第18話
「さあこれで売り切りだよ、残りひと籠!残りひと籠!」
「いい綿が手に入ったわねぇ、これでどうにか冬支度ができるわ」
「ちぇっ。はるばる峠を越えて来たってのにこんな値かよ……」
方々の農村から集まったらしい人々が混沌と入り乱れ、市場は猥雑な活気を帯びている。
風変わりなバカンスの5日目。この町がこんなに賑わっている光景は初めて見た。
エドによると、月に何度か、こうして大規模な市場がたつのだと言う。
大規模といってももちろん王都のそれとは比べるべくもないが、程よい賑わいと落ち着きが俺にとっては心地よく、すこし心が開放的になり、
「兄さんいい男だねぇ。どう、何か見て行かない?安くしとくよ」
と露天商から掛けられる呼び声や、その後に続く会話も案外と楽しめた。
「宿屋に泊ってるの?なら夜になったら酒場に顔出しなよ」
市場の隅で酒瓶を売っていた女が、代金を受け取りながら俺に笑いかける。
「市場の日だけ臨時で酒場を開くのよ。宿屋の食事よりはましな物を出すからさ」
「そうか」
はっきり言って宿の食事はひどい味だったから、俺は即座にうなずいた。
北山地方名物の強風にたまりかね、太陽は早々と西へ退き、夕方になった。ただでさえ癖の強い俺の髪はすっかり乱されている。宿に戻り、くしゃくしゃな毛束に手櫛を入れつつ、ちらりとカウンターに目をやった。珍しく人影があったからだ。
「そんな名前の人は泊まっちゃいないよ。他を聞いておくれな」
「宿屋はここだけと聞いていますけど」
若い女の声に俺の足が止まる。
煩わしそうな女将の対応にも、辛抱強くねばっているその後ろ姿。髪の色といい背格好といい、見覚えがある。しかしまさか、こんな所では会うはずもない。と思ったとき、娘の髪留めが夕日に反射した。
「ほんとうに宿帳に載っていませんか?フィルー・レノワという方です」
──娘が誰なのかを確信してもなお、俺はそれを信じなかった。名前を呼ぶこともできず、駆け寄ることもできず。やがて女将が邪険そうに娘をにらみ、悄然とした彼女が足を半歩引き、あきらめて出ようと振り向く映像が、やけにゆっくりと俺の視界を流れた。
「れっきとしたお休みをもらったんです」
夢幻ではない証拠を示そうというかのように、部屋に入ると開口一番、フローネは事情を説明した。まだ俺は疑いの表情を消せないでいる。
「マルグリット様は外遊のご予定で、わたしもお供するはずだったんですが、それがなくなって」
「なくなった?」
すると彼女は無意識に眉をしかめ、「ちょっと、あの、ご不興を買って……」と口ごもった。気難しいマルグリット妃殿下の機嫌を損ね、しばらく顔を見たくないという理由で休暇を出されたものらしい。
「れっきとしたお休み、ねぇ」
「よくある話です!いいじゃないですか、こうして偶然にお休みを過ごせるんですから。それともお邪魔でしたか?」
フローネは落ち込む代わりに唇をとがらせ、彼女自身にとっても不本意な休暇を正当化しようと、やや強引に説明を打ち切った。
近頃、こういう拗ねた表情をよく見せる気がする。俺は妙にそれが嬉しかった。
窓から日光はもう差し込まず、かといって明るい照明もない室内はいっそう古びて見える。フローネは立ちあがり、埃を払うべくマントを肩から滑り落とすところだ。下にはシンプルながら上品な藤色のワンピースドレス。
「……」
豪華絢爛な王宮において彼女は埋没しているが、こんな田舎に置いてみたら分かる。いかに瑞々しく洗練された娘であることか。
自らは発光しないが、光を当てられると美しく浮かび上がる月のように。
そして改めて、王侯貴族の世界から分断されているこの辺境で二人きりなのを、夢だと思った。
外に出ると市場の撤収作業が手早く行われていて、徐々に隙間が目立っていく空間に風が吹きさらし、人々を家路へと追い立てる。
荷車を引いた彼らは、今日の売り上げについて、今年の秋の実りについて、来るべき冬の準備について、喜怒哀楽を織り交ぜながら話し合い、別れていく。
彼らにとってここは現実。
そんなことを考えながら、小さな居酒屋のドアを押し開け、狭いテーブルに娘と向かい合う。
「ええと、あの、あぁ注文をするんですよね」
「そうだな。で、何を?」
と大真面目にメニューを吟味する自分たちが急に可笑しくなり、最初に俺が吹きだすと、つられて彼女も笑い転げた。
「ああ、落ち着かない。わたしたち、何をやっているんでしょう?」
「クリストフがいたら大目玉を食らうな」
王都で留守番中の執事は、フローネをこの地まで送るよう馬車を手配した功労者らしいが、まさか俺たちがこういう過ごし方をしているとは想像もしていないだろう。
フローネはふと周囲を見回した。
「こんなに堂々と一緒にいていいんでしょうか……?誰にも見られてませんか?」
「平気さ。俺たちの存在なんか誰も興味ない。ここの人にとっては酒一杯の値段のほうが気になるだろうよ」
「そうかなぁ」
フローネが意味ありげに微笑した時、女が勝手に近くの椅子を引いて俺たちのテーブルにつき、色っぽく足を組んだ。
「いらっしゃい、来てくれて嬉しいわ。だけど兄さん、昼間はこんな可愛い彼女連れてなかったじゃない。ちょっとがっかりよ……」
見れば露天商の女だ。
ホラねと言いたげにフローネが俺へ目配せすると、自分は食事に集中し出した。大っぴらに俺への好意を示す女に、特に機嫌を損ねたふうも見せず、淡々と会話を聞き流している。
慣れたことだ、と言わんばかりに。
けれどほかの客をあしらいに席を立った女は、最後ににっこりと笑い、
「兄さん、今度の市では可愛い彼女に贈り物でも買ってあげなよ。……それからあんたも、せっかくいい男を掴まえてるんだから、しっかり強請りなさい」
とフローネにウインクした。フローネは面食らい、数度瞬きを繰り返した。
宿の部屋に帰り着くころには、移動の疲労やら飲み慣れない酒やらでフローネの意識は飛びかかっていた。ベッドに勢いよく身を投げ出して、しばらくギイギイと軋ませた後、ぽつりと呟く。
「変な感じ。……誰からも咎められないなんて」
ご都合主義的展開なのは認めますが、
「よくある話です!いいじゃないですか!(開き直り)」