第3話
王宮での俺の執務室は資料室の上階にあり、資料室は王宮の四方に建つ尖塔のうち北東の塔に設けられている。
先日の生誕祭の詳細な記録をまとめ終わり、上官のチェックも済ませた俺は、階段を下りて書庫へ向かっていた。マルグリット妃殿下ご所望の本を探すためである。一般民にも開陳されている王立図書館にあるだろうと、数日前にクリストフを差し向けたのだが置いてないとの報告だったので。
書庫は一般向きではない学術用資料や、俺たち記録係が編纂する史記などが収められている。だから出入りするにはふつう許可が必要なのだけれど、俺は職権として顔パスで通れるのだった。
王宮の中でも北の辺鄙な場所に位置するのが難点だが、まあ散歩と思おう。
のんびり歩いている途中のことだった。
「フローネ、元気出してよ」
聞きなれた名前にどきりとする俺に気づかない様子で、厨房から出てきた数人の侍女たちがティーセットを運ぶ後ろ姿がある。
輪の中にそのフローネがいる。鳶色の長髪を左右に分けて結わえた清楚な娘。厨房の出口越しに一瞬目線がかすったような気もしたが、錯覚だったかと思うほど彼女は完璧に俺を見ず、仲間たちと会話している。
「仲良さそうだったもんねぇ、あの音楽家と。かわいそうに」
「恋人だったんでしょ?」
「今から追いかけて行きなさいよ。この際結婚を迫ってさ、一緒に暮らせばいいじゃない」
俺は急に考え事をしたくなった、みたいな顔をして柱に寄りかかり、耳を澄ませる。
「ううん、ありがと……。まさか離れる日が来るなんて思ってなかったからさ……こうなったら彼が元気でいるのを祈るのみ、ね……」
湿った声音のフローネを、侍女たちは声をそろえて「また新しい恋を見つけなさい」と励ましつつ階段を上って行ってしまった。
……周囲がそう認識していたのは知っている。穏やかな雰囲気が似ているエドと彼女は、誰が見ても似合いの組みあわせだった。侍女と宮廷音楽家なら身分の問題もないし、どちらも敵を作らない温厚な性格とくれば、知る人ぞ知る和み系カップルとして周りの応援を集めていたのだ。
バラバラの立場を越えて稀有な交友を持った俺たちは退屈な貴族たちの興味を惹きやすい。中でも貴婦人方は俺の近くにいる女の子にどんな悪意を向けるか分からない。だから、エドとフローネが恋人同士だという周囲の誤解をむしろ煽ってきたのだが……。
これからはその手も使えない。
書庫番に片手を挙げてあいさつし、俺は本探しに気もちを入れ替えた。いつ来てもここは人気がない。俺にとっては王宮のオアシスだ。
天井までぎっしり詰まっている本棚の一段一段に目をこらし始めてしばらく、入口が開く音が聞こえた。珍しく誰か来たのかなと様子をうかがっていると、書庫番の爺さんだった。
「ほい、これ。預かりましたんで」
「ん?」
手渡されたのは小さく折り畳まれたメモ用紙。
──お探しのものはタイトルが違います。正しくは『詩集から読み解く古代の伝説』です。
え?
俺は意味が分からず瞬きをし、ごく短い文を何回か読み直して爺さんへ視線を戻した。
「どちらかは存じませんが侍女の娘さんでしたよ」
的確に質問を察した爺さんは肩をすくめ、自分の定位置へと引き返して行く。
結局、書庫にそれらしき本はなかった。メモのタイトルで再度王立図書館を調べてもらうと、今度は当たりが出た。
執事が徴用してきた本を前に、俺は唸る。
「さすが、怖いな妃殿下は。さらりと腕試しか……」
いやいや、もちろん、妃殿下からの伝言が故意に違っていたとは限らない。古代の文明だろうが古代の伝説だろうが、どっちでもいいじゃないかと思いたくなる些細な話だ。
しかし膨大な蔵書数を誇る王立図書館で探す場合、タイトルのわずかな違いも致命的である。走り書きの助言をもらわなければ、何も気づかないまま本が見当たらぬと青ざめ、手ぶらで参上する羽目になっていたかも知れず、想像するだに苦々しい。
そして恐らくこれは罠だったのだろう。
指定日に面会に行き本を差し出すと、マルグリット妃殿下は「あらタイトルを伝え間違えていたのね、悪かったわ困ったでしょう」と言いながら案の定、不敵に笑った。
たぶん貴公子の面々に似たようなことを仕掛けては、器量を測っているのだろう。どこまで気がつくのか、どんな対処をするのか、どう訴えてくるか。
この妃殿下は王太子の御世になったらすばらしい実権を握るに違いない。覚えを良くしておこうなどという欲がさらさら湧かない俺は、ただ、弱点を掴まれないよう気をつけなければと思った。
詩集に関する質問を幾つか無難にくぐり抜け、あいさつをして背を向けた俺は素早く退出した。
入口付近に、他の大勢の侍女にまじってフローネが見送りの礼を取っているのを黙殺して。
「相変わらずつれない殿方ですわ」
「ほんとうに」
閉まる扉のすき間から女どもの早速のおしゃべりが聞こえてくる。これを無視するのは全くもって胸が痛まないのだが……。
執務室に戻り吐息をつきながら、今夜フローネと会わなければと思った。いつも会うのは舞踏会だとか音楽会だとか、宮廷で開かれる大規模な催し物の夜に限っていたのだが、今日ばかりは強引にでも会わなければ。
彼女を無視しなければならなかった一幕を思い出すと、多少の軽はずみにも目をつぶろうという気になる。人を介して呼び出しのメモを渡してもらうよう手配した。
その日、夜更けに王宮の裏で待つ俺を、半分近く欠けた月が重たげに照らす。
さほど時間が経たないうち、木立の陰から妖精が舞い出たように、スカートをなびかせて娘が走り寄って来た。
「大胆なことをなさいますね……」
すこし恨みがましい口調であった。主や朋輩に察知されないよう抜け出してくるのは骨が折れたのだろう。
「メモを書庫番に渡してくれただろう?」
真っ先に言うと、たちまち彼女は柔和に笑った。
「ああ、そのことね。無事に伝わって良かったです。マルグリット様がお戯れに私たちに向かって種明かしなさって、何人合格するだろうかなんて仰っていたから。なんとかして教えなくちゃと焦っていたらあなたが書庫のほうへ行くのが見えて、もしかして本をお探しなんじゃと思ったので、咄嗟に」
「そう」
ふわりと小さな体を抱き寄せて、俺は彼女の瞳を覗きこむ。
「助かったよ、礼を言う」
途端、顔から湯気を出しそうに熱もったフローネの様子に俺も満足したものの、これで用件は完了したことになる。じゃあ帰りますね、なんて言い出される前に、夜更けに密会というこの美味しい状況を余さず堪能しようと思うのは当然であろう。
俺は人嫌いの無粋な男なので、こういった場面で女性をリードする技は持ち合わせていない。にも関わらず、彼女を絡めとるのは容易かった。意味深長に見つめてやるだけで、魔法をかけたように扱いやすくなる。
「と、ところで例の事、ちゃんと調べてくださいましたか?」
滑らかな両頬に手を添えたとき、フローネが盾を構えるように質問してきた。
「うん?」
「例の事です、アーフォルグ家の──」
慌てて口を塞ぐと同時に周囲を鋭く見回した。
形にならない風が黒い梢をざわざわと鳴らす。不吉な風も偶然とは思えない、彼女が口にしたのはそういう響きを持つ名前なのだ。
アーフォルグ伯爵家。
古くから連綿と続く由緒ある家柄だが、ある年の秋、あろうことか王宮で放火事件を起こした姫君がいた。王家に怨恨を抱いたゆえの犯行だったと言われている。過去の事件とはいえまだ数年前のこと、罪の重さを考えれば今でも好んで話題にする馬鹿はいない。
俺だってその名前を不意打ちで聞きたくはないぞ。
申し訳なさそうに目をしょんぼりと垂らしたフローネの前髪をかき分け、額を撫でた。
正確には火傷の痕を。