第16話
長い螺旋階段を上がる元気もなく、塔の入口に留まっていた。そうしていると、次々に想念が脳裏をよぎっていく。
『どうしてわたしなんですか』『もう考えずにはいられないんです』
結ばれる前夜、大人しくて従順で臆病な娘はいつになく感情を高ぶらせ、たぶん勇気をかき集めて俺と対峙した。
でも、思えば俺は彼女の不安を溶かしてやれたのだろうか?
覚悟を決めたような顔をして翌日俺に身を任せはしたものの、彼女が心から喜んでいたのかどうか、その疑問に俺は推測さえできなかった。
少しずつ彼女の存在が俺から遠ざかるような錯覚。
分かっている。根源は、彼女の心に寄り添っていない俺にあるのだ。でもこれまで人を避けてきた俺には、気になる女の子への想いやり方なんて難題中の難題に思える。
逆に言えば今まで俺にそんな問題を突きつけなかったからこそ、フローネは俺の鋼鉄なる防御壁を素通りして特別な近さに来たのだけれど……。
思惟に耽っていた俺の耳がふと、バシャバシャと水を撥ねる音を捉えた。
足首まであるスカートをたくし上げて走ってきた娘は体当たりの勢いで飛びこんできて、慌てて避けた俺にその瞬間気がついたらしく、短い悲鳴を上げたが、それは幸い自然の騒音にかき消された。
フローネだった。
「わ、若子爵様ですか?……すみません!こ、こんな所にいらっしゃったんですか」
照明のない暗がりでお互いに凝視したのも束の間。とにかく濡れた彼女を連れて急いで部屋に上がり、棚からタオルを数枚見つけ出す。
簡単に水分をぬぐって処理を済ませてから、ようやくほっと脱力した。
「今日は悪かったな……」
「そんな、こちらこそ。おまけにこんな格好では迷惑でしょう?」
ソファに座るよう促しても、服が湿っているからと言って固辞する。怒りや不満の色合いはなかったが、態度は硬質だった。
「ソファが嫌なら、こっちに座れ」
「あ……」
腕を引っぱり、よろめいたその軽量な体を膝の上に乗せてしまうと、水気を含んだ娘の髪をしげしげと見た。ほのかなランプの光に浮かび上がる、滝のように美しく流れている髪の毛はあえかな光沢を放ち、妖艶な曲線の軌跡を描いている。
あまり望ましくない方向へ傾く自分に気がつき、俺は咳払いをした。
「忘れないうちにエドからの返事を渡しておこう」
この一言は、居心地悪そうに身を緊張させていたフローネの関心をあっさり攫った。
「まあ!読んでもいいですか?今!」
「ああ」
相変わらずエド効果は甚大なようだ。フローネはもう莞爾とした笑顔になって、いそいそとランプににじり寄り手紙を広げる。
予想通りエドは筆を取るのが億劫だったらしく、返事はフローネ宛だけしかなかった。使者が口頭で承ったという「ま、元気でね」が俺への唯一のメッセージだった。
だから俺を哀れに思ったのか、フローネは自分宛の手紙を部分的に音読し、エドが元気で過ごしていることを教えようと心を砕く。
「えぇと……“時間が許せばいつでも遊びに来てね。新物のワインが待ってるよ、ってフィルーに言っといて”だそうです。そうか、若子爵様はワインがお好きですもんね。醸造地巡りと称してエドに会いに行けますね……いいなぁ」
マルグリット妃殿下は決して慈悲のない人物ではない。
ないのだが、己の使用人に対しては大変厳しい扱いをしている。その一つに挙げられるのが侍女に与える休暇の少なさ。
ふて腐れた、とまでは言わないが不満げに目を細めて俺を羨むフローネ自身、休暇を取ってエドに会いに行く発想は微塵もない。
しかし気がつけば場はほぐれていた。素直に不愉快さを表すということは、それだけ俺へ心を許している証拠。フローネはまたしばらく黙って手紙を読んだが、さらに口元をほころばせた。
「去年の音楽会のことが書いてありますよ。“フィルーと合奏したのがいい思い出”ですって」
「ああ、あれか……」
それは音楽会終演後、3人で集まった時のこと。いつもは単独で勝手に演奏してくれるエドだが、今宵の令嬢たちと同じように音楽に酔ったのか、俺との合奏を主張して譲らなかったのだ。貴族なら教養の一環として楽器の扱いも習うもので、俺の場合は横笛だが、実のところあまり得手ではなかった。
「エドも若子爵様も、本当に素敵な音色でしたよ……。あれ一度きり、聴かせて下さいませんね?」
「俺は子ども騙しのレベルなんだぞ。人に聴かせられるものじゃない」
「でも今日、なさったんでしょう?」
彼女は含みのある笑みでそう言った。広間でアンサンブルに盛り上がっていた令嬢たちの声を聞いていたらしい。
俺が目を向けると、彼女も俺の反応を伺っている。
「……そこの隅の飾棚があるだろう。どこかの引き出しに笛が入っていると思う。探して出してくれ」
浮気現場を取り押さえられた間抜けな男じゃあるまいし、「してません」なんて陳腐な否定は馬鹿みたいだ。忘れ去られたように奥の奥に仕舞いこまれた笛の姿のほうが、雄弁に事実を物語るだろう。
そして一年ぶりに発掘された笛を手に取り、試しに息を吹き込んでみた。まあ、なんとか音は出る。
不思議そうに眼を瞬く、数々の不安を胸に秘めながら俺を見つめている娘へ、今できるのはこのくらい。
「貴重な二度目を聴かせてやろう。耳の肥えた貴族相手じゃわざわざ恥を晒すだけだが、お前程度ならまだいい」
結局こんな言い回しになってしまう。古今東西、詩人たちはこういう場面で情緒たっぷりに演出するものなのに、俺は全く何をやっているんだか。
しかし横笛の効能は偉大だった。
音が掠れようが震えようが娘心はくすぐられたらしい。うっとりとした瞳で拍手をくれたし、その後そっと抱き寄せると素直に頼りきってくれた。
よかった。心が離れたわけじゃなかったと分かって、ひとまずほっとした。
「……そういえばアーフォルグ伯爵の件だが」
それを聞くとフローネは若干浮かんでいた眠気を吹き飛ばし、機敏に振り返った。覚えていて下さったんですか?と声も弾んでいる。
満面の期待感に肩身が狭くなりながら、ここは正直に告げておく。
「まだ分からないんだ。調べているんだが手がかりが少なくて」
手は尽くしたのだという弁解を聞いた彼女が、首をかしげた。そして事もなげにこう言った。
「侯爵様もご存じなかったんですか」
「侯爵様?どの侯爵様だ」
「グラスグリーン侯爵様ですよ。伯爵様とはご友人同士でいらっしゃるから、きっと居場所も把握しておられると思っていたのですが」
この時の俺の驚愕が分かってもらえるだろうか。なぜ当の彼女からこれほど強力なヒントが出てくるんだ?今ごろになって!
言葉もなく彼女を見下ろす俺はさぞかし滑稽な顔をしていたことだろう。
「グラスグリーン侯爵はお前の女主人の父親じゃないか。自分で尋ねれば済む話だったんじゃないのか?」
「そ、そうですけど、侍女ごときが侯爵様にそんな質問はできないんです。貴族であるあなたが調べて下さったほうが早いだろうと思ったので……」
信じられない。俺もクリストフも一体何のために……。意気消沈した俺をさらに叩きのめすように窓が雨に悲鳴を上げている。
だが吐息をついた瞬間、唐突な閃きが俺の頭をかすめた。彼女の使った「侍女ごとき」について天啓とも思える閃きが。
グラスグリーン侯爵は俺をわざわざ呼び出して、火遊びはならないとご丁寧にも釘を刺したのだ。「侍女ごとき」にそこまでするか?
つまりあの人にとってフローネは「ごとき」ではないのだ。
だが問題は、侯爵がさほど情にあつくなく使用人など眼中にない、独裁者タイプの人物であるということ。
辻褄を合わせるにはこう考えるしかない。侯爵にとってフローネは例外、特例、特別なのだ。
……何だって?どういう意味だ?俺は自分の出した結論に戸惑い、それ以上先を考え進めるのを躊躇った。
一方のフローネは俺の機嫌を損ねたと思ったらしい。あとは自分で侯爵様に尋ねてみると言い、
「ご迷惑をおかけしました……」
きちんと頭を下げてくる。どんなに深い仲になっても、彼女は領分をわきまえていた。
「……グラスグリーン侯爵とアーフォルグ伯爵は険悪な関係じゃなかったか?王太子の花嫁争奪戦の時、とても友人同士には見えなかったが」
「険悪だったのは姫君同士ですよ。マルグリット様もポーラ姫も気が強くていらっしゃるから。でもお父君同士はお若い時から親交があったそうですよ」
聞けば聞くほどフローネのほうが事情に明るいことが分かり、やれやれとため息をついた。