チャリング・クロス
人生が与うるもの全てがある街、ロンドンは人間の存在の満ち干きが全てあるという場所、チャリング・クロス。
駅前には鉄道の分岐点、エレアノールの十字架を臨むことができる
しかし、今や英国中に張り巡らされようとしてる鉄道の分岐点がエレアノールだというのは誰の考えなのだろうか。
恋多き女性が発展していくものの母であるという意味なら、非常に興味深い。
昨日、届いた手紙にはこの駅でちょうど昼頃に迎えに上がるとあった。
向かう先を詳しく書いてあればオムニバスにでも乗り込んだものだが、待っていないといけないようだ。
左手でトランクを軽く叩くと、中から低く長い威嚇の声が聞こえた。
おそらく列車が此処に着いた時に知らせる事もなく横向きに寝かせていたトランクを持ち上げた事にご立腹なのだろう。
バシレウスが不機嫌な時はそっとしておくに限る。
下手に構って刺されてしまっては楽しくない事この上ない。
新調するつもりで眼鏡を置いてきてしまったが、装飾、性能共に揃っている物がこのロンドンですら存在しているか危うい。
駅前でこれから必要な物や失くしてしまった物をつらつらと思い浮かべていると、バシレウスが再び暴れだすのを右手で感じた。
窘めようと右手のトランクを視界に捉えると、その中にちらりと馬車が見えたような気がした。
私が目線を上に上げると、馬車の横に立っていた上級執事と見える人物が深々と頭を下げる。
綺麗に曲がっていく腰を見据えながらそちらに足を運び、声が震えないようにゆっくりと告げる。
「初めまして、ネッド=ラッドです。どうぞ、よろしく」
黒髪を全体的に横に流した不思議な髪型の老執事は私の右手から滑らかな手つきでトランクを預かるという仕草を示しながら、容貌に相応しい穏やかな声で答えた。
「キール伯爵の使いの者でございます。主人の滞在しているホテルまでご案内申し上げるようにと言いつけられております。何なりとお命じくださいませ」
そう言うと、馬車の扉を開けて、私の手からトランクを受け取る。
馬車の中には何かの臭いを抑えるためにか、席の奥には台座と輪切りのレモンが載った皿が置いてあった。
奇妙な趣向に変な気になりつつも、黒い布張りの席に腰を下ろす。
老執事は馬丁に二言、三言声をかけると顔を覗かせて、告げる。
「こちらよりロンドン塔の方へ馬車を動かします。用がございましたら、お声掛けください。少しの間でございますがテムズ河の景色を楽しむことを出来る事かと存じます」
前々から、トマス・クロムウェルとトマス・モアが死んだ場所には一度訪れてみたいと思っていた。
彼らの王、ヘンリー八世は堂々とした体格の王であったが、伯爵はどうであるのか。
右側の窓にテムズ河が映り、羽を乾かしている鳥が見えた。
凍えてしまわねばよいのだろうけれども。