第2話 雨の日の満員電車
俺の名前は天羽真斗(アモウ マサト )。
天羽なんて珍しい苗字だけど俺はどこにでもいる普通の凡人。
24歳独身。サラリーマン。彼女無し。好きなものはゲーム、という平凡な男だ。
これといった特技があるわけでも、稼ぎが良いわけでもない。
俺の紹介は上記で殆どだ。そんな俺はいつものように出勤するためアパートから駅に向かって歩いていた。最寄りの駅から会社附近の駅まで5駅ほど、出来れば会社の近くに住みたかったがオフィス街なだけあって凡人には到底払えない家賃だった。
でも今はこっちで良かったと思っている。都会から少し離れて落ち着いて生活できるし、何より臭くない。都会特有のあの臭さは今だに慣れない。あの匂いは一体どこから来るんだろう・・。
「あ、雨降ってきた。」
そういえば今日は朝から雨の予報だった。今週は崩れるらしい。
「ーーーー傘、持ってくんの忘れた」
上を見ると青い空が灰色の雲に覆われ始めていた。
ぽつぽつと眼鏡に雨が当たって視界がぼんやりとする。雨の日や雪の日は眼鏡族にとっては憂鬱だ。拭いた先から眼鏡が濡れ見えなくなる。
こういう時はあれだ。ダッシュ。
もう走るしかない。
スーツで全力疾走は恥ずかしいけど、会社に着いた時びしょ濡れじゃ同僚の坂本あたりにまた嫌味を言われる。
俺は鞄を持ち直し駅へと続く道を走り始めた。バシャバシャと水が跳ね上がってズボンの裾を濡らしているが、段々と強くなり始めた雨に小さいことは構っていられない。水滴でぼやける視界でなんとか駅前までたどり着くと同じように雨を避けるように早足で駅構内に入って行く学生やスーツ姿の人の姿がちらほら見えた。俺も早足で駅の階段を上り屋根の下でほっとひと息つく。とりあえずハンカチで適当に眼鏡を拭き、スーツの水滴を払う。結構濡れた。びしょ濡れとまではいかないが、一歩前くらいまで濡れてしまった。俺がため息をついたとき電車の到着を告げる放送が入った。
「すみませんーーっ!中のお客様もう少しつめてください!!押しますよーー!!」
駅員が扉附近の乗客を車内に押し込んでいる。今日はいつもより満員だ。雨の日の混んだ電車内は乗客同士の濡れた服や傘が当たってぎすぎすした雰囲気が立ちこめている。悪いと思って動こうにも息をするのがやっとな程ぎゅうぎゅうにつめられてしまえば身動きすることも出来ない。
俺はまた一つため息をつくと、鞄を肩にかけ両手でつり革を掴んだ。
満員電車の鉄則。両手でつり革を掴むことで痴漢に間違われることを防ぐ。最近、冤罪痴漢が多いため電車に乗る時はこうしている。一度痴漢と言われてしまえば、無罪になることは難しいらしい。それを分かってわざと体を押し付けて罪を着せる女もいるというからなお恐ろしい。
もし俺が痴漢なんかで捕まったら、母さんは酷く泣くだろうし、もしかしたら病気になるかもしれない。父さんには殴られた後絶縁されると思う。姉さんからはゴミを見るような目で見られた後、死ね、とか言われるだろう。会社からは強制退職させられ、被害者に多額の金を支払い、貯金は無くなり路頭に迷う、考えただけでも恐ろしい。
「扉が閉まりますーーっ!扉付近のお客様は注意してください!」
駅員の大声の後、扉がゆっくりと閉まり、入り口付近の乗客からは安堵のため息が漏れる。直ぐに電車が動き出した。どこからか重そうに電車が軋む音が聞こえる。いつも思うのだが電車って何キロまで耐えられるのだろう。今の状況は完全に重力オーバーな気がする。
そんなどうでもいいことを考えていた時、目の前にいる人物が小さく震えているのに気づいた。というか完全に密着した状態だったため微かな震えだったが直に体にあたり気づいてしまう。
震えている人物を見下ろす。俺より大分背が低い。英桜高校の制服を着ているからそこの女子生徒だ。
ーーーなんで震えているんだろう?
雨で冷えたのか?
そういえば俺はかなり濡れている。俺に付いていた雨が彼女を冷やしてしまっているのだろうか、そうだとすればかなり申し訳ない。仕方がないことだとしても彼女からすれば今の状況は最悪だ。俺が彼女の立場だったとしてもそう思うだろう。この野郎、びしょ濡れで満員電車に乗りやがって、コロスゾ!!くらい思っているかもしれない。いや多分思っているだろう。
俺は心の中で彼女に謝る。
俯き加減になった俺の前髪から雨がぽたりと少女の頭にあたる。びくっと少女が驚いたのが分かった。
「あ、ごめん」
これは無視出来なかった。俺は謝りながら少女の反応を待った。しかし、少女は何の反応も見せない。俯いたまま体を震わせている。
ーーーこれは何かおかしい。
具合でも悪いのか、もう一度声をかけようとした時、気づいた。
少女の後ろにいる男の雰囲気が変だ。中年くらいだろうか、ジャンパーのフードに隠れて顔はよく見えないが異常に興奮している。フードの下から見える口元には無精ひげが生え、乾いた口から黄ばんだ歯が並んでいた。
密着しているため何をしているかまでは見えないが、これは多分痴漢だ。痴漢の撃退法なんて知らないがこのままにしておくことは出来ない。
とりあえず彼女から離す!
「ちょっとごめんね」
「ひゃっ・・」
つり革に捕まっていた両手をそのまま少女の両肩に下ろすと少女は小さく驚いた声をあげた。俺はかまわず手に力を入れ少女を引き寄せた後ぐるりと体を反転させた。少女と僕がいた場所が入れ替わる。男も驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「あの、次の駅で一緒に降りてください。俺、あなたがしていたこと見ていましたから。」
周りにいた乗客が状況を把握し、男に冷たい視線を浴びせる。
男はがっくりと項垂れた。観念したようだ。本当は何をしていたかまでは見えなかったが、これくらいは言っておいた方が良いと思った。
俺は本日何回目かになるため息をつく。こんなことをするのは勿論初めてで、今ので大分HPを消費した。多分今日分のを使い果たした。
と、腕の中でなにかがごそごそと動き、俺は慌てて両手を上にあげる。
少女がぷはっと顔をあげた。大きな瞳が戸惑ったように揺れていた。状況の確認に数秒俺を見て助けが入ったのを理解し、後ろの痴漢男をちらりと見る。
「・・・・っ」
目をそらし、俯く。そりゃそうだ、まだ怖いにきまってる。俺はなるべく少女から男の姿が見えないように少女の前に立った。
駅は次の駅で降りた。
俺の会社はあと4駅先だけど、痴漢男を駅員に引き渡さなければならない。近くにいた乗客数人が手伝ってくれ、駅員を呼びに行ってくれる。俺と少女、他に3名の乗客がホームに残った。
乗客の1人の二十代くらいの男が痴漢男の前にずいっと出た。
「しかし、あんたよくこんなことが出来るよな、いい年こいて恥ずかしくないのかよ!この変態おやじ!あ゛ぁ゛?何か言ってみろよ」
「ひぃ・・・」
「・・まぁ、まぁ、後は駅員に引き渡して警察がきっちり絞ってくれますよ」
他の乗客が間に入る。そこに駅員数名が駆けつけてきた。
「痴漢があったと聞きました。関係者の方々ですか?」
「はい。この男性が女の子を触ったんです。僕が見ていました」
「そうですか、分かりました。少しお時間よろしいでしょうか、警察に引き渡す際、色々と聴取がありますので、お客様にもお話して頂きたいのですが・・・」
「い、嫌だぁああああーーーーッ!!」
駅員が話している途中、痴漢男がホームから線路内に飛び降りた。そのまま線路の上を走り始める。
「ーーなっ!?ーーおい!待ちなさいっ!加藤、非常ボタン押せ!」
「は、はい!」
加藤と呼ばれた駅員が近くの非常ボタンを押しに走った。その間に他の駅員が線路の上に降り、男を追いかける。警報アラームがけたたましく駅構内に鳴り響いた。
『ーー只今、非常ボタンが押されましたので当駅は全ての運転を見合わせております。安全が確認されるまでーーー。』
「おい!離せッ!」
先ほど男に怒鳴っていた青年が追いかけようとしたが、他の乗客と駅員が押さえていた。
痴漢男はもう大分遠くまで逃げていた。駅員が追いかけているが捕まえるのは難しそうだ。
残った駅員に案内され、俺と少女は駅構内の客室に通され警察の到着を待っている。先程会社には遅くなることを告げた。
机を挟んで向かいのソファに座る少女は先程からそわそわと落ち着きがない。チラッと俺を見て目が合うと恥ずかしそうに視線を逸らした。
「あ・・の・・助けてくれてありがとうございました・・・」
小さな声で礼を言う。人見知りするタイプのようだ。
「どういたしまして」
という俺も初対面の人相手にいきなりべらべらと話が出来る人間ではないので決まり文句のようなことしか返せない。
「・・・・・」
「・・・・・」
き、きまずい。
これは多分お互いきまずい・・・。
声をかけようにもこんな特殊な場面で何を話せばいいのか分からない・・・・。