第9話
リボンの掛けられた小箱を差し出された娘は、喜ぶと思いきや顔を強張らせた。
「受け取れません」
照れや恥じらいではない別の顔つきで、頑として拒否する理由が俺には分からない。するとフローネはしごく真面目に説明してくれる。
「わたしたち侍女なんかが、身分ある方から主人に内密でプレゼントを頂いたりしたら、どう見られると思います?……賄賂ですよ」
権力者に便宜を図ってもらおうと、まずお付きの者を買収する。古今東西、不変の図式である。
即座に誤解は解いておき、母親由来の品と知った彼女は驚きながら箱を開けてくれたが、まさかこんなふうに拒絶されるとは思ってもおらず、俺はこの時不意に、俺たちの間を隔てる境界線を意識させられることになった。
「お母さんの髪留め……」
遺品が見つかったから、という老侍女の言葉を俺は忘れていない。
確か、彼女の母もグラスグリーン侯爵家の侍女だったと聞いたが、それ以上の詳細は知らない。でも、今は亡き母の思い出に浸るべき神聖な時間だろう、と俺は遠慮して、邪魔をしないよう窓に目を転じた。
ガラス窓の端にヤモリのような虫の影がくっついている。さすがは離宮、自然の宝庫というべきか。
今宵は確か新月だったなと思いながら何気なくフローネに視線をやり、俺はそこで違和感を覚えた。
泣くでもなく、悲しむでもなく、懐かしげですらない。フローネは遺品を扱いあぐね首を傾げている。俺の視線にすぐ気づき、何を言うかと思えば、
「届けて下さってありがとうございます。でもこんな光物の飾りは、侍女には華美過ぎて使えなさそうです。わたしには必要ありません」
「……そういう言い方はないんじゃないか?飾らなくてもお前が持っているだけでお前の母は喜ぶだろう」
「そうでしょうか?それにしても、母も侍女だったのに、どうしてこんな髪留めを持っていたんでしょう……。意外と派手な人だったのかな?」
まるで見知らぬ他人を想像するような口調であっけらかんと肩をすくめている。
「母はわたしが5歳になる前に亡くなったのであまり記憶がないんですよ。その後養母が大切にわたしを育ててくれたので、そっちのほうが大きな存在なんですよね。……どうしようかな、これ」
敬遠するかのように箱に戻そうとするので、対面からテーブル越しに腕をつかむ。
「じゃあ俺の前にいる時だけ、付けたらどうだ。きっとお前によく似合う」
単に見たいだけなのだが。
そこで彼女はベッドルームにある鏡を覗きこみながら、結いあげた髪に上手く飾りをはめた。紫苑色のありふれた侍女服に紺色の髪飾りなんて、彼女が思っているような華美さなど微塵もなく、シンプルでさり気ない。けれどいい品物である。俺が金を出したわけでもないのに、イメージ通りの清楚さに俺は勝手に満足した。
俺たちは窓辺に椅子を移動させ、ゆっくりとした時間を星見に費やす。闇夜のため砂粒のような星までもが遮られることなく輝いている。天の川も水量が増して見える。
外の庭園ではあらゆる隙間に男女が潜り込んで既に恋語りに興じているだろう。
「詩会のお話を聞かせて下さいよ」
フローネがワインを注いでくれた。有名な産地のスパークリング・ワインが舌の上で弾ける。
詩の批評なら昨日から貴人の間で嫌というほど話していたが、素人の娘を前にするとまた違った趣になる。俺は詩に優劣を決めるのは好きじゃない。ただ何十と発表された中から心に残った詩を思い出すままに教え、
「あ、その詩はちらっと聞きました、マルグリット様にお飲物をお持ちしたとき。そういう出だしだったんですね」
などと嬉しそうに相槌を打ってもらうのは心地よかった。
やがて夜が最奥まで深まり、夜行性の鳥も鳴きやむ頃、いつものようにフローネは起きていられずウトウトし始めた。どうしても徹夜ができない体質なのだそうだ。
初夏とはいえ山川に臨む離宮は気温が低く、続き間のベッドルームから毛布を一つ取ってソファに丸まっている体へ掛けたが、その頭に髪留めを付けたままであることに気づく。寝返りを打つと痛そうだ。
なぜ俺が侍女の世話を焼かなければならんのだ……?
大体年ごろの娘ともあろう者が、男の前でこんなに無防備に安らいでいいのだろうか。素行の悪い男なら舌舐めずりして襲いかかる場面だろうに。
信用されている証拠なのかもしれないが、あまり有り難くない。
腕を潜り込ませてそっと頭を抱え、髪留めを抜くと同時に
「あ……?」
と戸惑った可憐な声が腕の中から漏れた。今さら目を見開いて俺を押しのけようとしている。
手遅れなんだよ、全く……。
「どうした、構わないぞ眠っていて。どうせ男に襲われる心配なぞしていないんだろ」
低い声で近くの耳に挑発の息を吹きこむ。
難なく抵抗を抑え込んでいるうちに、だんだん本当に煽られてくる。
そもそも今夜は初めから気が高ぶっていた。欲望の下火がくすぶっているところへ、無邪気な隙を見せておいて、俺にどうしろと言うのだ。
生憎と俺は聖人でもなければ紳士ですらない。自他ともに認める女嫌いではあっても、好ましく思っている女性を抱きたいと思う素直な本能は、人並みにある。
彼女はそれを知らなさ過ぎだ。
「何ならベッドに連れて行ってやろうか?お前は目を閉じてていい……」
彼女が息をのめばのむほど俺のスイッチが押されていき、ますます追いつめて行きたくなる。
けれど、追いつめ方を間違ってはいけない。
一言「抵抗するな」と本気で脅迫すれば、彼女にとってそれは絶対命令になってしまう。身分を理由にして俺の要求に従う義務を感じるだろう。それだけは犯してはならない、という信念を見失わないうちは俺もまだ理性が活きているようだ。
「ごめんなさい……、寝ないから手を放して」
フローネは乱れた髪をソファの座面に散らかして、怖々と俺の肩を押し返した。すっかり眠気も失せたらしい。あとひと押ししたい衝動を覚えながらも、俺は身を起こす。
気まずい雰囲気だった。
娘は混乱と警戒心とその他諸々の感情を入り混じらせて硬直している。俺が黙っていても何も事態は動きそうにないので、仕方なく娘に助け舟を出してやる。もっとも突き落としたのも俺だけど。
「寝るなとは言ってない。ただ……俺の忍耐を試すような真似はやめてくれ。寝るなら帰ってくれないか」
「忍耐……って……」
純真さは時に罪だ、と思いながら廊下に通じる扉へ向かう。勝手が分からない離宮であることと、今の時間帯なら二人で歩いていても暗闇に紛れることから、彼女を部屋まで送るためだ。
「怒ったんですか?ごめんなさい。怒らないで……」
か細い声が迷子のように響く。俺は回しかけたドアノブを元に戻し、後ろを振り返った。
「忍耐の意味が、ちゃんと分かっているんだろうな?」
「え……えぇと、まあ……」
「なら次はそれなりの覚悟をしておけよ」
言い捨てるだけ。彼女がどんな受け止め方をしたのかなんて気を遣うことはしない。
足音も極力立てないよう気をつけながら廊下を先導し、目的地に着くと声もなく別れた。