第21話
夢幻のようだった時間は遠く過ぎ去り、日常生活が再開された。滞りなく。
この滞りなくというのは、溜まってしまった記録係の仕事の処理や、レノワ家の当主代理として必要な社交を指すもので、それ以外の部分については、かなり頭がぼんやりしている。
今も、クリストフの話に耳を傾けていたつもりが、途中から俺の意識はふわふわと空をさまよい、根が武人である彼の眉をひそめさせていた。
「まったく、……恋とは恐ろしいものです、どの女性にも心を許さないと評判のフィルー様でさえ、この体
たらく!申しあげておきますが、今のあなた様の蕩けっぷりを私は生涯忘れませんからね」
と、食後のデザートに出されたプリンを見ながら言う。「マルグリット殿下妃お気に入り」の宣伝文句も高らかな、とある有名菓子店のプリンは「甘くてとろとろ」だとご婦人方に大人気らしい。
俺はむっとした。
「馬鹿を言え、ちゃんと話は聞いている。領地運営に関することは父上の意見も聞かねばならんのだから、明日使者を送って」
「その件ならもう話が終わったはずですが?」
しれっと笑顔で返されて、俺は憎らしい執事をにらみつける。
バカンスの感傷がいつまでも尾を引いているのは認めるが、恋に溺れているような言い方は心外だ。ただ少しばかり、フローネのことを考える時間が増えただけ。これまで彼女とは慎重に距離を取った付き合い方をしていたのに、あの秋の休暇中は、片時も離れることなく過ごしたのだ。
すっかり距離感が狂ってしまった。
一日一日の記憶が今でも色濃く残っているが、その中で最も平凡な思い出が滞在最終日である。
というのは、最終日らしく市場へ出て土産などを買い求める予定だったのに、朝からあいにくの雨で屋内にこもるしかなかったのだ。
宿の部屋に一つしかない木製の椅子を彼女に勧め、俺はベッド横の壁に寄りかかって軒下の雨だれを眺めていた。
沈黙は苦にならない。
むしろ時間をじっくり味わうようで好きだ。口の中でキャンティを転がすみたいに味わうのがいい。
そして急に久しぶりの話題を思いついた。
「そういえばアーフォルグ伯爵の話はどうなったんだ?」
フローネは、とある事件によって貴族社会から失脚した伯爵の消息を知りたがっている。以前は俺も協力してやったけれど、それより彼女の主家にあたるグラスグリーン侯爵に当たったほうが早いと分かって以来、俺はその件にタッチしなくなっていた。
「侯爵に聞いたのか」
突然の質問にフローネは目を見張って、あわてて頭を回転させようと視線をさまよわせた。
「あ、あの、はい。お尋ねしました。でも今は連絡を取っていないので伯爵がどこに居るかも知らない、と。そっとしておくのが奴の為だと……」
素っ気なく言われ、純粋なフローネはそれ以上の追及もできずに諦めたらしい。
キツネとタヌキが合体したようなグラスグリーン侯爵から真実を引きだそうなんて無謀である。それはよく分かるのだが。
「もう少し食い下がってみればよかっただろ。お前、あんなに伯爵の行方を気にしてたのに、それで終わりなのか?」
俺が不愉快になるくらい、伯爵にこだわっていたくせに。
フローネは落ち着きなく座り直し、膝をそろえた。禿げかけた床の木版に向かって「もういいんです」と小さくささやくと、うって変わって笑顔を浮かべる。
「侯爵さまのお話ぶりだと、きっとどこかでお元気にお暮らしなんだと思います。それで充分だと思うことにしました。ですから、このお話はもういいんです」
「……あ、そう」
振り回された俺としては、その結論をさっさと出してほしかったよ。
「フローネ、果実酒を取ってくれないか」
市場で購入しておいたボトルを指さし、俺はベッド端に腰かけた。
「ワインじゃないんですね。……綺麗な色」
ルビーを溶かしたような美しい赤の液体にフローネも思わず微笑む。何のラベルもない質素なボトルが、かえって果実酒を引き立たせていた。
「コケモモだそうだ。この辺では家庭の飲み物らしいぞ。飲んでみるか?」
頷いたので、隣に座るよう声をかけ、グラスに注いでやった。あまりアルコールを嗜まない彼女は慎重にそれを口にふくみ、すぐに頬をゆるませた。気に入ったらしい。
「こんなに美味しいんだったら王都の同僚たちのお土産に買っておくんだったわ」
恨めしげに外を見るとどうやら雨足は多少弱まったようだが、何にせよ今日はもう市場は立たない。明日には帰路につく。
雨の弱々しさが無性にわびしい。
「また来たらいい」
だから雲を払いのけて光を呼びこむように、あえて楽観的なことを口にする。
「王都からは遠いけど一生来られない場所じゃないだろ。おまえが望むなら俺が連れて来てやるよ」
フローネが息をのむ。
それっきり静まりかえった部屋の中、彼女のグラスを取り上げて俺も一口含んだ。色から連想する通りの、甘酸っぱい香りと味が口中に広がった。
「何度でも」
顔をそむけようとする彼女の顎を持ちあげ、問答無用で唇を当て、果実酒を口移す。
「んっ」
娘の唇は紅を引いた以上に赤く濡れ、そこからツゥと垂れゆく滴を追って俺は再度口づけた。
だが不思議と脳内が覚めている。
『分かっているんだったら、どうしてあの子をいつまでも宮廷に置いとくのさ。あんな危ない場所から連れ出そうとは思わないの?あるいはせめて、優しい言葉の一つもかけてさ、もっとあの子の不安を和らげてやるべきじゃないの?』
友人の痛烈な指摘は正しい。
フローネは一介の侍女、俺も単なる子爵家の跡取りというだけの、大した力もない人間だ。周囲にうごめく巨大な権力にいつ目をつけられ、翻弄されるか分かったものではない。
俺は唇を放し、心なしか瞳にうるんだ光を浮かべる彼女の耳元に囁いた。
「俺の屋敷に来るか?」
「……え。それって?」
彼女はふわふわとした声を出した。
「公式的には俺はあくまでも独身を貫くし、レグルド兄上の息子を養子に取って跡を継がせる。子爵家の当主として最低限の務めだから、そこは譲れない。悪いがお前を夫人として扱うわけにはいかない……」
自分が都合のいい話をしているのは分かっている。普通の女なら馬鹿にするなと怒髪天を衝くだろう。
「それでも許してくれるなら、俺の屋敷に来ないか?」
「……」
彼女は長いこと黙っていた。沈黙の間にコケモモ酒の瓶はきれいに空いてしまい、そのうちの幾らかを飲んだ彼女はもう悩む力も失って、魅入られたように俺を見つめるばかりだった。無言のまなざしに応え、その体を柔らかく押し倒すと、俺を誘うように彼女が両手を伸ばしてくる。
「あなたの浮気を心配しながら家で待てってこと?」
「……何だそりゃ」
どこで浮気の話とすれ違ったんだ!?
俺は今、すごく大事なことを言ったつもりだった。ちょっと実質は違うけど、いわゆるプロポーズ的な意味合いの、そういう場面のはずだったのだ。
だがフローネは平然として、自分に覆いかぶさる男を見上げている。どうもアルコールが回ると内気な性格にゆがみが出るらしく、ネジが緩むどころか逆に太く締まるのだ。その面白さも俺の気に入りポイントの一つではある。
ちょっと目が据わっているフローネは
「だってね。要するに釣り上げた魚を水槽で飼うのと同じでしょ?後は死なせないように餌をやるだけでしょ。新しい獲物を求めてまた釣りに行くのが普通じゃないんですか」
という恐ろしい発言を余裕でぶちかました。
「うーむ。お前って奥が深いな」
「……嬉しいんです。嬉しいんですけど……」
花のような吐息が俺の首筋をかすめた。
──というような最終日を経て、同乗した帰途の馬車内でもう一度、今後どうするか意向を尋ねたが、彼女はまだ決心がつかない様子だった。
返事をあいまいにされたまま王都に戻ってきた俺が、多少胸を焦がすのも無理はないだろう?