愚かであれ少女たれ
驚いたことがある。
件の異邦人が初めて言葉を発するとすぐに、今まで微動だにしなかった老執事が口を開いたことにだ。
「お疲れ様でした、お嬢様。お客様はお休みになっておられますか?」
詳しい説明が無いままに此処に連れて来られて、今の今までただ突っ立っていただけの私にはこの発言を全て理解する事はできない。
ただ、その中でもほんの少しだけ納得できたこともある。
この異邦人の性別を無意識に男性と考えていたからこそ違和感を感じ続けてきたのであって、なるほど女性であれば違和感が少しだけ消える。
女性の異邦人は老執事に一瞥もくれずに直線で歩いてくると、そのまま馬車に乗り込んだ。
4人乗りの馬車であるので私が乗ることも出来るのだが、少しの逡巡の後に私は後ろの御者席へと足を向けた。
その時、無視されてもへこたれる事の無い健気な執事に呼び止められる。
「ラッド様、そちらは使用人の席でございます。どうぞ、中へお入り下さい」
老執事は律儀な事に、馬車の扉を押さえたまま立っていた。
仕方なく、私は馬車のステップに足をかけて中を恐る恐る覗いて見る。
中には血色の無い肌に小ぶりで形の良い唇が薄闇に浮かんでいたが、それ以外にも変化が見られた。
私が駅から伯爵の私邸、更に此処に来るまでの間、この馬車の中は爽やかなレモンの香りで占められていた。
同じ柑橘類とはいえ、今はシトラスの香りがくどくない程度に漂っている。
しかし、女性であるならば、もう少しそれらしい格好があるように思えてしまう。
この異邦人は身体をすっぽり包むようなブラックコートを着込み、しかし帽子を持ってはいないようであった。
「どうかしたかね?早く入るといい。そこで止まっていては御者が困ってしまう」
そう告げるも、未だ動かずに私が訝しげに自分を見つめていることに気づくと、その語気は強まる。
「この服装の事ならあまり気にしないでもらいたい。僕が男性だと思えば何の問題は無いはずだ。それとも、時代遅れの『愚かであれ少女たれ』かね?実にくだらない」
「いえ、何も問題などはないのです。そうではなくて、貴方が私の雇い人になるという事を貴方の雇い人に聞いたものですので」
返事代わりに気だるくうなずかれる。
「マーガレット・レイバンド。それが僕の名前だ。人前ではレイバンド様。そうでない時は、マリーと呼んでも怒らない」
そう付け足した終わると同時に、馬車が動き始める。
セント・ポール大聖堂の方角にではなく、おそらく北であろう方角に向かって。
マリーの表情には何の変化も無いので、北に彼女の住まいがあるということなのだろう。
窓から暗い街を見つめながら、ふと思い出す。
「ネッド・ラッドです。末永くよろしくお願いいたします」
そういえば、名乗ってすらいなかったのだ。