第7話
その時室内に響いたノックの音が二人の意識を引き戻した。
先ほどとはうって変わって、美人侍女という言葉とは何十年も前にさよならしたような白髪の老女が平然と現れ、侯爵に火急らしき用件を耳打ちしている。頷いた侯爵は俺に一瞥をくれたのみで、さっと出ていった。
一発触発だった室内の空気に平穏が戻ると、俺は脱力のあまり大きな吐息をついた。大きな窓からレースカーテンを透かして明光が差し込んでいるのに今さら気がつき、まだ昼間だったんだなと思った。
侍女頭と思われる老女が威厳を崩してフフフと笑い、テーブルの茶器に視線を落とす。
「せっかくですから召し上がって行かれては?」
紅茶と茶菓子が手つかずで残っている。
「若い侍女たちが張りきってご用意しておりましたから、このままお帰りになると、恨まれますわよ」
紅茶は温度も味も香りも何もかもが冷めていたが、俺は機械的に口に運び、あっという間に最後の滴まで飲みきっていた。
「もう一杯、いかがです?」
「あ……どうも」
コポコポと温かい音と共にポットから紅く染まった美しい液体が注がれ、踊るように湯気が舞い上がった。口に含むと今度は喉にほどよい熱が駆け抜ける。
「心配なさらずとも大丈夫でございますよ、旦那様は貴方とあの子の秘密を誰にも仰らないでしょうから」
老女がティーセット類を載せたワゴン上を片づけながらさりげなく呟いた。俺の驚愕には目もくれず、筋力の落ちた腕でゆっくり、丁寧に布巾をかけている。
「貴方には、過去に療養の件でお世話になっていますからねぇ」
冷静になりきれない脳内でぼんやりと考えたことは、秘密を漏らす漏らさないに関わらず、致命的な弱点を握られたという一点だった。ここぞという場面で取引に使ってくるに違いない。
いつもの非情なる侯爵ならば。だが……。
俺は頭を振って、フローネへの不可解な情を見せた侯爵の言動を棚上げすることにする。分からないものを考えこんでいても仕方ない。
気の利く老侍女が上着を着せかけてくれた後「あの」と口ごもった。
「もしお願いできますのなら、これを、あの子に渡して頂きたいのですが」
おずおずと差し出したのは髪留め。藍色の土台に宝石の粒がチロチロとあしらわれていて夜空に星屑が瞬いているかのようなデザインだ。
あの子とはもちろんフローネのことだろう。清楚で上品な髪留めはよく似合いそうだ。
「この屋敷で今の秘密を知る者は旦那様と私のみ。私も秘密は厳守致します。その誓いというわけではないのですが、どうぞこれを貴方様からあの子へ」
「これは?」
「先日、大掃除をしましてねえ。あの子の母親の遺品の中にこれが見つかったものですから」
「……遺品の……」
それ以上の詳細は尋ねずに、しわしわの指先からそれを受け取った。髪留めに浮かぶ天の川が、日光の一筋を受けて俺に微笑みかけるかのように光を放った。
その日、夕暮れ時から雲行きが怪しくなったかと思うや雨になり、本物の天の川は姿を隠したままだった。王宮から帰宅した俺は、馬車から玄関までの短い距離にしっとりと春雨を浴び、閑静な我が屋敷へ入る。
今日訪問したグラスグリーン侯爵邸と比べると、ずいぶん質素なエントランスホール。父親から権限を引き継いだとき、俺の趣味じゃない調度品がゴタゴタと飾られているのが我慢ならず、ほとんどを撤去させてしまったからだ。ホールで唯一生き延びたのは天井から吊り下がる瀟洒なシャンデリアくらいか。気に入らない物に囲まれて生活するくらいなら何もないほうがマシだという信条に従って、飾られている美術品は厳選されており、屋敷内にはまだまだ余白が多い。
さらに出迎える使用人の数も多くない。けれど少人数ゆえに気心の知れた連中である。特に、俺の帰宅を聞きつけて真っ先に出迎えの位置についた使い走りの少年は、屈託のなさで屋敷の雰囲気を盛り上げている。
「上着を預かりますよ!」
子犬のような満面の笑顔で少年ミミルが背伸びをした。まだ10歳の彼は主人のコートの着脱を手伝える背丈でない。
肩から滑り落とした時、胸元のポケットの膨らみに親指がかすった。そうだ、フローネに渡す髪留めだ。
「……ミミル、お前ラッピング出来るか?」
「へっ?」
いや何でもない、と俺は真顔でその場を後にする。いつも通りに衣裳部屋に入ったが、準備してあるはずの室内着が置いてなかった。袖のボタンを解いているとクリストフが「すみません」と衣類を持って来る。
「完全無欠の執事にしては珍しいな」
からかうと、彼はすぐさま応酬態勢になった。
「ラッピングくらいお任せ下さい」
俺が遮る間もなくクリストフの手がポケットの中身を攫う。さすがは凄腕ボディーガード、などと感心している場合ではない。俺はクリストフに何一つ打ち明けてはいなかったので。
「女物の装飾具。……なるほど、貴方様は完全無欠に女っ気がないと思っていましたが、珍しいですねえ」
矯めつ眇めつ無遠慮に小物を眺めながら、彼はにんまりと笑った。後でたっぷり事情聴取しますから、と笑顔が宣言している。
これまで細心の注意を払って行動してきた成果が、今日一日でボロボロと崩壊していくのは気のせいか?
食事と入浴を済ませ、二階にある寝室に引き上げると、クリストフが勝手にワインの準備を整えて待ち構えていた。弁解を聞こうと浮き浮きしている。
名誉のために言い添えておくが間違っても彼は普段、こんなに軽薄ではない。もう30歳を越した有能な大人の男で、頼りになる。……なのだが、時々妙に若返る執事であった。
「フィルー様、他はともかく私に隠し事は感心しませんよ。個人的興味ではなく警備上問題があります。唯一の側近にあなたの行動パターンが読めないのでは、どうやって御身をお守りしろと仰るのか?第一私は役に立つでしょう、ほら」
クリストフは窓際の机に視線を誘導した。剥き出しだった髪留めは早くも立派な贈り物顔をして置かれている。そう派手ではないラッピングだったので一安心だった。さすがに俺の好みを熟知している。
「……侍女にやる。言っておくが俺が用意した物じゃないぞ、渡してくれと人から頼まれた」
「なんだ、侍女にですか。道理で地味な飾りだなと思いましたよ。ならグラスグリーン家の、我が家で療養させた例の女の子ですね」
早々に贈り先を察知した執事は味気なさそうな表情を一瞬で消し去り、企み深い笑みを浮かべた。
「情けない。そこまでお気に召されているなら強引に押していけば宜しいじゃありませんか。どうせフィルー様は意地でも独身を貫かれるのでしょうし、彼女一人くらい囲ったって何も不都合はありませんよ。でないと私たちも張り合いがないし」
最後の一言が本音なのだろう。そういえば負傷したフローネをやや強引に預かった際も皆が浮かれていたことを思い出す。堅物の俺が女性を連れ込んだと内輪のニュースになり、「ようやく貴方も一人前」と出来の悪い息子の成長を喜ぶような感じ。
俺は黙考の時間を稼ぐためにワイングラスへ手を伸ばす。考え事をしていても舌は自動的にワインを賞味している。日常用の赤ワインは慣れた味わいだった。
強引に押していけば……。
クリストフの一言に、かなり魅了されている自分を知る。
エドという枷が消失しても俺が抑制を保ち、フローネと友人関係を、正確には恋人未満の関係を続けていればよかったのだろう。何も発展はないが安寧はあった。でも、吊り橋を渡り始めた今となっては、引き返すことなど叶わない。目をつぶって駆け抜けるか、立ちすくみ続けるか、どちらかだ。
「しかし噂になりたくないんだ。俺はどうでもいいが彼女に迷惑がかかる」
「マルグリット様の侍女ですからねぇ。確かに下手なことはできませんが、なに、バレなければ平気です」
「……それに侯爵もいるし」
日中の侯爵との会談内容を全て語って聞かせた。髪留めを預かった経緯も忘れないで付け加える。クリストフはすっかり兄貴顔でソファを陣取り、オールバックの髪を撫でつけながら耳を傾けた。
屋外では未だ天気が回復しないようだ。音もなく仄かに、土に沁み込んでいく春雨はフローネの微笑みに似ている。と、そこまで考えた俺は、己の詩人としての才能の陳腐さに自嘲した。
詩といえば、来月には詩会が行われる。当然俺も一つ発表しなければならないので、なにか準備をしておかなければいけなかった。
そんなことを考えつつ話し終えると、クリストフは「いわくあり気な女性に惚れたものですね」と面倒そうに呟いていたが、一つ大きく頷くと簡潔明瞭に。
「ともかく、ここはあれですよ、肝心の彼女をまずはさっさとモノにして下さい。所詮は侍女なんですから、後はどうにでもなるでしょう」
けろりと言い放ち、おやすみなさいと俺を寝室に追い立てた。