第5話
翻って、今さらフローネはアーフォルグ家の何を知りたいのだろう。
「まあ、以前に言いましたよ。全然話を聞いていらっしゃらないのね」
と、娘はちょっと頬を膨らませる。
「伯爵様についてです。アーフォルグ伯爵。ポーラ姫のお父様。失脚なさって以後、どこで何をしていらっしゃるのか気がかりで……だって伯爵様はすごくいい方だったんだもの。何回か用事でお話したことがあるけど、わたしのような身分の者にも親切にして下さいました」
なぜか彼女の顔が赤らんできた。
アーフォルグ伯爵は40代前半ほどの品位ある立派な紳士だった。ポーラ姫が仕出かした稚拙で恥知らずな所業に対しても、彼は父親としての責任から逃げなかった。国王陛下ですら彼の仁徳に免じて処罰を割り引いたとも噂されたが、そのへんは密室で決議されたことなので詳細は明らかになっていない。
ともかく目下の使用人に対しても礼節を払える人物だったのであろう。基本的に人を疑わないフローネの純真な目には、崇高な聖人君子に映ったかもしれない。
しかし相手は中年男性なのだぞ。なのに彼女が浮かべる表情は、何と例えたらいいものか、甘酸っぱい初恋の思い出に胸を焦がしながら今もなお忘れきれず花占いをするような、そんな感じ。
面白くない……。全然面白くない。途端に俺はかわいい娘を意地悪く追いつめたくなった。
「情報が欲しいというわけだ。じゃあ代わりに何をくれる?」
「え?」
不穏な空気に本能的な恐怖を感じたか、彼女は腰を引こうとするけれど、許しはしない。逆に反動をつけて手前に引き寄せる口実にしてしまう。
いつの間にか半月はちぎれ雲に隠され、光量はいっそう乏しくなっていた。きれいに枝打ちされているとはいえ広葉樹の幹が等間隔に並び、視界を遮っている。俺は周囲への警戒もどうでもよくなるほどに間近の獲物に心を奪われた。
「何を……何を差し上げたら?」
聞くなよ、いちいち。
断っておくが、口づけも決して初めてではない。
ただし酒に酔ってもないのに、苛立ちだけでキスしたことはない。
乱暴で執拗なそれを受けて、驚いたフローネが押したり引いたり抗う様子を見せたのも一時のことだった。だんだんいい具合に力が抜けてきて、しかし時々抵抗を思い出すのが微笑ましく、気づけば怒りなど忘れてしまった。
存分に口づけを味わい尽くしてようやく解放した時、フローネは振りほどくようにして俺から離れた。
「こんな所で……!誰かに見咎められたらどうするんです。こうしてお会いしているだけでも弁解の仕様がないのに」
俺は衛兵の巡回ルートを把握しているのであと5分ほどは問題ないと知っているが、彼女は月夜にも明らかに顔色を失くして周囲を見渡していた。
「このようなことはお止め下さい!噂が立ってしまったらあなたの評判に傷がつきます」
「フローネ」
「今日だって人を使って呼び出されましたね!?同僚に目撃されて言い訳に苦労しましたよ!あなたと親しいというのでわたしは結構不審に思われているし、ましてやもうエドが居ないんです。言い訳ができないんですから、お願いです……せめて誰にも知られない所で……」
彼女の訴えは尤もだった。なら人に知られない場所でなら、この続きをしてもいいのだろうか。
長い髪の毛が幾筋か背中に流れる様が夜目に美しく、つい今しがたの陳情も無視して引き寄せられるように手を伸ばす。娘は困り果てた様子であったものの、髪を撫でる男の手を撥ねつけるまではしなかった。大人しく身を任せ、そのうち失くしていた顔色に血が通い上がる。
このまま何もかも忘れて彼女を奪えたら。急にそんな欲望を掻き立てられるほど、今の彼女は魅惑的だった。
しかし俺の優秀なる理性は、今日はここまでだと冷静に告げている。
「……悪かった。もう呼び出さないから、詩会の後に会おう、いいか」
絶対に人には知られないようにすると約束すると、声もなく彼女の頭が縦に揺れた。
妖精が去った後にも思わせぶりに月と雲が戯れていた。
場所を変えるため王宮の建物を突っ切った。騎士装束をつけた衛兵が俺の顔を認めて敬礼する。
日中は煌びやかな貴人たちが蜜に惹かれる蝶のごとく群がっている庭園のベンチも、夜は趣きを変え、眠れない苦悩者をそっと待っている。周りには様々な種類の植物が植えられ、その大部分がこれから見頃を迎える花々だった。
詩に歌えそうな風情である。
こんな時エドがいて欲しい。彼の得意な古代曲を悠々と奏で、太古の記憶を呼び覚ますがごとき音色を切なく聞かせて欲しい。
分かっているとも、俺は矛盾している。もしエドが居続けたのなら、永遠に3人の友情を保とうとしただろう。俺は娘に淡く好意を抱いたまま、しかし己の意思を方向づけることはなかったはずだ。
俺は無意識に背面の植物をまさぐり、茎をポキリと折った。
まだ蕾だったそれを撫でつつ、どのくらい俺は月下の岐路に佇んでいたことだろう。クリストフが呼びに現れるまで俺は身動きができなかった。