孤独な狼
「今日は晴れてて良い天気だなあ」
山の奥。雪深いところに、ひとつの小さな村がある。そこに訪れるものはほとんどなく、たまに行商人が来るくらいだ。
村の中は小さな都市のようになっており、誰も来なくとも、ここにいるだけで全てが解決していた。だからわざわざ村の外に行く者もいない。
「おや、おはようございます! おばあさん、膝の調子はどうですか?」
「あっちへ行きな、狼。アタシを食う気かい?」
そこに、一年前から人のように喋り、服を着て、二足歩行をする狼が住んでいた。
「とんでもない! 今日もこれからパン屋さんのところのバゲットを買いに行くんです。あそこのパンは世界一美味しいから」
「ふん。村の者を食うんじゃないよ」
「はい、もちろん。この村に住まわせて頂くためのルールは忘れていませんよ」
その狼は村人から嫌われていた。
人の言葉を話して人のように暮らすからではない。
この村は非常に排他的で、とにかく新しいものを嫌っていたのだ。だから、村人たちは新しく住み始めた狼のことを受け入れられていなかった。
「ではまた! あ、助けが必用であればいつでも呼んでください」
「お前を呼ぶことはないだろうさ」
この狼は、ある日突然この村に現れた。
葉っぱでつくった服を着て、背筋をピンと伸ばし、しっかりとした足取りで村長の家まで歩いて行き、絶対に村人を食べないと約束するので家を貸して欲しいと頼み込んだのだ。
村長を始め誰もが最初こそは聞く耳持たなかったが、狼が珍しい織物の折り方を知っているとわかってから、仕事ができておんぶに抱っこにならないのならと村人たちは家を貸した。
自分の力だけで生きなければならず、村人に頼ることは難しいだろうと思われた。それでも狼は家を貸してくれたことへの感謝を述べると、翌日から村人と同じ布の服を着て人間のように暮らし始めたのだった。
「おはようございます、パン屋さん。いい匂いだなあ。バゲットはまだありますか?」
「また来たのか。お前、買ったパンはどうしてる。どうせ捨てて、動物の肉でも食ってるんだろう。人間のふりなんかしなくていいぞ」
「ちゃんと食べてますよ。こんなに美味しいパンを捨てるわけないじゃないですか」
困ったように頭を掻いて笑う狼に、パン屋は鼻を鳴らして睨みつけた。
そして固くなったバゲットをいくつか袋に放り込むと、投げつけるようにして狼に渡す。
「どうも!」
狼はパンを受け取ると、銅貨をいくつか渡して店を出た。
パンの袋に鼻先をつっこんで大きく息を空いこんだときのこと。朝食を終えたであろう子供たちが、ソリを持って村の中を駆けて行く。
それを目で追いながら、狼はにっこりと笑顔を浮かべた。
「可愛いなあ」
鼻先をくすぐるバゲットの匂い。どこかの家から漂ってくるベーコンの匂い。
空腹が我慢できなくなった狼は、袋を開けると大きな口でバゲットにかじりつく。固いパンも狼の強靭な顎であればさほど食べるのに苦労もせず、狼は「やっぱり美味しい」と言うとそれを二口で食べきった。
「さて、今日は裏のおじいさんの家の雪下ろしをしないと。あとは服屋のところに赤ちゃんが生まれたから、肌着を持って行ってあげようかな。そう言えば作りおきのジャムがまだあったから、これは二軒先の女の子に持って行ってあげよう。確か木苺のジャムは好物だったはずだぞ」
今日一日何をして過ごすかを考えながら、狼はみんなに会える喜びに胸を躍らせる。
「さあ、そうとなれば早く行動しよう!」
しかし、狼がいくら頑張ろうとも、村人は狼のことを受け入れてはくれないのだ。
それでも狼はこの村が大好きだった。
* * * * *
「えっ、子供たちが帰ってこないですって?」
その日の夜。
村人が大勢、狼の家にやってきた。手に松明を持ち、目を吊り上げて狼を睨みつけている。
「朝遊びに行ったきり、帰ってこねぇ。お前、食っただろう」
「そんな馬鹿な! ここに住み始めた時に約束をした通り、僕は人間を食べたりしませんよ」
「信用ならねぇ」
そう言うと村の男達は狼の許可無く家に上がり込み、次々とタンスを開け、ゴミ箱をあさり始める。
それを呆然と見ていた狼だったが、すぐに何かを思い出すと外套をひっつかんでスルリと外へ飛び出した。「逃げたぞ!」と叫ぶ声を無視して走りだす。
「朝すれ違った子たちだ! きっとソリで崖から落ちたか迷子になったに違いない!」
朝、走り抜けていった子供たちの姿を思い出す。
鼻先に意識を集中させ、子供たちの匂いを追った。それは大人たちが“行ってはいけない場所”と呼んでいる方へと続いており、狼は心配で胸が締め付けられる思いがした。
「早く見つけないと……! 今日はこれから吹雪になるぞ!!」
狼には、濃い雪の匂いがしていた。
+ + + + +
「おお~い!」
子供たちの跡を追い始めてしばらく。
雪が斜めに降り始め、匂いももうほとんどしなくなっていた。それでも狼は探すのを諦めず、暗闇の中をたった一匹で探す。
その目には人と違いあらゆるものが見えていたので、狼は何一つ見逃すまいと目を皿のようにして辺りを探した。
するとその時。
― うえぇ~ん ―
泣き声が聞こた。
狼は耳をくるくると動かすと、音が聞こえた方へ駆け出す。
そして何分も走らないうちに、とうとう崖の下に数名の子供たちの姿を見つけたのだった。
「やあ、やっと見つけたぞ」
笑顔で狼がそう言えば、凍えて動けなくなった子供たちは見知った姿に安堵し、大声を上げて泣き出す。
「怖かっただろう、よく頑張ったね。もう大丈夫。すぐにパパとママのところに連れて帰ってあげるよ。さあおいで。僕にくっついて? きっとその方が温かいから」
素早く崖の下に降りた狼は、子供たちに怪我がないのを見ると全部で四人いた子供たちを全て抱き上げた。他に子供がいないかを確認して大急ぎで村へと戻っていく。
そして村に近づいた時には、狼の長い毛にはすっかり雪がはりついて、大きな雪だるまのようになっていた。それでも子供たちが濡れないように外套で包み込み、松明を持ってこちらを睨みつけている村人たちの中に子供たち親を探す。
「なんで戻ってきたりした。お前の家は燃やしたぞ」
「子供たちを見つけてきたんです。ほら」
泣きつかれた子供は全員寝ていた。
「誰も怪我せず、崖の下にいました。朝、ソリ遊びをしに行くのを見かけたので、もしかしてと思ったんです。すぐに見つかってよかった」
親は困惑した顔で狼から自分たちの子供を受け取ると、少し立ち尽くした後で何も言わずに家へと帰っていった。
「僕の家、もうないんですね。また建てないといけませんね。今日は洞穴で寝ますから、気にしないでください」
狼は何事もなかったかのように笑顔を浮かべると、村の外へと歩いて行った。
+ + + + +
「おや」
翌朝。洞窟の中で目を覚ますと、いつの間にか狼に毛布がかけられていた。その毛布からは助けた子の家の匂いがする。
「……ああ」
それからバスケットが置いてあり、そこにはまだ温かい食事と、湯気の立つ焼きたてのバゲットが入っていた。そして食事の匂いに紛れ、また別の子の匂いがする。
「ああ、僕はなんて幸せ者なんだろう……」
狼は自分の胸が熱くなるのを感じ、大きな溜息をつく。
そして痛む鼻先をこすりながら、置いてあった食事を食べた。
食事が終わって村に戻ると、狼の家があった場所は確かに更地になっていた。燃えた木は端に避けられ、そこには何もない。
「さて、どこから作ろうかな」
そう言いながら袖を捲り上げた瞬間、村の中央付近が騒がしいことに気づく。
何が起こったのだろうとそちらの方へ行ってみれば、見たこともない鎧をまとった男たちが数人いた。どの男たちも顔をしかめ、物色するように周囲を見渡している。
「珍しいな。訪問者かな?」
そして狼は、いつもはいるはずの女子供、年寄りがいないことに気づく。いるのは村の屈強な男たちだけだ。
「どうしたんですか?」
狼がそう話しかけるも、誰も答えなかった。
正確に言えば、男たちの方に集中していて狼の声に気づかなかった。
「もう一度言う。今すぐ、この村の食糧を全部出せ。それから馬もだ。今日の夕刻までにそれが出来なければ、お前たち全員を殺すからな」
この男たちは、騎士崩れだった。
騎士として働くことができなくなったので、強盗のような真似をして生きてきている者だ。だから、男たちが殺すといえば本当にそうなるだろうことは、村の男達にはハッキリとわかっていた。
しかし、この村の冬はまだ続く。
今この村の食糧が全てなくなってしまえば、村人は確実に死んでしまう。であれば、この目の前にいる数人の男たちを、刺し違える覚悟で追い出すほうがマシだと思われた。
「それから金も出せ。街で話題になっている虹布の生産地はここだろう? 相当な金があるはずだ」
虹布とは狼が生産を得意とする布のことだった。それは見る角度によって色が変わる不思議な布で、貴族の間で流行っているのだ。狼が布の作り方を村人に教え、一緒に作ってきた。村人はそれがどういう使われ方をするかはわからなかったが、商人が高く買ってくれているので、売れた後のことは気にしたことがなかった。
「ここには、お前たちにやる金も食糧もねぇ。うせろ」
ようやく誰かがそう言った時、今までニヤニヤと笑っていた騎士崩れの男たちは顔色を変える。
「あんだと?」
次の瞬間、うせろと言った村人は吹き飛ばされていた。頬を殴られ、唇を切って地面に転ぶ。
それを見て抵抗しようとした他の村人は、その首元に剣をつきつけられて動きを封じられた。
「これが最後だ。夕刻までに、ここに、必ず金と食糧を持って来い。抵抗すれば殺す。嘘じゃねぇ。それだけじゃねぇぞ。お前たちの大事な女子供がどうなるかよく考えろ」
もう、男たちに抵抗する術は残されていなかった。
* * * * *
「じゃあ全ての食糧をあいつらにやるっていうの?」
村の女達は何があったのかを知り、絶望に顔を歪ませる。
子供たちは事情がわからないなりに、異常事態を感じ取っておとなしくしていた。
今、全ての村人が村長の家に集められている。女子供と年寄りは息を潜めていたが、男たちからもたらされた話に絶望して顔を覆った。
「少しだけ渡して、後はないっていうのは?」
「バレたらどうなると思う」
話はなかなか進まず、あちこちから泣き声が聞こえ始める。
「じゃあ、僕がちょっと言って話してきましょうか?」
狼のひどく落ち着いた声に、村人たちは一瞬静まり返った。
声が上がるまで存在すら忘れていたほどだ。
「狼なんかに何ができるっていうんだ」
「わからないですけど、狼だからって油断しているかもしれないし。その油断をつけば勝てるかもしれませんから」
そう言って笑う狼を、誰もあてにしなかった。
「余計なことをして被害を拡大させないでくれ」
村長はかろうじてそれだけ言うと、再び男たちと打開策がないかを話し始める。
その後姿を見ながら、狼はそっと村長の家を出た。
「ようやく僕が村のみんなのために動けるチャンスがきたんだ。こんなの、黙っていられるか。僕は村のみんなに恩返しがしたいんだ」
狼はそう言うと着ていた服を脱ぎ、鼻にしわを寄せて歯をむき出しにしながら唸る。
「村のみんなを困らせるやつなんか、僕がやっつけてやる」
騎士崩れの男たちはすぐに見つかった。
まだ村の中央でかたまって雑談に興じている。そこへ向かうと、狼は胸を張ってこう言った。
「やい、随分と酷いことをするじゃあないか。食糧なら僕のをやるから、ここの村人には手を出すな! 家は燃えてしまったけど、まだ倉庫には食糧が――」
「なんだ、この狼は。何をワンワン吠えていやがる」
訝しげに鼻の頭にシワを寄せる男たちを見て、狼は小さくため息を付いた。
「――これから約束を破るから、人間に言葉が通じなくなっちゃったのかな」
肩を落とした狼だったが、すぐ目に力を宿して遠吠えをする。
そしてそれが終わると、狼は男たちに向かって飛びかかったのだった。
* * * * *
「何の音だ」
村人たちが村長の家で話し合いをしていると、突然狼の遠吠えが聞こえた。
そしてすぐに騎士崩れの男たちの騒ぐ声が聞こえ、それはやがて悲鳴に変わった。その声が収まったのは数分もしないうちで、静かになってしばらく経った頃、ようやく一人の若者が声を発した。
「ちょっと……見てくる」
誰もその若者を止めることなく、その後に数人の男が続く。
そして彼らが見たものは、村の中央で首から血を流してピクリとも動かない騎士崩れの男たちの姿だった。
「これは……どういうことだ」
その傷口は明らかに獣がつけたもので、そんなことをできる者を、村人たちはあの狼以外に知らなかった。
「……やっぱり、あの狼は人喰い狼だったんだ」
誰かがそう言い、数人が同意する。
それはやがて大合唱になり、狼を見つけ出して殺せと言い始めた。
後を追うべく周囲を見渡すと、血の跡が点々と木々の間に続いている。それを追おうとしたその時のことだった。
「もうやめなよ!」
泣きそうな子供の声がする。
「なんでそんなに酷いことをするの!」
それは、ソリ遊びをしていて迷子になった子の一人だった。
「私が迷子になった時、まっさきに迎えに来てくれたのはパパでもママでも、村の人でもなくて狼さんだったんだよ!」
泣きながらそう言う女の子に、村人たちは何も言えない。
「みんなが寒くないようにって、抱っこして外套で雪をからないようにしてくれたのも狼さんだった! ねぇ、あの狼さんが何をしたの?」
そう問われ、誰も答えることが出来ない。
「あの狼さんが、今まで私たちに酷いことをしたの!?」
「あの牙は……尖っている。人を噛むかもしれない」
「誰が噛まれたの?」
誰も噛まれたことはなかった。
「あの爪で、裂かれるかもしれない」
「誰が裂かれたの?」
誰も裂かれたことはなかった。
「おじいさんの家の雪下ろしをしたり、膝の悪いお婆さんの代わりに畑を耕したり、あの狼さんはいつでも私たちを助けてくれたのに、どうして私たちはあの狼さんに酷いことをするの?」
すっかり泣き出してしまった少女の肩を抱いたのは、両親だった。
「……あの狼がいなかったら、私の子は死んでいた」
ポツリとそう言われ、誰も何も言えなくなる。
確かに狼は誰も傷つけず、いつも笑顔で村人に接していた。
二足歩行で人の言葉を話す特別な狼であることは問題にならないくらい人間くさく、そして本物の人間よりもよほど心優しい生き物だった。
あの鋭い牙も、鋭い爪も、一度足りとも村人たちにむけたことはなかった。
「……あいつの家に火をつけたのは俺だ」
「私は、畑仕事の道具を隠したわ……」
「酷い言葉を浴びせた」
村人全員が、狼に対して後ろ暗い過去を持つ。そして狼が自分たちにしてくれたことを思い出しては、心をえぐられるような思いになるのだった。
なぜ見た目だけで悪いやつだと思い込んで、その本質を見ようとしなかったのかと。
「狼さんはどこへ行ったの? 怒って、もう帰ってきてくれなくなっちゃったの?」
姿を消してしまった狼。
ここにある血は、恐らく男たちのものだけではないはずだと思われた。
村人たちには、自分たちがあんなに酷い目に合わせてしまった狼が、もう一度村へ戻ってくるとはとても思えなかった。
* * * * *
「おーい、早くしろ! 春までにつくりあげるぞ」
怪我をしたはずの狼を探す部隊、狼の家を直す部隊、狼の家財道具を整える部隊に分かれ、村は忙しく動いていた。
子供たちは母親と一緒にキルトを縫い、狼の寝具やカーテンを作る。男たちは家やその中に置く家具を作る。
狼がいつ戻ってきても良いように、そして戻ってきたら謝罪できるように、村人たちは必死に動いていた。
「ねぇ、ママ。狼さん、戻ってきてくれるかな?」
子供の問いに、母親は答えることが出来なかった。
やがて狼の家ができ、全ての家財道具が揃い、畑を耕し、畑道具を準備し、定期的に保存食の入れ替えや掃除をする。
そして雪が溶け、山肌が見え、また雪が降り始めた頃のこと。
子供がソリ遊びをしようと村の外に出ると、遥か向こう側に黒い塊が見えた。
「ねぇ、あれなあに?」
一人の子がそう言うと、全員の視線がそちらに集中する。
やがてそれは大きくなり――
「あ、久しぶりですね」
二足歩行の狼は、いつもの様に笑顔を浮かべて手を上げた。
「狼さん……?」
子供たちはぽかんと口を開け、ただ狼を見つめる。そしてその耳が一つしかなくなっていることに気づき、痛ましげな顔になった。
「どうしたの? ソリ遊び? 崖から落ちないように気をつけてね。あそこは柵をつけておいたけど、応急処置だからあとでしっかりしたのを作ら――あ、僕の言葉わかる?」
一人の子が走りだし、何かを叫びながら村へ入っていく。その後を追うようにして、他の子供も次々と自分の親を呼びながら村へと走っていった。
その後姿を見て、狼は苦笑する。
「やっぱり、人喰い狼は怖いよね。困ったな、僕はこの村にいたいんだけど、もう難しいのかな」
どうしたものかと狼が腕組みをしていると、子供たちの両親を始めとした村の大人たちが走ってきた。その表情はどこか狼を心配しているようで、狼はここでようやく「おや?」と思う。
「狼、お前生きていたのか!」
「はい、ごめんなさい」
驚いたようにそう言った狼を見て、村人たちは心が痛んだ。
生きていることを謝らせてしまったことと、そういう状況に追い込んでしまった自分たち。どう狼に謝罪したら良いだろうと考えると、村人たちは何も言えなくなる。
そうして、一匹と村人たちの間には長い沈黙がおりた。
やがて言葉を発したのは、狼だった。
「……怖いところを見せてごめんなさい。もう一度ここで暮らせたらと思ったんだけど、僕は約束を破って人に噛み付いたから、もうここを出ていきますね。最後に挨拶ができてよかった。もう言葉が通じないと思ったから」
村人たちが初めて見る、笑顔になっていない笑顔。今にも泣きそうなそれは、見ているだけで心が締め付けられる。
そして耐え切れなくなった村人の一人が、狼の前に進み出て頭を下げた。
「今まで酷い仕打ちをしてしまって済まない。謝って済む問題じゃないが、どうか償いをさせて欲しい」
それを皮切りに、全ての村人が頭を下げた。
子供たちは狼にすがり、涙を流す。
狼には、こうなった理由がまるでわからなかった。
「どうして、謝るんですか? 僕、ずっとみなさんの役に立てたらって思っていました。ちゃんとできたか不安だけど。それに、酷いことをされたなんて一度も思っていないです」
本気でそう思っているような雰囲気に困惑したのは村人の方だ。
「我々は狼に対して酷いことをした。家を燃やしたり、農具を隠したり、心ない一言を沢山言った」
「それは当たり前の反応ですよ。だって僕は人間じゃなくて狼だもの。でも、ここの村の人は、誰も僕を無視しなかったから」
だからそれだけで嬉しかったのだと、狼はかすれる声で言った。
「僕はとろいから、狼の中でははみ出し者で……群れから離れてしまってずっと孤独でした。だから星に願ったんだ。どうか僕と一緒に暮らしてくれる人が見つかりますように、見つけられたら、僕はその人達を命が尽きるまで守りますって」
狼の片方しかない耳は垂れ、視線はさまよっている。
狼の群れから外れるということがどんなに大変なことか、村人には少しもわからない。それでもコミュニティから外れることが動物の世界では死に直結する可能性があることを知っていたので、狼が大変な思いをしてきたのだということはわかった。
「いくつもの夜を越えて、そして僕はようやくこの村にたどり着いた。ねえ、わかるでしょう? 本当は僕の言葉がわかる人間はいないんです。当たり前のことだ。でもここの村の人に言葉が通じた時、星は僕に人の言葉を与えてくれたんだと思ったんだ」
だからこそ、大変な思いをしてきた狼の言葉は村人にとって痛かった。
「ここの人達は僕のことが嫌いなはずなのに、追い出さずに、しかも無視せずに接してくれる。だから僕は、守るという誓いを超えて、みなさんに恩返しがしたかったんです」
真っ直ぐなその思いを、今まで無下にしてきたのは自分たちだったからだ。
「僕、ちゃんとみなさんに恩返しができたかわからないんです。だからあの男たちが来た時に、たとえ刺し違えてでも男たちを追い払うことができれば、少しは役に立てるかなって思って……そうしたら、もっと僕のことを好きになってもらえるかなって……僕の薄汚い欲のせいで、みなさんに怖い思いをさせてすみませんでした」
うつむいて頭を下げる狼に、誰も何も言えなかった。
なんと言えばいいのかわからなかった。
「…………」
長い沈黙が続き、みなどうしたらいいかわからず立ち尽くす中、一人の少女が狼の手を引いた。
「え、あの……どこに」
困惑する狼の手をぐいぐいと引く。
それは狼の家の方向で、大人たちも少女の行く方へついていった。
そしてやがて見えてきた狼の新しい家の前についた瞬間、狼は目を大きく見開く。家の門のところにある表札に“狼”と書かれている。これは狼の手を引く少女がつくったものだ。
「ああ」
狼の目から、初めて涙が溢れだす。
「ああ、どうして……僕は本当に幸せ者だ。僕はここにいても良いんですか?」
「ここにいてくれるのなら、ぜひ。そして君に償いをさせて欲しい。いつになれば君の心の傷を癒せるかわからないが、どうか君が私たちにしてくれたことを返すチャンスを――」
狼は生まれて初めて大声を上げて泣いた。
そこでようやく、自分は村人の態度に傷ついていたのだと知った。それでもまたはみ出し者になるよりは、と我慢していた狼は、自分の心が疲労し傷ついていくことに対して鈍感になってしまっていた。
だからせっかく見つけた“一緒にいてくれる人たち”から離れられず、愛情が欲しくてそこに居続けたのだ。
あの時、狼の言葉が騎士崩れの男たちに通じなかったのを知り、狼は動揺した。もしかしたらこの村の人も、いずれこの男たちと同じく自分の言葉がわからなくなってしまうのではと。
だから、怪我が治ってもなかなか村に帰れなかったのだった。もしかしたら村人との約束を破ると決めたから、星が願いの効果を消してしまったのではないかと思って。
しかし、こうしてようやく意を決して村に帰ってきて、狼は自分が本心から求めていたものが何だったのかを理解した。
「ああ、そうか。村の人は僕のことに対して完全に無関心ではなかったから、だから僕の言葉がわかるんだ」
騎士崩れの男は狼のことなどただの獣だと思っていた。
しかし村人たちはどんなものであれ狼に興味を示し、人として扱っていた。
「だからこれは、僕と村の人が仲良くなれる可能性を知っていた星が、僕に与えてくれたチャンスなんだ」
大粒の涙を零しながら、狼が泣く。
こうして狼は、ようやく心の平安を手に入れたのだった。