神の願い
「あなたの人生を私に譲ってくれませんか?」
その声の出所を探るように、今いる自分のワンルームアパートの室内を見渡す。
やはり誰もいない。それは分かっていた事。どちらからの方向から聞こえてきたわけでもない。言うなれば自分の中から聞こえてきたのだから。
舞春は幽霊にでも取りつかれたのかと疑う。そうでなければ母と同じように精神を病んでいる可能性すらある。親子2代に渡ってとなれば、あまりに悲しい血族である。しかし、その迷いを否定するように声は語りかけてくる。
「大丈夫です。貴方の精神が病んでいるわけではありません。人間では、こちらにいる私を見る事を出来ないだけです」
こちらの心を読んだように正確に帰ってくる言葉に、もしかすると夢を見ているのではないかと判断を変える。
「いえ、夢ではありません。戸惑いがあるのも仕方がありません。でも聞いてほしいのです。貴方は今の人生に絶望しかけています。頑張っても頑張っても、努力しても努力しても貴方の目指す場所には辿り着けない。志に現実がついていかない事に揺らいでいます。そこで先ほどの提案です。あなたの人生を私に譲ってほしい」
告げられた内容は舞春の核心を突くものだ。しかし提案については訳が分からない。なぜ人生を譲ってほしいのか? 譲るとはどういう意味なのか? その場合に譲った自分がどうなってしまうのか?
「貴方が混乱するのも仕方がありません。でも落ち着いて聞いてほしいのです。……私の提案は貴方の肉体を頂きたい。その肉体を手放して貰いたいということです。もちろん無条件にというわけではありません。それ相応の対価を準備させて頂きます」
対価?
「はい。貴方の心が入る器を提供いたします。貴方の望む事が、ほぼ叶えられるのではないかと思っております」
私の望む事? 冷静になって自分の望むものが何なのか考える。
目指したのは高い地位だったのだろうか。それとも単にお金持ちになる事だっただろうか。いた、どちらも違う気がする。自分は不平等で努力の報われない世界に抵抗したかったのではないだろうか。生まれる瞬間から運だけで決まってしまう世界に。
「少し望みが整理されましたか? こちらが貴方に用意する器であれば、今よりも可能性があるはずです。その肉体で目指すよりも確実に」
しかし信用は出来ない。第一に声の主が誰なのかもわからない。童話の世界だけだと思っていたが、これが太刀の悪い悪魔であれば、このような提案は十分にあり得る。
「なるほど、私の存在に不安があるのですね。いいでしょう。確かに貴方の言うように悪魔と言われた時もあります。それは力を持つものならば誰もが一度は言われる事です。大きな力の行使には利を得るものがいれば損をする者も出てくるのです。両方が揃う事が条件と言ってもいいくらいに」
なるほど。力を持たぬ者にとっては風に晒された紙切れのように舞う状況を起こせる相手という事だ。こちらの心の声に答える状況からも人間とは思えない。それに例え神であろうと、起こした奇跡にはマイナス要素がどこかで働く。なるほど、神も悪魔も変わらないかもしれない。大事なのは間違いなく相手は人間ではない、大きな力を持った存在である事。
「さすがに理解が早い。そうでなくては貴方を選んだ意味がありません。それで答えは?」
既に出ていたのかも知れない。自分は停滞した状況から抜け出す為の、空から吊るされた糸を幼少の頃から追い求めて前を向いてきたように思える。もはや、この肉体では限界なのかもしれない。全てを変えるためには捨てるべきなのかもしれない。悪魔とも神とも区別のつかない相手であろうと、細いながらも糸は用意されたのだ。
「どうやら覚悟が出来たようですね。契約は成されました。その肉体は私が貰い受け、貴方には新しい器をお渡しします。従者を1人準備しておきましたので、詳しくはその者に聞けば良いでしょう。では、その肉体にお別れを告げてください」
言葉が終わると同時に意識が薄れていく。もしかして自分は死ぬのだろうか。痛みも苦しみもない。なら本当に死ぬとしても構わないかもしれない。この体を分かれる事に後悔はない。後悔がない程度には頑張ってきたつもりだ。これで……
そこで舞春の世界は閉じられた。そして――光のカーテンにより新たな器へと導かれたのだった。
ここは……
数秒前まで自分は舞春という存在だった。その肉体は、あの声に渡したはずだ。では、ここはどこで、今の自分はなんなのだろうか?
その疑問に答えたのは
「あああ、ついにあの方もやってしまったのですね。まさか人間に身を落とす事を選ばれるとは。そして貴方が新たな私のご主人というわけですか?」
今度は姿の見える相手が舞春に話しかけてくるのだった。