場違い
馬車はテムズ川沿いをロンドン塔へむけてのんびりと進み、セントポール大聖堂を左に臨む辺りで左に折れた。
そのまま真っ直ぐセントポール大聖堂を左側に捉えながら、バーソロミュー病院を少し過ぎた辺りで止まる。
短い遊覧の間、私は馬車の中が不思議に暖か事に感心し、レモンの輪切りの幅が均整な事に感嘆を憶え、セントポール大聖堂には正方形の棺桶に眠る女王と隻腕隻眼の提督の遺体が眠っているのだと思い出していた。
あのような立派な場所で眠ることが出来れば運命の日まで過ごす事も出来るのかもしれない。
本人達にとってはもう関係がないのかもしれないが。
車輪のからからという音が小さくなり、左側の敷石に寄っていく。
窓からその家屋をのぞいてみると、看板は無いものの、その大きさから持ち主が相当な資産家であることを窺わせる造りであった。
さらに往来に馬車を寄せるためだけの空間を設けていることも考えると、この家屋がキール伯爵の所有物であるかもしれない。
この家屋の内装と奥行きを予想していると、馬車の扉が開き、老執事が姿を見せる。
馬車を降りてから扉まで、賞賛したくなるほどの気を回し様を演じながら執事は右手にトランクを持ちつつ、左手で両開きの扉をノックする。
すると、中から年若いこれも執事らしき人物が中から扉を開けて、私たちを招き入れた。
入ってすぐの玄関兼ロビーは私の家の主寝室よりまだ大きく、敷かれている絨毯には皺も染みも見られない。
若い方の執事は私の外套を預かるや、すぐに見えなくなり、私は老執事の案内で玄関から延びている赤い絨毯が敷かれた螺旋階段を上る。
手すりにまで装飾が施されている見事な物で、曇り一つ見られないのは先ほどの若い執事が手入れを怠っていないからなのだろう。
「伯爵は二階の喫茶室でお話がしたいと申しております。よろしいでしょうか?」
承諾の返事をすると、老執事は私の様子をそれとなく気遣いながら階段を上ってすぐ左に折れ、二階廊下の真ん中辺りの扉の前で止まる。
姿勢を正し、老執事はコンコンと綺麗な音をさせて扉を叩く。
「ラッド様をお連れいたしました」
「入っていただきなさい」
案に相違して高い声が漏れ聞こえた。
老執事が空いている左手でノブを回し、扉を抑えたまま脇に寄る。
扉からはまずは光が漏れ出てきた。
部屋一面が見渡せるほど扉が開くと、目が慣れてきたのでその部屋にある雑多な調度品を眺める事ができた。
部屋の一面を占めると言っても良いほどの大きい窓からの光は部屋中を隈なく照らし、その為に部屋は廊下よりも明るい状態であったのだ。
さて、幸か不幸かは分からないが、慇懃な挨拶をして、少しでも好かれねばならない状況であるのに、キール伯爵の見事な髭を見ることでやっと只一人の同居人の存在を思い出した。
「初めまして、どうぞよろしくお願いします」
それだけを出来るだけ早く言い終わると、伯爵の会釈を確認する間も無く身体を曲げて背後を見つめ、老執事が持っているトランクを凝視した。
振り向く動作が行われるかどうかの時にはもう私の耳に低い唸り声が聞こえ、そのすぐ後には甲高い鳴き声が響くことになる。
それもトランクの内部をガリガリと削る音と一緒に。