名前を抱く腕
「君の名前のエドワードだが、それは黒太子から取ったのだろう?」
馬車の車輪がたてる軋むような音だけが長い間響いて、道路が舗装されていない所まで進んだ辺りで、低い声がぼそりと聞こえた。
陽の下で聞くには陰気すぎて、例え暗幕の下でも外では聞こえない。
暗がりで、しかも部屋の中で聞くにはとても良い声であると思う。
「良くお分かりになりましたね。ご名答です。では、マリーはどなたから取られたものでしょうか?」
黒太子のエドワード、このとても趣味の悪いセンスで私にエドワードと名づけたのは私の母である。
その母に拾われたという言葉を信用するならば、どこのマーガレットまでも予想する事はさして難しい事ではない。
「マーガレット・オブ・アンジュー。この国をかつて内戦に追い込んだ異邦人から取られた名前だよ。良い趣味だとは思わないか?」
そう愉快そうにおどけて告げるマリーに目だけで返事をしたが、如何せん暗いので届いたかどうかは分からない。
黒太子に、アンジューの姫君となると母は英国の株を徹底的に貶めようとでも考えていたのだろうか。
父がアイリッシュであった母は欧州全土に起こった、特にアイルランドでのジャガイモ飢饉に非常に心を痛め、ピール内閣の無能さや弱腰を非難し続けていた。
また、小説家上がりのユダヤ人も彼女の舌鋒の餌食とし、同じ様にアイルランド人の足並みの余りの不揃いさに絶望し続けていた。
母は年を経ると共に政治的な批判心を滾らせていたのだが、それは決して表に出ることは無かった。
彼女はフローラ・トリスタンには成り得なかった。
かといって、目の前にいる男装のマリーの教育者というわけでもなく、彼女の母にしか成り得なかったのだろう。
「名前を貰って嬉しいのは、その人が好きだということ。そう私に教えてくれた人がいました。きっとマリーも良く知っている人と思いますが、その人が好きでしたか?」
私の母は好かれるか、嫌われるかの人であった。
嫌われてさえ魅力が尽きない性格の持ち主であったことが、良かったのかどうかは本人にしか分からず、その本人はアイルランドの土で眠っている。
「好きだったというよりも、ソフィーは僕の母だよ。背負いきれない事を全部押し付けられて、それで娘だと言われた時はさすがに怒ったけれど。それでもソフィーは優しい母親であったと今では思っている」
薄明かりに目が慣れて、マリーの唇で言葉が紡がれるのに、少しだけ見惚れてしまう。
こういう色気を母は多分に持っていて、この女性にも妙に艶めかしい雰囲気が伝染したのかもしれない。
「なるほど、確かに似通っています。けれど、押し付けれても優しいとは異な事です。飼い殺しにされてまで、感謝することはないのでは?」
マリーが答える間、ずっとその唇の動きを見つめていた。
もしかしたらだが、心から安堵した言葉を生み出すときには、この唇は色気を失っている。
代わりに乳臭さを感じる、気がしてしまう。
「時代遅れの考え方だよ。自分で止む無く選択するよりも、誰かに決めさせられたと考える方が楽だという。これからは自由の時代だというのにな」