第19話
強い風は夜更けになっても衰えを知らず、木の枝を揺するだけでは飽き足らないのか、石壁の建物にぶつかっては唸り声を上げていた。
この風は北山地方の名物とも言われるが、静まりかえった夜更けに旅先の寝台で聞くものとしては、甚だ落ち着かない気分にさせられる。
どうにかして隙を見つけて家に侵入しようとする魔物のイメージすら湧いてきて、それはそれで詩情のある不気味さだと思いながらこの5日間を過ごしてきた。
が、今晩は違う。
「……んん~……」
寝返りをうつ余裕もないほど狭いベッドで、フローネは窮屈そうに身じろぎした後、再びすやすやと眠りの世界に戻った。外のおどろおどろしい暴風と、ざらざらとした粗悪なシーツの肌ざわりによって、俺は宿泊初日にかなり睡眠を害されたのだが、フローネにその様子は皆無である。
いや、呆れるのはそれだけではない。王都から遠路はるばる俺を追ってきたくせにキスの一つもねだることなく、どうして肝心なところで健やかに熟睡するのか。こっちの身にもなれと言いたい。
恨みがましい視線を向けてみても、相手はゆるんだ唇から規則正しい寝息を立てるばかり。
脈打つ心音。深い呼吸音。
昨晩まで人の生気に乏しかった部屋に、今は温かく沁み入る音。一定のリズムを保ったそれらは、浜辺を濡らす波のように、寄せては返し、満ちては欠け、生命の息吹をひらすら刻む。
仮に外に魔物がいたとしても、この安らぎの音色には敵わないだろう。……と言うと、まるで母親の存在をたしかめて安心する幼子のようだけど。
だけど、心地いい。いつも内気で頼りなくて守ってあげなければならないはずの彼女に、逆に守られていると思った瞬間だった。
「お酒ばっかり……」
エドとの再会を果たし、すこし感激が落ちついたらしいフローネは、エドの住まいを一瞥して呆れた。
「エド、飲むだけじゃなくてちゃんと食べないと不健康よ」
「大丈夫だよ。ここは長屋だからね、誰かが料理してくれて分けてくれる。僕はお返しのためにお酒を用意してるの」
そう言っているそばから隣人たちが顔を出し、来客の存在に気づいて珍しそうに話しかけてくる。
あっという間に俺たちのことがニュースとなって長屋内に知れ渡り、これは歓迎会をせねば、とかなんとか誰かが言い始め、素朴な彼らはたちまちお祭り状態になった。
「娯楽に飢えた地域だからさ、悪いねぇ」
時刻はちょうど夕食前。女どもが結束して料理に取りかかるらしい。準備の騒々しさを嫌った俺がふらりと戸外に出ると、エドが追いかけてきて苦笑した。
俺はその顔をすこし眺め、
「フローネはどうした?お前たち二人で話したいこともあるだろうと思って席を外してやったのに」
「あ、そう。お気遣いどうも。あの子は準備の手伝いをしてるよ。別に君にお膳立てされなくったって後でゆっくり話すさ。──ところでフローネ、ちょっと元気ないね」
目の前の川原へといったん外した視線を再びエドに戻し、またすこしその顔を眺める。
「慣れない旅で疲れたんだろう」
「うーん。体調面なのかな。なんとなく表情がなぁ。……まあいいか、君がついてるんだし野暮なお節介はやめとこ。昨晩君と盛り上がって寝不足ってオチかもしれないしねぇ?」
エドお得意の、にっこりと純真そうな笑顔と嫌味。
それはともかくとして、フローネに関しては鼻の聞く男だ。彼女の様子が気になったというのならば、俺の見落としていた何かがあったのかもしれない。長屋に戻ってさりげなく観察しようとしたが、フローネの姿を見た途端いろいろな懸案事項は吹っ飛んだ。
三角に折ったバンダナを頭に結び、借り物のエプロンをつけて、極めつけに手に包丁とジャガイモだ。
「あ、おかえりなさい」
なんだこれは。……料理なんか作れるのか?
思わず率直に口走ったのがまずかったらしい。
フローネとエドがそろって目を怒らせ、「なんて無神経な」と噛みついてくる。
でも家事雑用をするのは下級使用人であり、高級使用人である侍女の仕事ではないのだ。王宮にて王太子妃の世話をしているフローネも当然、料理などしないはずである。だから驚いただけなのだが。
「フィルー様は召し上がらなくて結構ですわ。どうせお口に合いませんもの」
娘はつんとして言い、エドも便乗する。
「そうだよ、フィルー、君は食べなくていいよ。フローネは僕のために作ってくれたんだもんね」
ぴったりと息を合わせて皮肉を浴びせる二人を前に、俺の弁解はむなしく弾き返される。
いつもこうだ。彼女が生きいきと腕を振るう光景に俺がどれだけ惹かれ、その食事に癒されたいと思ったか、うまく伝わることはない。
長屋の一同を巻き込んだ夕食が賑やかに始まると、たくさん並んだ皿の中から真っ先に愛しい娘の手料理を取る。晩秋の近いこの季節にはふさわしい煮込み料理。
柔らかく煮えた根菜類を匙ですくい、一口。
「……美味い」
俺は曲がりなりにも詩人だ、あらゆる語句を総動員して、この味を称賛しなければならないはず。定型化された修飾語を用いて、または自分で新しい表現を生み出して。
でも、エドと話しながらも気がかりそうに俺の反応を注視しているフローネへ向かって、俺がその場で口にできたのは直球すぎる一言だけで。
何のための言語能力なのかと自分の無粋さが嫌になった。
彼女はにっこりと微笑んでくれたけれども。
さて、料理が胃袋へ消えていくのと反比例して宴は徐々にヒートアップしていく。立ち上がってステップを踏み出したのは誰だっただろう。気づくと陽気な舞踊曲が奏でられ、廊下に出た人々はリズムを取って体を揺すっていた。もちろん音楽はエドによる生演奏だ。
「……まぁ……」
熱気に圧倒されてフローネはあえかな吐息をつく。
ぼんやりとしたその瞳によく映るように、俺は手を差し伸べた。
「踊ろうか?」
「……え?」
若夫婦は子どもを放り出して、腰の曲がった老人も杖を置き去りにして、俺たち以外は全員がすでに腰を上げていた。
分かりやすく誘ったにも関わらず娘の反応は鈍い。強引に手を取って踊り狂う輪のなかに入ったころにようやく狼狽していたが、構うものか。狭い空間で何組もの男女がてんでバラバラに踊っているため棒立ちになっていては邪魔になり、ぶつからないためには自らも踊るしかないのだ。
「踊れませんよっ?テンポが速くて……ステップも分からな……」
訴えの最中に悲鳴をあげて倒れかかってくる。背後では悪気もなく裾をひるがえすおばさんの姿。
フローネを笑いつつも、一方の俺も悲惨な状況ではあった。「お上品」な舞踏会の経験など何の役にも立たない。まるで生きるか死ぬかの戦場のように、とにかく踊りまくった者が勝つのだ。
「無理です!こんなの、とても!」
フローネは戦意のかけらもなく早々に白旗を掲げてしまう。
「なんで。こんな弱肉強食的ダンスは他にないぞ」
俺もめまぐるしい曲調に体が翻弄され、まさしくてんてこ舞いな感じだったろうが、面白くて仕方なかった。けれど断続的にあがるフローネの悲鳴に折れて、彼女を保護すべく廊下の端に避難する。
「まったくお前は、弱いな……」
「……ええ申し訳ありませんね。わたしのことは捨て置いて、どうぞ踊ってきて下さい」
萎えた顔でそう言うと、フローネは踵を返す。皺のついてしまった藤色のスカートを捌きながら。
なんだか元気ないね、というエドの言葉が脳裏に甦ったのはそのときだ。
俺は本能的にその手首を捕らえた。