第23話
暮色に染められた王宮に冷たい風が吹き抜け、庭師を悩ませる落ち葉を散らす。ざわめく木々の上に大きな月が出ていた。満月にはあと一歩足りない月だ。
マルグリット妃殿下との密談が俺に与えた衝撃については、この際問題ではない。
大事なのはどうやってフローネを連れ戻すかだ。
妃殿下の部屋を退室した瞬間から俺の思考はそれを軸に回りはじめ、なぜ・どうしてという余計な自問が入りこんで動きを止めないように必死だった。
王宮内にある自室に戻るとすぐに執事のクリストフを呼び、簡潔に状況を説明した。
フローネが俺への相談なく王宮仕えを辞めることを決断したらしく、妃殿下に今日申し出たということ。それにはグラスグリーン侯爵という大物貴族が絡んでいること。
そして侯爵のやり口に反発のある妃殿下は対抗手段の駒として俺を使うつもりでいること。
「フィルー様はそれを了解なさったんですか?」
クリストフの疑問は俺にとってはピンボケである。
「もちろんだ。でなくばどうやって、あれを取り返すんだ?」
「妃殿下に弱みを握られてはならないと以前あれほど警戒なさっていたというのに、これは盛大な弱点だと思われますが。それにグラスグリーン侯爵を敵にまわすというのも政治的に見てうまい状況ではありませんし、今後の憂慮がいろいろ……」
俺の頭が沸騰していると踏んだクリストフは正しく水を差す。
でも今は、回転を止める正論など要らない。
「……退職に伴う事務手続きがあるはずだからあいつはまだ王宮に居るかもしれんが、侯爵が先手を打っている可能性もある。ミミルに王宮内を探させろ。俺は侯爵家に行く」
小間使いの少年ミミルは利発だしフローネと仲がいい。運よく彼女を見つけたらちゃんと時間稼ぎできるだろう。有無を言わさぬ指示に俺の意志の硬さをさとったクリストフはもう何も言わなかった。
グラスグリーン邸の屋敷は招かざる客に眉をひそめるように藍色の濃い影をつくり、豪奢に鎮座して俺を見下ろすようであった。
侯爵本人は不在のなか、使用人たちが慌てふためいて俺を追い帰そうと右往左往していた。一応俺の身分に敬意を払ったのか門前払いまではされなかったが、明らかに迷惑そうな対応である。
諦めずに粘っていると見覚えのある白髪の老女が奥から現れた。たしか以前に会話を交わした侍女頭。まさか侯爵家に正面から乗り込んでフローネに会わせてもらおうとは思わない。まずはこの老女に接触するのが第一だと思っていた。
予想どおり老女は事情を弁えているようだ。彼女の取りなしによって俺は客間へ通されることができた。
「ご無礼をお詫びします。だが……フローネを出して頂きたい」
「ずいぶんお早いお越しであられましたね」
喧嘩を売るつもりかというくらい単刀直入に相手の顔面へ投げ放った言葉に対して、老女は秋風のように涼やかな態度で応えた。
「どこからお聞きになったものか存じませんが、すぐにこちらへご訪問下さったのですね。あなた様の誠意にこの婆あは感激しておりますよ……」
勢いをやわらかく折るように微笑まれ、俺は次に畳みかける言葉を失った。なんて老獪な。
「残念ですが旦那さまのお言いつけがございますので、あなた様のご要望にはお応えできないのです。ただね……」
老女の瞬きはゆっくりとしていて、そこに刻まれていた皺をさらに深く塗りこめるようだった。口元の微
笑も然り。
「旦那さまがご用意なさっているあの子の新しい奉公先は、とても喜ばしいところです。そこへ行けばあの子はきっと幸せになりましょう。同じように、あなた様との未来もまた、幸せなものになるのではないかと思います。……なんて贅沢な岐路なんでしょうね。どちらが良いのか私は口を挟めません、あの子の選択に任せたいと思いますよ」
いつの間にか荒波を立てていた心の海が皺だらけの老女になだめられ、凪いだ。
密談以降、整理がつかずに波間に飲まれていたものが今になって砂浜に打ち上げられるように、俺は浮かび上がってくる苦い想いをどうしようもなく吐いた。
「あいつはもう……選択はしたんだろう」
たった一度だけだったけど、俺は彼女に提示したのだ。俺の屋敷に来るか、と。
遅すぎたのか? それとも何度も言葉を尽くして説得すればよかったのか?
終わりのない悔恨が、彼女は俺を選ばなかったという厳然たる事実の前に、何の役に立つというのか。
「だけどあいつは良くも悪くも、雑音に耳を貸さずに決めたことを貫くような強い女ではないからな。あきらめるにはまだ早いさ。あんたからも考え直すように勧めてやってくれ」
老女の持つ偉大な心理操作能力をあてにしてそう言うと、彼女はホホホと上品な笑い声をあげ、そのあとニッコリした。笑い皺がくっきりと浮かぶ。
「ええ、あの子が戻ったらそう伝えましょう。今夜中にはこの屋敷へ戻るはずですが、あいにくとあの子はまだ王宮から帰っておりませんので」
──なんて老獪な。しれっと情報を渡してくれた老女の手際の鮮やかさに俺は二度目の感想を抱いた。