第2話
王都にある屋敷にはふだん俺一人が住んでいるので、いつ帰宅しようと自由気ままだが、現在は生誕祭に出席するために両親が滞在していた。王宮で一夜を明かして昼ごろ悠々と帰宅した俺はさっそく母親に捉まってしまった。
「どなたと?」
と、簡潔に。
「お尋ねになるだけ無駄ってものですよ」
当然ながら昨晩は清らかに終わっている。
面倒くさいので軽くあしらう俺の前にむんずと立ち、母親は鼻息が荒い。
「本当に信じられなかったわ。舞踏会にエスコートすべきお連れの女性がいないなんて!男として恥だとは思わないの」
「別に思いませんね。それに母上のように滅多に王都へいらっしゃらない方はともかく、大方の連中は俺が独りで来るのに慣れていますから今さら驚きもしませんよ。母上が何と仰ろうと、これは俺のスタイルです」
「珍妙なことを言うのね」
毛の生えた魚を見るような目で母親が有り難いコメントをくれるも、俺は横を向いて聞き流す。
舞踏会の入口を跨ぐ時は独りでも、ダンスが始まる頃には適当なパートナーが勝手に現れてくれるので、特に困ったことはなかった。昨晩もその調子で、次々にご令嬢たちが俺とダンスしたのを、母親も目撃しているはずだ。
「あのお嬢さん達の中からどなたか一人、生涯の伴侶を決める気はないの?」
「執念深いですね、母上も。俺が独身主義だとは御存じですよね?」
「まあ虚しいことを」
今度は母親があっさり聞き流す番だった。
もちろん俺のような立場にある者が独身主義を標榜するのは一種の逸脱行為だ。しかし、これはレノワ家現当主である父の黙認があってのこと。いわば俺が勝ち取った権利なのだから、母親も責めにくそうにしている。それで彼女は専ら、「家族っていいものよ」と情に訴えようとするのだ。
我がレノワ一族は温和な家庭を築く者が多い家系で、たとえ親同士がまとめた政略的な縁談であっても、割とうまくやっていくカップルが大半である。両親もそうだし、兄夫婦もそうだ。
兄夫婦のほうは順調に、待望の第一子を妊娠中である。孫の顔が見たいならそっちで満足してくれればいいのに、と俺は思った。
いつまでも幼い息子感覚で小言を言いたがる母親を振りきるためにも、庭に出て剣の鍛錬をすることにした。
社交界では詩人としての印象が強いらしいし、王宮での仕事は記録係だし、どうも人から軟弱に思われがちな俺である。冗談ではないぞ。自分としてはいつでも騎士兵に鞍替えできるつもりなのだ。
一心不乱に素振りをしてじんわり汗をかく。気分が乗ってきた俺はシャツを脱いで上半身を日の下に曝した。春になりたての空気はほどよく冷感を帯び、気もちいい。
「お相手しましょうか、フィルー様?」
執事のクリストフが剣を左手に、白いタオルを右手に持って現れた。
脱いだシャツとタオルを交換する。
「お前と立ち合うと、3分もせずに勝負がつくからなぁ」
と俺は眉をしかめた。騎士兵に鞍替えなどといい気になって夢想していたけれど、正真正銘の剣士であるクリストフを前にして俺はたちまち弱気になる。もともと彼はレノワ家お抱えの武術指南役であり護衛だったのだが、いつしか俺の側近めいた役回りが増え、気づいたら執事もこなす何でも屋になり果てた。
予想に違わず、容赦なく打ちのめされること30分。悔しかったが「負けました」と認めて終わりにしてもらった。忌々しいことに頭を下げて首を晒さないと許してもらえないのだ。子どもの時から一貫した決まりごとであり、ゆえにいつまで経っても自分がクリストフの主人だという感じがしない。
息切れもせずに涼しげな執事はニコッと笑った。
「フィルー様は素直でよろしいことですね」
嫌味か、クリストフ。
汗を洗い流して二階にある自室に戻り、届いていた郵便物に目を通す。あちこちからサロンだの茶会だの演奏会だの各種催し物への招待状が来ている。
皆よく飽きないな……。
率直に言って社交は嫌いだ。できることなら身を潜めて静かに暮らしたい性格である。しかし何の因果か子爵家の跡取りなどに指名されている以上、最低限度の付き合いはしなければならない。
俺にとっては不幸なことに、他人より多少ましな容貌と詩歌の才能を授かって生まれたせいで、俺はご婦人方に受けがいいらしかった。どんなに素っ気ない態度を取っていようとも、ものともせずに招待状は降ってくる。
ああ、兄が健康だったら良かったのに、世の中うまくいかないものだ。
と、どんどん封を切っていき、最後の一通を一瞥したとたん、しぜんと俺の背筋が伸びた。
封筒に差し出し人の名前はない代わり、鮮やかな封蝋が目に飛びこむ。国花たるアイリスの意匠は王族のみに許されたデザインであり、蝋の色によって個人が特定できるのだ。若草色のアイリス、それが象徴する人といえば。
──5月に行われる詩会のために貴君を招聘したい。一週間後の水曜日、『詩集から読み解く古代文明』の本を持参せよ。
次期王位継承者ベルナール殿下の正妃、マルグリット妃殿下からだったのだ!
王太子妃争奪戦とでも銘打つべき、騎士兵も真っ青の熾烈な「女の競争」を勝ちぬき、見事花嫁の栄冠を獲得したその人だ。王宮でおっとりと育った王太子などとっくに尻に敷いている、まさに女傑タイプ。
間違っても、サロンに夢中なご婦人方のように俺の見てくれに誤魔化されてはくれない人物である。面目が何であれあんまり御前に伺いたくはないのが本音だ。
それに気が進まない重大な理由がもう一つ……。
俺が気を許す唯一の娘と、人目のある場所で向かい合いたくはなかった。彼女との関わりは王宮生活の裏側にのみ仕舞っておきたいのだ。たとえ視線を交わすことさえ避けたとしても、表側で会いたくはなかった。
しかし諦めるしかない。
俺はバルコニーに出た。この邸宅は小高い丘の斜面に建っているため、ここからだと王都の街並みが眺望できる。王宮は真反対の方角にあって見えない。