真を拾い集めている気配した。
「あ、懐かしい。瀬名ちゃんじゃん……」
不意に、そんな呟きが聞こえた。……瀬名?
「お前こんな写真どうしたの?……あれ?」
こんな写真?って、どれだっけ……。
「彗介?寝ちゃったのか?」
……あぁ、あれか……。
遠野の声を遠くに聞きながら記憶の中の写真を探り当てた俺は、そのまま、眠りに引き込まれていった。