第20話
たまには女の子視点もありけり。
わたし達の間にちょっとした諍いは絶えない。何しろフィルーは時々やたらと冷たかったり意地悪になったりする人で、それも作為的な場合もあれば無意識の場合もあり、とにかくすれ違いの種はバリエーション豊かに揃っている。そして彼の態度に文句をつけられる身分でもないフローネは、怒りを飲みこむことに慣れていた。
けど傷つかないわけじゃないよ。
いくら悪意がなくとも「お前は弱いな」っていうのは、それが事実であるだけに、胸がザックリとえぐり取られたよう。
「ダンスの競争にさえ負けるんだから、あなたを取り巻く令嬢たちとの競争になんて挑むのも愚かなことですね。どうぞわたしのことはお気になさらず、楽しくやっていて下さい」
なんて、我ながら冗談では済まない嫌味が胃からせり上がってきたくらいだ。
どんな気持ちでわたしがこの地へ来たのか、洗いざらい告白してしまいたい。彼の暴言につけこんで、「あなたはわたしのことを何にも分かってくれてないわ!」とか責めてみたい。幸か不幸か後宮の女たちは恋愛物語が大好物で、自然とフローネもその類のセリフは知識として豊富に持っている。
今こそ実践に使ってみるべきかしら。──常になく痛手を被ったフローネは気を紛らわすために茶化して考える。
相変わらず周辺で繰り広げられているドタバタ舞踊の喧騒が、どこか別次元のようだった。この混雑を面白がるなんて、ちっとも分からない。やっぱりエドもフィルーもどこか嗜好が変……いや、つまり、芸術家気質の持ち主ということだ、うん。
フローネは、エドが王宮に居た頃の静穏な夜が好きだった。エドが生活の場を故郷に戻し、フィルーと自分の仲が進んでも、今日だけは当時の空気に浸れるはずだと思っていた。でもエドですら昔の音楽を聞かせてくれない。
感傷がこみ上げていつの間にか力が抜けていた。そんなフローネを黙って見守っていたフィルーが、ここでようやく動いた。
「……気に障ったのか?……」
何を今さら。
だけど何しろ声が。甘くかすれた魅惑的な声が、まるで少年のようにおずおずと、機嫌を窺ってくるものだから。
フローネの弱くて柔らかい心は簡単にほどけてしまうのだが、今度は負けるまいと、強いて背後のフィルーを無視した。
激しい踊りを満喫して、ちらほらと休息に向かう男女の姿も見られ始めた。エドは場の空気を読み、やや曲調を緩める。
「フローネ」
反応がないと知ると次にフィルーは掴んだ手首にぐっと力を込めてきた。そして強引に体を引き寄せる。といっても力任せということではなく、ただ彼の手が腰に添えられただけでフローネは自然と従わされてしまうのだ。
間近な位置に来てしまったその顔をつい習慣で見上げてしまい……後悔した。
エメラルドグリーンの光を固めたような瞳。言葉に置き換わらない想いがもどかしくくすぶり、秀麗な瞳がもの言いたげに揺れている──。
そりゃもう、壮絶に色っぽくて、悩ましくて。
ああこんな目を見るんじゃなかったと一瞬思ってしまった。だっていとも容易く籠絡される自分の弱さを露呈してしまうことになる。
フローネは唇を噛みしめ直し、わざとらしく視線を外してみせた。逃がした目線の先にこちらの様子を気にしているエドの姿が飛び込んできた。エドは「やれやれ」というようなおどけた表情でフローネに笑いかけ、明るい演奏を続けている。
「悪かったよ……。少しはおまえを思いやれとエドにも説教されたんだが、ちっとも果たせていないな。本当におまえには悪いと思っているんだ、これでも」
彼の声が空気のゆらぎとなってフローネの頬にあたり、フローネの目を泳がせる。
なおも言い募ろうとする彼の気配を察知するやいなや、フローネは「もう結構です。やめて下さい!」と言葉を封じた。
可能なら今度こそ彼をなじりたかった。こんな時に誠実に謝らないで。いっそすれ違ったままでいさせて。でないとフローネの脆弱な心は彼を許してしまうだろう。今、それはとても苦痛だった。ううん、許すのは簡単だけど、その後に訪れる平和な時間がやるせなくなるに違いなかった。
「懲りないね、君たちったら。早く仲直りしてよ」
カラリとした質感の声とともに、いつの間にか傍に来ていたエドが遠慮なく俺と彼女の顔をのぞきこむ。もちろんとっくに演奏は途切れていた。
フローネはエドを困ったように見返した。俺の謝罪を突っぱねようとも、エドの介入は拒絶しかねる様子だ。どうやらエドの勝ちらしい。早々に情勢を見定めた俺は、親切なる友人が「この朴念仁に腹を立てるだけ無駄だ」というようなことを嬉々として語り、見事にフローネを言いくるめるのを眺めていた。
「まあ納得しなくてもいいからさ、せめて僕の前でのケンカは収めてくれよ。せっかく会えた旧友としては険悪な君たちなんて見たくないよ」
そこまで言われてようやくフローネは俺の謝罪を受容したが、まだ腰に巻きついたままの腕が気に入らない、と俺からの解放を求めてきた。
どうやら予想以上に怒らせてしまったらしいなと今になって悟ったが、しかし硬い表情のその奥には、嫌悪感ではない何か、もっと甘い色合いの何かが潜んでいるような気がして、それを頼みに要求を無視する。むしろここで放したりしたら、俺たちの間に消えない亀裂が入りそうだった。
「口直しに踊るか」
「……まだ踊るんですか」
勝手にやれと言われる前にエドに曲名を告げ、すっかりスペースの空いた廊下の中央へ彼女を連れて行く。強引なのは百も承知だ。
音が流れはじめた。王都の舞踏会では定番のワルツ。本来はオーケストラによる、スケールの大きな華々しい曲だけど、演奏者がエド独りの今宵は主旋律のみが伸びやかに響く。
「なんとなく踊れるだろう?この音楽なら」
田舎の住人たちが一様に口をポカンと開けて見惚れる中、フローネは俺のリードのままにターンを決めて、俺の懐へ戻ってくる。スカートがふんわり膨らんでいかにも優雅だが、内実は、いつも相手にしている女性たちより初々しくて何倍も気を遣わされる。
「無理ですわ。上手く踊れません。この音楽でも……」
主人の舞踏会にお供する機会は多いだろう。だが耳に馴染んではいても、体に沁み込んでいるのとは違う。フローネはお手本のような貴族のダンスを知っている分、自分の動きを拙く思うようだった。
右に、左に、半回転。彼女のステップはほんの一瞬遅れて、しかし一途に俺についてくる。「もう嫌だ」という意思表示があれば即座にやめるつもりで待っていたのに、メロディーはまだ流れ続ける。
「上手く踊る必要はないだろ?満足できれば」
「フィルー様はこれで満足なさるんですか」
返事の代わりに微笑むと、絡み合った手の指先にぎゅっと力がこもるのを感じた。
「人前で、お前を相手にダンスをする日が来るとは思わなかったんだ」
俺の脳裏に、兄との会話がふと甦った。
『……俺も迷ってはいるんだ、兄上。例えばあいつに綺麗なドレスを着せて舞踏会にエスコートする夢を見ないわけじゃない。でも、そうすると途方もない重圧があいつに掛かり、必ず傷をつける。』
身分違いの恋なんてのは、貴族界ではよくある話だ。もちろん大半は恋人や愛人レベルだが、中には正式に結婚してしまう例もある。周囲の反対を押し切ってしまえば、舞踏会にエスコートするのだって不可能ではない。
彼女がもうすこし打たれ強い性格ならば、その道を行ってもよかった。
だけど誓って俺はフローネの弱さを責める気はない。世の中には傷ついてもめげずに立ち向かえる人もいれば、そうはいかない人もいる、ただそれだけのこと。
むしろ彼女は俺に、愛すべき弱さというものを教えてくれた。
「俺と踊るのは嫌だったか?」
あと三小節で曲が終わる、その瀬戸際に短く尋ねた。
ダンスの間ずっと羞恥・困惑・必死ばかりで、ようやく終着だと息を抜いたに違いないフローネは、なんとも複雑そうな顔をした。
「嫌だったと言っていいぞ、遠慮なく。まあ言えないところがお前のお前たる所以だが」
優しすぎるから人を押しのけられないのだ。
だからこの娘が愛おしい。
周辺から一斉に感嘆と拍手が湧いたことで三小節が通り過ぎたことを知り、我に返って娘の肩を抱き直したときだ。小さな声が聞こえた。
「いいえ。夢みたいで…… 愛 しかった」
Q.なぜ急に女の子視点が?
A.フィルーがあまりにも女心を解さないため、このままではフローネの心理が伝わらなかったから(汗)
フィルーよ、事態は君が思っているより深刻ですぞ。