淡と濃
啓蟄を過ぎる前から雑貨屋には桜が並ぶ。
桜の色。桜の匂い。
無意識に顔をしかめ、ああ、わたしは桜が嫌いだったことに気付く。
桜餅がディスプレイされていた。樹脂ゴムで作られた贋物の桜餅。こどもが口に入れようとし、母親に叱られている。
贋桜から離れ、小さな栞を買った。
革製で綾織りされている細い栞を水色の包装紙にくるんでもらう。彼女がピンクを好んでいるのは知っていたが、その色は選びたくなかった。
この町に春に桜は咲かない。緯度の関係か経度なのか、桜は初夏に咲く。この町で一番短い季節は春なのだ。夏は淡々と長く、移り変わりの早い秋のあとに眠るような冬が続く。
初夏の桜は周知の事実だが、桜にちなんだものが出回るのは春である。残雪のなか贋桜が並ぶ。開花の時期に桜餅は並ばない。
パティシエ見習いをしている彼女は、新しい桜の菓子を創るために秋から準備していた。桜の写真を眺め、塩漬けの桜の花葉を取り寄せ桜のアロマオイルで想像力を膨らませる。最近は桜に関する本を読んでいるらしく、誕生日の贈り物は栞に決めたのだ。
チーズスフレをスプーンに掬うと、薬缶がけたたましい笛を鳴らした。彼女が慌ててコンロを止め、大きなポットに湯を注いで行く。
二人分には大きいように思うが、彼女はお茶やコーヒーの類いを驚くほど大量に飲む。ティーカップではなくビッグマグだし、一時期は何の影響かカフェオレボウルから直に飲んでいた。デミタスカップで濃いエスプレッソを好むわたしとは正反対だ。
彼女は淡い色を好み、わたしは濃い色しか選ばない。鬱気味の彼女は黒や濃いを身の回りに置かないようにと言われている。色によって触発されるらしい。明るい色、淡い色、と選ぶうちにピンクが多くなっていた。わたしも彼女に会うときはマカロンブラウンなど暖色になるように気をつけている。しかし、淡い色合いの部屋でわたしは明らかに浮いていた。
真白なカップに紅茶が金色の輪を描いている。わたしはこうして、週に一度彼女を訪ねるのが習慣になっていた。彼女は試作の菓子を出し、他愛のない話をする。
出会った頃、彼女は時計に埋もれていた。わたしは今と変わらずこの町のタウン誌の記者で、小さな話題を追っていた。彼女は時計の、アンティークでもブランドもない極普通の時計に依存していて、しかし秒針の微かにずれたカチカチという音に追い詰められてもいた。
青白い顔で時計に埋まりながらシフォンケーキを焼く彼女をわたしは小さな記事にした。それから彼女の回りは変わって行ったが、わたしは変わらず小さな話題を追っている。仕事の合間に彼女を訪れるという新しい習慣以外は。
チーズスフレの隣りにフルーツタルトが並ぶ。彼女がフォークも使わずタルトを食べるために唇の周りについたタルトかす。
二杯目に注いだ紅茶は濃く、金色の輪を描いてはくれなかった。それで、わたしは彼女に贈り物を渡しそびれたことに気付いたのだ。