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ある春の日

作者: 葉山陽史

ある春の日


                                        葉山 陽史


                      1


 あれは多分一年前の二月頃だったと思う。

 彼と最初に出会ったのは、たしか二十歳の誕生日を迎える直前だった気がする。でも私は彼の顔も本名も知らない。最初ちょっと話して面白そうな人だった。自分のいる狭いスペースが大きく広がって、無限の世界に浸っているような感覚だった。

 そのスペースには、ほぼ毎日通っていた。さやかちゃんと呼ばれ、相手の求めに応じて何でもしていたし、結構楽しかったりもした。もちろん最低限のルールだけはお互い守っていた。規則違反をすると「警告」が発せられてしまうのだ。しかし、正直いやな相手もいるものだった。いきなり無理な要求をしてきたり、私が苦痛な表情をするのを楽しんでいるようなやつさえいた。

 でも、彼はちょっと違った。最初に会った時から、あきらかに遠慮しながら緊張している様子がありありとしていた。私が話を彼に振って気分を和らげてあげなければならないほどだったなあ。

  ―ここは初めて?

  ―よく来るんですか?

  ―どの辺に住んでるの?

 いろいろ話を振って彼のことを少しずつ聞き出していった。だいたいの年齢、どんな仕事をしていてどの辺に住んでいるか、話し出してくれたので楽しかった。

  ―ふーん、マイケルさん、○○地方なの?食べ物何がおいしいの?

 御当地グルメで、ちょっと変わった「おでん」があるらしかった。

  ―それって、おいしいの? 

 ところが、マイケルさんは「おでん」が嫌いらしくて、食べたことがないと言う!?思わず吹き出してしまった。

  ―ねえ、さやかちゃん?

  ―え、なあに?

  ―エッチな気分になってきちゃった・・・。

 恥ずかしそうというよりは、じれったそうと言ったほうがいいかもしれない。

  ―どうすればいいの?

  ―ブラウス脱いで

 私は、彼の求めるままブラウス脱いでスカートも脱いだ。靴下も脱いで下着だけの姿になった。彼の言葉が途切れた。さすがに「視線」を感じて少し恥ずかしくなってきた。いつものこと、といえばいつもなんだけど。

  ―じゃあいよいよ・・・

  ―うん・・

 ちょっとだけドキッとする。

  ―ブラも外して

 私は、いわれるままにブラジャーを外した。私のCカップの胸があらわになった。別にいつものことなのに、この感じは何だろう。思わずひきつった表情をかくそうと無理に笑顔を作った。

  ―ワー!、きれい

  ―そう?ありがとう、あんまり大きくないでしょ。

  ―美しい少女の胸

 思わず顔が赤くなった。マイケルさんは気づいてないみたいだったけど。何分くらい経過しただろう。彼の言葉がしばらく途切れていた。なぜか「視線」だけは感じ続けている。

  ―そろそろ、ポイント切れ・・・。

マイケルさんのタイピングが入った。時間にして30分くらいだったろうか。ていねいにお礼の言葉を言われ、画面が切れた。


                       2


 ちょっとため息が出た。私は、画面をオフラインに切り替えて服を着なおした。なんだか本当に変な気分になりそうだった。自分のボックスを出て、ちょっとトイレに行って、それから狭い廊下で一息ついた。スタッフの男性社員が気が付いて話しかけてきた。

  ―どう、さやかちゃん、調子は、もう慣れた?

  ―ええ、まあちょっと・・

  ―だいじょうぶ。さやかちゃん人気出るよ、かわいいし、“処女”が売りだし。

 私は、どう言っていいかわからず、あいまいにうなずいた。ここは、アダルトチャットの中継スタジオである。街中のビルのフロアーに、ちょっとした事務所と数か所に分割された一人一室のスタジオが入っている。ここにほぼ毎日通い始めて1か月近くになる。

 こういう世界にはちょっとだけ興味を持っていた。地元の高校を出て、ある会社で働き始めたが、ブラックというほどではなかったが、男性上司とうまくいかなかった。高卒ということもあるが、完全に子ども扱いだった。何かというと細かいことまで指示を出し、少しでも言うことを聞かないと、露骨に不機嫌になった。同じ年頃の女子も少なかったし、仕事は結構忙しく、あまり話す機会も無かった。そのため、新しい友だちもあまりできなかった。

 高校のときの友達とは、時々あってたまに遊びに行ったり、メールでいろいろ話をした。大学に行っている子もいれば、同じように働いている子もいる。自分もできれば大学にも行きたかったが、家の事情を考えれば働かざるを得なかった。2年近く前の会社で働いていたが、大学に行っている友だちからアダルトチャットの話を聞いた。

  ―結構お金になるみたいよ。それに、風俗と違って、男の人に触られないし。

  ―そう?でも自信ないよ。わたし胸も大きくないし。

  ―だいじょうぶよ、世の男たちは巨乳好きもいれば、いろんな趣味の人がいるから。

 その話を聞いてから、わたしはスマホでアダルトチャットの情報を集め、あるサイトの面接を受けに行った。応対したヒゲの男性スタッフは一見怖そうだったが、話してみると意外と親切そうだった。大体の説明と給料やいろいろな条件に付いての話が進みちょっとひと段落。

  ―ところで彼氏はいるの?

  ―まだ、付き合ったことありません・・・

 意外そうな表情をされた。でもすぐニコッとして、それは売りになる、きっと人気が出るというような話を仕掛けてきた。結局そこでチャットレディーになることに決まってしまった。男性スタッフは、他のスタッフにスタジオを案内するように命令口調で指示した。

 スタッフに案内されたスタジオというよりボックスは、畳2枚くらいの広さ、ちょっとしたソファーに備え付けの動物のぬいぐるみなども置けるらしい。サイドボードにパソコンが据えてあり、その上にはカメラが付いていた。セーラー服やかわいく見せる衣装も用意されているらしい。面接をしたヒゲの男にはセーラー服がいいよと言われていた。パソコンとカメラさえ取り付けられれば自宅からも中継ができるらしい。その方が「通勤」が楽だし、いつでも好きな時間にチャットができる。だけど、わたしはスタジオまで通うことにしていた。

 こうして前の会社を辞め、チャットレディ−としての生活が始まった。19歳の終わりの頃だった。チャットといってもアダルトだけとは限らない。ノンアダルトもあるし、メール交換だけというのも選べる。しかし稼ごうと思えば、脱ぐ、アダルトチャットを選ぶしかなかった。それに、わたしはもうすぐ二十歳になるのに男性とまともに付き合ったことがなかった。こういう世界ではあるが、結構やさしい男性と出会えることもあると友だちの友だちから聞いていたし、ちょっと期待もしてワクワクもしていた。

 しかし、始めて見るとやっぱり大変だった。スタジオに入ってインしても、なかなかお客の男性が入ってこない。パソコンの向こうの男性の側からは無料で待機画面が見えるらしく、ただいま〇名視聴中という表示が出される。そのときは、カメラに向かってニコっとして手を振ったりしていなければ入ってきてくれない。ついあくびなどしてはいられないのである。しかもいくら待っても待機時間はお金にならない。お客がインしてくれて、チャットが始まって、やっとお金になるのだ。夜の10時くらいにスタジオ入りし、翌朝5時くらいまで待機とチャットを繰り返す。それを週平均5日、そんな生活だった。


                    3


 この チャットでは、さやか、と呼ばれていた。わたしの芸名である。この名前が慣れてくると、プライベートで本名を言われてもピンと来ないこともある。それくらい、チャット生活が身についてしまった。

 思った通り、やさしい男性もいた。趣味の話で盛り上がったり、好きなアイドルの話をしたりした。でも男性が求めているものは同じだった。嫌な男性もいた。入ってきていきなり“脱いで”と言われたり、恥ずかしい恰好をさせられたりした。押し倒されるような恰好をさせられて、この人はわたしをレイプしていることを妄想しているんだなと思うこともあった。また、このサイトはパーティーチャットなので複数の男性が入ってくることもよくある。それぞれ性格も違うので、話を合わせるのにも気を遣う。

 そして、ある日彼が入ってきた。

 こんばんはー、とお決まりの挨拶。わたしの黒髪とか褒めてくれて、かわいいね、とか言ってくれる。なんだか本当にうれしくなってくる。でも、お金が無いらしく、あまり長時間は居てくれない。だいたいいつも30分程度である。

 2ショットというモードにしてもらえればマイクも使える。双方向カメラにすればお互いの顔も見える。だけどやっぱりお金がないらしく、いつも通常のパーティーチャットである。彼はわたしの顔も見えるし、マイクで声も聞ける。しかし、わたしには彼の顔も見えなければ声も聞けない。タイピングの言葉だけが頼りである。それでも何となく彼の性格がわかる感じがするから不思議である。

 住まいは「倒壊」!?・・間違えた「東海」、こんな具合でつい笑ってしまう。何となく話しやすそう。

  ―東海て、石川県あたりですよね?

  ―それは北陸

  ―え、じゃあもっと上のほうだっけ?

  ―上?上空何メートル?

  ―・・・・・

 そんな会話を繰り返し、だんだん仲良くなってくれているようでうれしかった。ほかの男性となんか違うかも。そしてちょっとエッチなことをして、毎回30分程度で終わりである。

 “それじゃあまた”、というのがいつもの彼のセリフである。後で知ったことだが、いつも5千円ずつポイントを買っているらしかった。それでいつも「会話」は30分程度である。最初の何回かは、エッチなことをした。15分くらいおしゃべりをしたあと、彼がじれたように、エッチな気分になっちゃった、と言い出し、わたしもニコッとして、彼の求めに応じるのだった。  

 そして、わたしは二十歳になった。チャットのカバー写真に出る芸名、さやか、とともに表示される年齢が19歳から20歳になった。彼からメールが来た。サイト内専用メールである。“さやかちゃんこんにちは。いつ二十歳になったの?お誕生日おめでとう(^^)”というものだった。わたしはうれしくなった。”2月が誕生月なので今月二十歳になりました、これからもよろしくね?“と、メールを返した。

 彼とのチャットでの会話はその後も続いた。でも、エッチなことをしなくなった。ある日の会話でこんなことを言ってきた。

  ―さやかちゃん、最近エッチな気分にならないんです。もう年なのかな?

  ―だいじょうぶですよ。マイケルさんより年上の人も良く来るし、わたしは素のままのマイケルさんが好きですよ。

 こんな風な会話を交わした。エッチなことをしなくても、彼との会話は楽しかった。むか

し見た映画の話や、マンガの話などもしてくれた。わたしが好きな作者のマンガの話もあった。

そうだったのか、ただ面白いなーなんていうふうに見てたけどそんな見方もあったのか、と思えて楽しかった。わたしが全然知らない昔の映画なども、彼が話すと、まるでその映画を見ているように感情移入できた。彼との会話はいつもあっという間だ。そして、冬が過ぎて春になろうとしていた。

 4月のある日、久しぶりに彼がインしてきた。

  ―さやかちゃん、じつはぼく、仕事を辞めたんだ。

  ―そうだったの?

  ―だからもう、あんまりチャットはできないかも。

  ―わたしは、マイケルさんが来てくれるのをずっと待ってますよ。

 それからも、彼とのチャットは続いたけど回数は減っていた。アイドルや芸能界の話やお互いに見たテレビドラマの話などしていた。芸能人のセクハラなどの話もしてきた。彼は、自分はフェミニストでも正義者でもない、アダルトチャットをしている、ただのエッチな男です、と言いながら、こういった問題を気にしているようだった。

  ―お互いの合意がなければだめだよね。そういうことを考えられるマイケルさんは立派・・・。

 彼は実際はどんな人なのだろう?顔も見たことないし、本名も知らない。今までの彼との会話を思い返しながら想像した。案外ちょっと真面目な人?


                     4


 月日は経ち、また2月がめぐってきた。わたしは、相変わらず毎日のようにチャットの仕事を続けていた。年末年始もゆっくり休めないほどだった。それに見合う収入はあったと思うが。めずらしく彼がインしてきた。事前にメールもなく入ってきたのでちょっと驚き!?

  ―さやかちゃん、ぼくはチャットをやめようと思う。

  ―え?

  ―さやかちゃんは、“処女”を売りにしてこのチャットをしてるけど、このチャットを続けている限り、現実にいい男と出会えないじゃないか。

  ―・・・・・

  ―ぼくは、さやかちゃんが本当に好きだし、なのに、さやかちゃんが幸せになれないことを前提に、このチャットを続けるのはおかしいと思うようになったんだ。

  ―わたしは、マイケルさんが来てくれることが楽しみで・・・。そりゃあ、いやなお客さんもいるけれど、マイケルさんが見守ってくれていると思うから、チャットを続けることができたのよ。

  ―ぼくには、見守るなんて、そんなことは出来ないよ。そんな正義者じゃないし。

  ―でも、さやかの幸せを願うって言ったけど、それは正義者ってことじゃないの?

 私は、自然に涙が出てきた。最初にこのチャットで彼と出会ったときから、今までのことを思い出した。その後この日、どんな会話をしたかよく覚えていない。とにかく彼の決心は変わらないらしく、十数分で会話は終わってしまった。これでもう本当に彼とは会えないの?    

 2月の誕生日を迎え21歳になった。相変わらずチャットレディーを続けていた。時間が流れていく。彼がチャットで何気なく言っていた言葉を時々思い出す。“サルトルは無神論者だった。しかし、そんなふうに考えなくても、自分の進む道を親も先生も決めてくれない、自分で決めなければならない、と考えたらどうでしょう。”そりゃあそうだけど、今のわたしに何ができるっていうの?

そういえば彼、仕事を辞めて1年近くなるけどどうしたのかしら?わたしが心配することでもないのかなー、とか時々考えた。わたしにできることは、毎日チャットをしながら、彼にサイトメールを送り、インしてくれることを待つだけ。

 冬が去り、次第に暖かくなり春が近づいてきた。わたしは久しぶりに、このチャットを紹介してくれた、大学に行っている友だちとメールで会話した。

  ―サーちゃんひさしぶり、元気?

  ―元気だけど、そっちは?

  ―何とかやってる。そろそろ就職のことまじめに考えないと。ねえ、久しぶりに会わない?ちょっとくらいなら奢るから(^^)

 ―いいね^^、久しぶりにマーコと会ってカラオケにでも行こうか。

 こんな会話を交わし、3月の終わり頃彼女が大学に行っている東京に行った。

 久しぶりにくる東京は、以前とはだいぶ様子が変わっていた。地下鉄の切符を買うのも現金だとどうなるの?改札も違うじゃない。なんとか渋谷までたどり着き、東口のモアイ像前で午後5時に待ち合わせすることができた。

 彼女と、まずはスマホでお互いの位置を確認しながら。声と現実が一致し通話と口と両方で挨拶をして、再開を喜び合った。東京暮らしが長くなっていた彼女は、センスが良くなっていたが、なつかしさを求めてもいるようだった。まず、センター街に行き、ちょっとしたカフェレストランで食事して、ワインを少しだけ飲んだ。そのあとカラオケで2時間くらい、飲んで歌った。AKBとか嵐とか、知っている曲をお互い歌いまくった。

 そういえば、彼はAKBは好きだけど大島優子がセンターの『ヘビーローテーション』のMVだけは好きじゃないって言ってたなあ。

  ―ねえマーコ、ヘビーローテーションの歌じゃなくって、あのMVどう思う?

  ―わたし、あのMV好きなのよね、女の子の“かわいい”が詰まってる。でも友だちは、引いたって子と半々。

  ―そう・・・。

 そんな会話をしながら、時間は午後10時くらいになっていた。

  ―サーちゃん、今日泊っていくでしょう。わたし、明日講義もバイトもないから、もう一軒行かない?

  ―どこへ?

  ―フフフ、いいとこ。

 何となく想像はついたけどまあいいか、どうせ彼女の奢りだ。センター街からちょっとハチ公口方面に下り、道玄坂を昇った。入り組んだ道に面したビルのエレベーターに乗る。6階につくと、ドアが開くなり蝶ネクタイ姿の男性店員が“いらっしゃいませ”と恭しく迎え入れた。

店員が重たいドアを開け、中に入るとさらに蝶ネクタイでキメている4人の男性店員がそろって挨拶してきた。

  ―ようこそいらっしゃいませ、木村です。

  ―山口です

  ―井上です

  ―坂口です

 彼女は少しは慣れているのか、前に立って案内された席に着き、ブランデーの水割りを二つ注文した。木村と名乗った店員が、ブランデーのボトルのキャップを開け、ラベルを上にして、氷の入ったグラスに注ぎ、ミネラルウォーターで割り、軽くかきまぜた。彼女とはテーブルを挟んで向かい合わせに座り、彼女の両脇に木村と山口、わたしの両脇に井上と坂口が座った。

彼女は木村と親し気に話している。井上もわたしを初心者と見たのか、当たり障りのない会話を振ってくる。そこはわたしもチャットのプロだ。相手に適当に合わせながら、またはぐらかしもした。坂口は妙に口数が少ない。グラスにブランデーと水を注ぎ足すくらいだ。でも、友だちと久々に再会しカラオケで発散したので悪い気分ではなかった。しかし久しぶりに飲んだので、少し頭がクラっとする。

  ―ちょっとすみません。

 わたしは、化粧室に立った。鏡で髪を少し直し、席に戻ろうとすると坂口がおしぼりを持って迎えていた。

  ―どうぞ

  ―ありがとう

 次の瞬間!紙ナプキンを折りたたんだ物を周りに見えないように、わたしに渡してきた。

 そして、小声で耳打ちするように、“お店を出てから見てください”と言った。“まさか”それから30分ほど、6人で他愛のない会話を交わしながら店を出た。木村はチーフらしく“またのお越しをお待ちしております”と恭しく礼をしていた。

 もう12時近かったので、交差点でタクシーを拾い、彼女の賃貸マンションまで向かった。20分ほどで到着。わたしが半分代金を出そうとしたが、彼女は頑として受け取らなかった。

 彼女の部屋で、パジャマを借りその夜は寝た。わたしは、スマホの明かりをたよりに、さっきのナプキンのメモを確認した。11桁の数字のみが書かれていた。スマホか携帯の番号であることは明らかだった。

 翌朝、目が覚めたのは10時を回ったころだった。彼女は先に起きて、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、ハムエッグとサラダを作ってくれていた。

  ―おはよう、サーちゃん。

  ―おはよう

  ―よく眠れた?

  ―うん・・・。

  ―トーストは?

  ―ううん、いらないかも。

 久しぶりにお酒を飲んだので、胃がうまく動いていなかった。だけどコーヒーを飲んだら結局トーストも2枚食べてしまった。彼女にはすっかりお世話になってしまったが、今日は夜10時からまたチャットである。礼を言って彼女の部屋を出た。教えてもらったバス停からバスに乗り、渋谷駅に戻った。

 

                      5


 渋谷につくとすぐにレンタルルームを探した。チャットレディーをやっていると、そういうものがどこにあるかも何となく想像がつくものである。値段とサービスのバランスの取れた部屋はすぐに見つかった。廊下の自動販売機でミネラルウオーターのペットボトルを一本買った。チャットのときによく飲むのと同じ銘柄だ。

 部屋に入り、ペットボトルの水を一口飲むとスマホを見た。昼の12時近くになっていた。落ち着いて11桁の番号をプッシュした、しばらくすると“おかけになった番号は現在使われておりません”という無機質なアナウンスがながれた。押し間違えたかな?もう一度慎重に番号を押す。結果は同じだ、??

 番号をよく見る。最初の3桁が090、最後が070。ひょっとして?今度はメモの番号を後ろからかけてみた。着信音が鳴る。心臓の鼓動が少しずつ大きくなる。5回目で人が出た。間違いない坂口の声だ。

  ―もしもし

  ―もしもし、さやかちゃん?

  ―坂口さん?ねえ、あなたマイケルさんでしょう?

  ―・・・・・

  ―すぐわかるわよ、こんなことすれば。

  ―・・・ば、れ、た、か

 やっぱりマイケルさんだった。でもどうしてあの店にいたんだろう?

  ―さやかちゃん、ぼくは謝らないと。

  ―え、何が?ねえどうしてあの店にいたの?

 チャットが途切れてしまって1っか月ちょっとだ、まさかこんなふうに会って話すとは。マイケルさんてこんな声?想像していたよりちょっと軽い感じがする。

 彼から聞いた話はこんな具合だった。昨年3月に仕事を辞めて、浪人生活を送っていたが、9月頃、東京の自分の出身大学のS大学で職員を募集していることを知り、契約社員として採用されたこと。そのため、年明けくらいから東京に来て準備をしていたこと。取りあえずの生活費を稼ぐために、渋谷のあの店でアルバイトをしていたこと。わたしが、お客として入ってきたのでとても驚いたけど、わたしは彼の顔も声も知らないので気づかなかったこと。でもどうしても話したかったこと、などなど。

  ―でも、マイケルさんて口下手な印象だったけど、あんな店で働いているなんて思わなかったわ。

  ―最初は、喫茶店かバーのつもりだったんだ。でも、その方が稼げるよって話になって、

 リードの上手な店員もいるけど、自分みたいな聞き役に徹する店員も必要らしいんだ。この人ならなんでも聞いてくれるって・・・。

  ―でも、あの日は、わたしがお客で立場が逆になっちゃったね。

  ―本当にそうだね。

 二人で笑った。

  ―でも、謝りたいことって何のこと?

  ―それなんだけど

  ―うん

  ―以前チャットを辞めるといったけど、それは2月くらいから東京に来て新しい生活を始めるので、区切りのつもりだったんだ。でも、そういう個人情報は出来るだけ言いたくないし・・。それで、さやかちゃんの幸せのためなんて言っちゃって。それじゃあ、さやかちゃんに対して失礼だし、それだけでなく全国のチャットレディーに対する冒とくだし、職業差別だよ。さやかちゃんを悲しませてしまった。ぼくは正義者じゃあないけど不正義者にだけはなりたくないんだ!

  ―わたしは、単純に、もうマイケルさんとはお話しできないのねと思うと悲しかったの。

  それに、生活のためにまだまだチャットは辞められないし。

 1時間近くこんな話をした。こんなに長く話をしたのはチャットでもなかったことだ。もっと早くこういう話ができていれば?でも、こういう話をしてしまうということは、もう本当に終わりなんだということに気づいた。それは彼もわかっているようだった。

  ―こうして、話をしてしまった以上は、もうチャットでは会えない、ルール違反だ。

  ―そうかもね。

  ―でも、ちょっと考えていることがあるんだ。

  ―なあに?

  ―今は言えない。でもきっとわかってもらえる時が来る。いや、わからせて見せる。

  ―??

 それから、最後の別れの挨拶をして電話を切った。スマホを見つめて、涙が画面に落ち、あわててハンカチで拭いた。静かに、レンタルルームを後にした。3月の終わりのこの時期は、もう桜が咲くころだ。ふんわりとした暖かい風が吹いていた。


              Ending


 あれからまた月日が流れた。わたしは、ずっとチャットを続けている。こういう仕事をしているとネット情報には詳しくなるものだ。最初に紹介してくれた友だちのマーコとは今でも時々会う。でも、渋谷のあの店には2度と行っていない。あの夜のことは秘密にしてある。最近は就職活動で彼女も忙しそうだ。久しぶりにメールで話した。

  ―ねえ、サーちゃん、最近ネットである小説が話題なんだって、こんなのあり得ないていうのと、ステキというので意見が半々みたいよ。

 わたしは、あっと思った。それを悟られないようにそのサイトのURLを送ってもらった。アクセスして、教えられた作者と題名を検索した。“やっぱり”。わたしは一気に読み終えた。

 それは、わたしと彼との一年間の物語だった。“マイケルさん、やったな”思わずニンマリした。でもその作者は、本名も経歴も顔写真も公表されないみたいだった。でもわたしにはわかる。作品の最後のページにある一文。


            〜全国のやさしいチャットレディーたちに〜            


 あの3月の、彼との会話があざやかによみがえった。


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