第22話
「馬鹿じゃないのあんたは!?」
これがマルグリット様の第一声、第一の怒号だった。
気難しい女主人の機嫌を損ねてしまう報告なのは十分わかっていたので、フローネは粛々と頭を下げつづけた。
「つまり、何?わたくしから暇を願い出てるってわけ。それも、その隠居じじいに奉公先を鞍替えするから」
地を這うような低い声音で続いた第二声は、不気味さといい、恐ろしさといい、まるでムカデのような感じだった。長く奉公をしてきたが、これまでで一番の毒々しさかもしれなかった。フローネは震える喉を叱咤して、なるべく安全な方向へ回避しようとする。
「あの、その方の年齢などは存じ上げないのですが」
「隠居ときたらじじいに決まってるでしょ!若い娘を引きこんで何するつもりだか!そんな怪しげな男に仕えろだなんて、父上も何を考えているの!?」
そう、今回の話を持ちかけてきたのはマルグリット様のお父上、グラスグリーン侯爵様だ。
知人に使用人を斡旋してやりたいと思っている、と。いかに信用のおける人か、独りでわびしく暮らしているかと熱心に語るからには、よほど斡旋に乗り気なのだろう。間違っても若い娘を引きこんで云々とは思えないが。
でもフローネはマルグリットへの忠義を失ってはいなかったし、王宮を去ることについては色々と差し障りがある。
けれど侯爵は何としてもフローネの職場を替えさせたいらしかった。
「王宮生活は君に似合っていない」
侯爵はちらりと直立不動状態のフローネに微笑を送り、
「悪い虫がうろついているようだからな」
と付け加えた。
瞬間、フィルーのことを仄めかされたことを悟り、フローネは顔色を失くす。
国内でも有数の大物政治家である侯爵を前にして口答えなんて思いもよらないが、悪い虫と言われたのを黙って肯定してしまうわけにもいかない。なんとか震える口を開く。
「お言葉ですが彼は……」
「その男の人間性についてはどうでもよろしい」
ぴしゃりと遮ると、執務机の奥のソファにフローネをかけさせ、侯爵自身も向かい側に腰を落ちつけた。時刻は夜更け。人払いされた室内は、厚いガラス窓とカーテンに遮られて虫の音も届かない静寂が支配している。
「私は君の父上から君を預かっているのだよ。責任をもって、な」
「……はい」
「あの男は君のためにはならない。余計な肩書きが多すぎる。子爵家の跡取り……社交界の花形……才能豊かな詩人であり、剣も使え、頭も悪くない……有能すぎて注目の的だ。王宮生活同様、君には似合わない」
「……」
フローネを心配しているのか、おとしめているのか判断に苦しむ言い方で、確実に彼女を追いつめる。
「分かったな?あの男とは縁を切り、君は新しい主に尽くせ」
この出来事の直後、偶然フローネはまとまった休暇を得ることになり、フィルーと一緒にバカンスを過ごす。複雑に揺れる胸中を隠して、最初で最後のバカンスを。
そして王都に帰ってくると、フローネは侯爵に返事をした。
休暇を男と過ごしたと聞き眉間に皺寄せた侯爵だったが、最終的に別れを決意したのなら、と彼女の返事に納得し、さっそく諸々の手配に取りかかるという。
フローネにも処理しなければならない難題──マルグリット様に退職を申し出る──があった。折をみて、機嫌の良さそうなときに、機会を見計らって……と慎重を期していたらずるずると一月ばかり過ぎてしまったが、今日、意を決してそれを告げ、予定通りの大目玉をくらっているというわけだった。
日頃ならその剣幕に尻尾を巻くところだが、今回はちがった。どんなにこの方が怒り狂おうと、もう事態は動き始めている。糸をあやつっているのが侯爵である以上、どうしようもない……そんな諦観がかえってフローネを落ち着かせていた。
「わたくしは、あんたのそういう態度が大嫌いなのよ。素直に人の言いなりになって……威圧されたらすぐに逃げ出して……相手に迎合するために自分の望みを押し殺す……見ててイライラするわ」
軽く手を一振りして部屋じゅうの侍女を追い出すところを見ると、どうやら本格的に「やられる」ようだ。猛獣の檻に放りこまれた気分……あ、主人を猛獣だなんて例えてはだめだな。
と思ったが、マルグリットは膝をついて頭を垂れた謝罪体勢のフローネを無視し、ジッと書棚の一点を見つめて思案にふけり始めた。
この体勢、楽じゃないんだけどな。もしかして腹いせの一環?
「わたくしが一番気に入らないのは」
沈黙が破られるのは突然だった。フローネがおそるおそる目を上げると、さっきと変わらず視点を定めたままのマルグリットが、自分で確認するようにつぶやいた。
「父上とあんたが結託しているという、構図よ。あの人は昔からやたらあんたに甘かった。わたくしには何の愛情も示すことはないのに。……あの人の本当の娘はあんたじゃないか、と疑うくらい」
フローネは驚いて即座に叫んだ。
「滅相もありません!」
「そんな可愛いあんたを自分の目の行き届く宮中から出そうという。理由はまぁ、アレしかないわね」
黒髪に似合う緋色の唇がくすくすと笑う。
「愛娘に虫がつくから。つくづく馬鹿親ね。──付き合ってられないわ」
極めてしずかに吐き捨てられた直後、フローネの頭すれすれに何かが飛んできた。派手に割れる音。振り返ると陶器のティーカップが無残な破片になっていた。もちろんマルグリットが投げたものだ。
ひとつ間違って頭にぶつかっていたら……フローネは正直ぞっとしたけれど、怯えた態度はますます主人の怒りを助長してしまう。だから無理やりにでも平気なふりをして、あくまでも謝罪の意思をそらさない。
「結構よ」
やはりしずかな声である。不気味でフローネは顔を上げられなかった。
「そんなに出ていきたいのなら、出ていきなさい」
そんな背景など露知らず、俺は「この忙しい時に迷惑な」とさえ内心思いながら、仕事を中断してマルグリット王太子妃殿下に急な呼び出しに応えた。
妃殿下はすでに人払いの完了した部屋で俺を待ちうけていた。
何事かと思いながらも平静を装う。
時計の針がカチリと動いて4時を示した。
「レノワ次期子爵。手を組みましょう」




