母
綺麗な紅い絨毯を初めて踏んだときの気持ちは忘れられるものではない。
キール伯爵夫人の誕生日に催されたパーティー兼舞踏会に私と母は招かれた。
貴族のパーティーであるからにはそれは上等な招待状を持参しなくてはならないもので、当然母も花の香りのする手触りの良さそうな手紙を持っていた。
しかし、言わば小金持ち程度の母が産業革命の最中、中流階級の突き上げをむしろ利用して更なる発展を臨むキール伯爵家の身内の誰が母と私を招待したのかという疑問を幼い私は思い付きもしなかったらしい。
それには子供らしい理由がある。
当時の私は母のことを貴族か何かだと思い違いをしていたのだ。
週の内、二日は華やかな服に上等な靴、時には日傘すらさして、ほのかに香水を振りまいて出掛けて行く母は子供にとっては貴婦人以外の何者でもなかったのである。
その日、母と共に鉄道に乗り込み、馬車を使って館の前に辿り着いた時、仕立ての良い服を着ていた御者が母に金銭を要求しなかった事、あるいは開け放たれた扉から執事らしき人物が客人を招き入れる、腰をややかがめ、奥の手を広間に向けたという所作によって私は母が貴婦人であるらしいという考えを確かにした。
広間には大量の燭台が置かれ、その後方、あるいはシャンデリアの上方には同じ光が全く同じに映し出され、見つめ合って踊り合う人達の像をぼやけさせていた。
蝋のにおいに混じってたかれた香が空気を甘いものにしたので、私は酔いを覚え手近にあった長椅子に座り込み、直ぐに眠ってしまった。
私を起こすまでの間、すぐ近くにいなかった母が何をしていたのかは良く分からない。
ただ、母の洒落た香りが少しくすんでいた気がした。
館から出してもらった馬車に乗り、駅から鉄道、それから家路に付くまでの間、母と私はずっと手を繋いでいた。
母が言うところの貴族の子弟は母親とくっついていたりしないものだったらしい。
「だから、今日は手を繋いではいけないのよ」
母は同じ言葉をそっくり二度も繰り返した。
子供の私にとっても少女のようだった母にとって長い間近しい人間と触れ合えないでいることは少なからず寂しいものであったろう。
そう思えば、出来るだけ長く、多く、深く人とつながっていたいと強く願う母は貴族になど成り得ない。
それを薄ぼんやりと理解した結果、舞踏会の夜以降、私は母からのおやすみのキスを拒む事が無くなった。