第17話
北の国境を兼ねている山脈のふもとに広がる北山地方は、静かな農村が点在した落ち着いた佇まいだが、辺鄙すぎる点と、目の保養にすべき景勝もない点が災いし、貴族にも観光客にも愛想を尽かされている土地柄だった。
エドに会うためでなければ俺だってわざわざ足を運ばない。
行ってみて宿が見当たらないのに驚いた。仮にも近辺のぶどう農園を取り仕切る地主が住み、ささやかながら市場も立つ町のはずなのに、外部の人間の訪れを期待してはいないようだ。
地元の人に尋ねてようやく宿屋を発見。町で唯一の宿屋だそうだ。
染みのついた壁に走るひび割れ。腰かけると悲鳴を上げるベッド。ガタガタと揺れる机。
ここまでくると経済状態の悪さを示す田舎ぶりが新鮮で面白くなってきた。俺は貴族階級の人間であることに何の優越も抱いてこなかったつもりだけど、やはり裕福な環境なのだと自覚する。
ともあれいっそ徹底的に楽しむことにした。宿帳には偽名で記入し、従者はすべて帰らせた。たまには身分のしがらみから脱して自由を満喫しよう。小姑のように煩わしいクリストフも王都に留守番とくれば、俺の気まぐれを咎める者もなく、今年の秋のバカンスは風変わりなものになりそうだ。
宮廷音楽家を退職したエドは、音楽で人を養わせるほど裕福でも文化的でもないこの土地で、町の地主の下僕をこなしながら演奏や作曲の依頼を回してもらい、生計を立てているらしい。
早速会いに行き、半年前より痩せた顔を見たが、男同士の再会なんて平淡なものだ。王都から遠路はるばる来訪した親友と久しぶりの握手をするなり、「仕事が終わるのは深夜になるかな。それまで待ってて」と通告して、エドは消えた。
自由な男なのだ。規範や常識に囚われないからこそ俺とも対等に接してくる。俺とエドが仲良くなったのは、世間からあぶれた変人ぶりのおかげかもしれない。
夜半になってようやく膝をつき合わせ、お目当てである新物のワインを開封する。ワイングラスもないので深みのある椀を使って豪快に飲むと、若くて荒々しい味覚が口腔を満たす。暴れん坊のやんちゃな男の子みたいな味だ。時間をかけて熟成するにつれ、角が取れて丸みを帯びてくる、その変化がたまらない。
「ねぇ、フローネは元気にしているの?」
互いの近況を述べ合うなかで、当然出るべき質問が出た。
「またあの子のこと苛めてないだろうね。君ってほんと天の邪鬼だからな。……昔から全然変わってないよね」
「……ほっといてくれ」
エドはくすくす笑い、俺が土産として持ってきた王都のチーズをつまみ、その口当たりの良さを懐かしんだ。
最初からエドは俺とフローネの縁結び役だった。ある日ひょっこり彼女を連れてきて、僕の新しい友達だよと紹介してきた。初日は俺も彼女も互いに警戒するばかりで、なぜ今さら若い女の子を仲間に加えようとするのか俺は理解できなかったが、エドは飄々として、
「だって僕の音楽を聞いてもらいたいんだから」
と主張するだけ。芸術家である彼はつねにマイペースであった。
「傍で見てて楽しかったけどね。君ったら分かりやすいちょっかい出してたし、フローネは真に受けちゃうし」
あれは知りあってすぐのこと。
酒を仰ぎつつ会話をしつつ、三人でまったりと一夜を明かした最初の日。フローネは俺の身分に緊張して縮こまっていたが、そのくせ途中で眠りこけ、徹夜した俺に惜しげもなく寝顔を披露した。
で、よせばいいものを俺が翌朝それをからかった。
あの娘は律義に羞恥し、俺を「意地悪な人」と認識し、しばらくは嫌厭ムードが続いた。
当時はそれを楽しむ余裕があったのに。
今、あの頃のように本気で疎まれたりしたら、自分がどれだけ焦燥するかは分かっていた。雨の音楽会の日、それを思い知らされたから。
何かを察したように、エドは空になったお椀をもてあそびながら笑顔を後退させた。
「それにしても……心配だなぁ。僕がいなくて、君たちはうまくやれてるの?ただでさえ身分って障害があるのに、君は女の子の気持ちを細やかに汲むのが下手だからな」
「じゃあ聞くが、エドは彼女の気持ちとやらが分かるのか」
エドの偉そうな物言いにすこし苛立ちが起きる。
いつだってエドはフローネのよき理解者だ。
俺がエドに嫉妬するとしたら、彼女と以心伝心の間柄にあるという、その一点だ。
「そりゃ他人だもの、気持ちが完璧に分かるなんて言わないさ。だけどあの子の立場を想像してごらんよ。複雑だよ」
「また身分の話か?そんなものは関係ない」
「ほらみろ。何にも分かってないな」
容赦なく鼻に皺を寄せられるが、俺はぐっと我慢して友人の有り難い説教のつづきを待った。
「いい?君たちが両想いの関係になったのは友人として祝福するけど、世間は黙ってないよ。隠していてもいつかは露見する。その時、君は社交界の評判を落とすくらいで済むとしても、後ろ盾のない彼女はどうなるの?国内中の姫君から恨みを買うんだよ」
同じことをグラスグリーン侯爵も前々から危惧していた。
女の嫉妬に火がついたら……まさに火をつけてみせたポーラ姫の事件が脳裏をよぎる。
「フローネの命綱はフィルーだけなんだよ」
「それは、分かっている」
「頭ではね。けど行動が伴っていないでしょ。分かっているんだったら、どうしてあの子をいつまでも宮廷に置いとくのさ。あんな危ない場所から連れ出そうとは思わないの?あるいはせめて、優しい言葉の一つもかけてさ、もっとあの子の不安を和らげてやるべきじゃないの?」
「それは……」
「不器用だとかなんとか言い訳して、愛情表現も中途半端なんでしょ。社交界きっての花形貴公子のくせに、まったく君は……」
俺が最も嫌う称号を、わざわざ使ってくる。
「幸いなことにフローネは君がそういう男だってのを理解しているから、何も言わない。信じて身を任せるわけだな。でも一方で、いつ命綱に見捨てられてもいいように覚悟しているんだ。彼女のそんな気持ちが君に分かる?」
我こそは正義の味方だというような顔をして、エドは存分に俺を断罪する。
しかしこの言動がフローネへのあつい友情のみに因るものかといえばそうでもない。エドは自他ともに認めるひねくれ者だ。フローネをダシにして俺を責め立て、ひとり悦に入るという構図は、昔も今も変わっていない。
だというのに、エドの言葉は、天から真っ逆さまに俺の頭上へ直撃する。
なんで、と俺は口中で虚しく呟く。
なんで彼女を見捨てようなどと?
何年もかけてここまで来た。放火事件という衝撃もあって初期のぎくしゃくムードを乗り越え、互いを大事に思い合い、穏やかでしなやかな信頼を築いてきた。
その積み重ねがあるのに、今さら彼女を見捨てようという気になるわけがない。
なのに彼女は俺を疑っているというのか?
エドは淡々とした口調を守り、
「誤解しないでよ。彼女は君を信じてる。信じろって僕が手紙に書いたんだから。それでも不安を消すわけにはいかない立場にいるんだ、彼女は。誰も守ってくれる人なんかいないから、自分で防衛してなきゃ駄目なんだ。だけど、そうしてでも、あの子は君のことが好きらしいよ……そう手紙に書いてあった」
良かったね。
そう締めくくりながら、エドの微笑みは俺を突き放していた。