第13話
沈んでいた体が浮力に任せて水面に押し上げられるように睡眠から覚めたとき、まず視界に入ったのは見慣れた天井だった。俺の質素な屋敷とは比べ物にならない、美しい彩色が施された、王宮で仮眠を取った時に見るいつもの豪奢な模様だ。
高窓から白み始めた空がのぞく。寝台に差しこむ日光はまだ弱く、生まれたばかりのようだ。それで大体の時間が分かった。
そして俺はおもむろに、左側へ視線を転じる。そこにブラウンオリーブの髪束と透き通るような肌色とが、ちゃんと寝台に重みを乗せて横たわっている。夢ではないらしい。
昨晩用事が済んだ後、時刻はもう12時を過ぎていて、俺は半信半疑で塔に戻った。期待するのは愚かだと己に言い聞かせながら。
しかし待っているよう伝えておいた資料室の、明るい月下の窓辺に娘はいた。
部屋に入っても大した言葉は交わさなかったし、ランプを灯しもしなかった。闇の中、誘われるように俺の肩へ預けられた娘の頭の重み。母譲りの髪留めを外すと解放されたように流れ落ちた艶髪。苦しそうな呼吸。しなやかにのけ反る背中……。
回想するだけで、またあれを味わいたいという勝手な願望が湧いてくる。
実際のところ夜を過ごしてからの方が彼女への執着心が強まった。それも日を追うごとに狂おしく増していく。
クリストフはそんな俺を少々呆れ気味に観察し、まだまだ修行が足りないとでも言いたげに剣術の鍛錬をさせて俺に渇を入れた。俺がミミルを鍛えることもあった。ミミルはあと数年したら騎士の養成学校へ入学させる予定になっているので、今から基礎的な体力づくりをしても早すぎることはない。
「フィルー様も同じ学校へ行かれたんですよね?どんな風なんですか?」
「おや……お前にそのことは話したか?」
「クリストフ様にお聞きしました。フィルー様も昔は騎士を目指していたって」
「そうだったかな」
とぼけてみせるが、それは本当のことだ。
貴族の二男として、騎士兵にでもなって身を立てるという規定通りの未来が俺を待っていたはずだった。
「あ、郵便が来たみたいです。フィルー様、すぐ戻って参ります」
門に現れた人影に目敏く気がついたミミルは毬のように弾みながら郵便物を受け取りに行く。
初夏の日差しが芝生を勢いよく育てる青い庭をひとわたり見回し、屋敷の庇の陰へ戻った。鍛錬の邪魔になるからという理由で花壇もオブジェも庭の一角に追いやられ、大部分のスペースを殺風景な芝生に譲り渡している。いかにも男主人の屋敷という感じの無愛想さだった。ここにあの娘を住まわせたら、一体どんなふうに庭が変貌するだろうなどと俺は夢想した。
ミミルが戻ってきた。一通の書簡を手に、内海地方から早馬で届いたものだと報告してくる。内海地方とはレノワ子爵家の領地である。では使者を差し向けたのは父か、それとも。
「兄上……」
この場で封を千切りたいほどだったが自重して屋内に上がる。クリストフの注目を惹きつつ、飛ぶように書状を斜め読みし、
「男だったらしいぞ。一昨日だ」
「レグルド様からですか?では無事に誕生されたのですね。おめでとうございます。フィルー様の甥ですね!」
昔から仕えてくれている使用人たちも話を聞きつけて口々に祝った。早速仕事を調整して田舎の内海地方へ駆けつける算段をつけ、翌朝出発することにした。
翌日はまだ空も目覚めない未明から馬に鞍をくくり留め、武人一人を警護に、全力で疾走する。岩石に打ちつける波飛沫のように、空気の塊が真っ向から俺にぶつかっては砕けて散っていく。
兄レグルドが失明したのは18の頃だったか。
優秀な跡取りとして社交界でも名を知られていた彼が、突然すべてを奪われて失意の隠居を余儀なくされるのを、俺は傍らで見ていた。拒絶の甲斐もなく、兄から取り上げられたものが今度は俺に与えられた。運命を呪ったのは兄だけではなく、俺もだった。
馬車なら丸2日は要する距離を無理やり強行した結果、夜半になって目的地に到着。既に寝静まっている時間だったので夜警に話をする以外は口をつぐみ、朝になるまで適当に睡眠を取ろうと思いながら館に上がった。
だが俺の到着を予想していたのかレグルドはすぐに起きてきた。
「遠いところをわざわざありがとう。フィルーなら駆けつけてくれると思っていたよ」
一見したところ普段とさほど変化ない温和な笑顔だ。
レグルドは瞼を固く閉ざしたまま手慣れた様子でランプを灯し、俺はその間にワインを探し当て、夜更けに兄弟二人で祝杯を上げた。
「……よかったな」
「そうだね」
一度何もかも失った彼が、新しい幸福を手に入れたことに、長々と述べたい祝いの言葉だが俺の舌はうまく回ってはくれないのだ。レグルドは不出来な弟を深遠な笑みで迎えてくれるのだが。どちらも多弁ではないので沈黙の方が長い。もしくはワインの感想をポツリと言い合うだけ。
まだ男の子の名前は決めていないらしい。
三杯目を注ぐ時、レグルドが俺を見た。厳密には見たというのは変な表現かもしれないが、彼に顔を向けられると全てを見通す光線でも当てられているような気がして、やはり見られていると思うのであった。
「フィルーもいつか家族を持ってごらん。もちろん独身主義は承知している、理由も分かっているよ。でも心から大切だと思える家族を作ってほしいな、お前にも」
「ああ。心配しなくていい」
俺の答え方を聞いてレグルドが不思議そうに首を傾げた。しかし聡明な彼のこと、直ちに笑顔に戻る。
「そういう人がいるんだね?良かったよ……。母上には教えないの?まだ結婚する気がなさそうだって、僕にしょっちゅう愚痴を言いに来られるんだよ」
両親は内海地方の中心地にある領館に住んでいた。レグルドの住むこの古館からは少し離れている。
母親にフローネの存在は知らぬが仏だろう。
「そうか、それでフィルーの相手が分かったよ。療養に来たあの女の子だね。尚更良かった、あのお嬢さんはいい子だからね」
フローネはこの館で療養したのだ。王都で仕事に忙殺されていた俺の代わりに、フローネの面倒をレグルドに任せたのだった。浮世から一歩身を引いている彼は、身分差など大して問題にせず対等に彼女と接してくれたようだし、また俺たちの仲を静かに肯定してくれた。
「……なぁ兄上」
「なんだい」
「約束を覚えているか?」
レグルドの瞼はピクリとも反応せず、探るように俺を見据えている。無意識に詰まる胸を開放したくて俺は更にワインを口へ流し込んだ。やっぱり俺はこの兄には敵わないと痛感しながら。
透視にも似たレグルドの沈黙がようやく和らぐ。
「……お前が跡取りを承知した時の『契約』なら覚えているとも。一つ、フィルーの妻帯については誰も口を出さないこと。二つ、僕に子どもが生まれたらお前の養子にして、いずれ爵位を継ぐよう育てること。そうだったね」
本来は兄が継ぐべき地位だったのだから、いずれ彼の子孫に返すのが当然だ。ややこしい内輪もめの種を撒かないように、俺は子孫を残すべきでない。十代だった俺がそのように思い決め、以来ずっと独身主義だと言い続けてきたのを、レグルドはよく理解している。
「それをこのタイミングで持ち出すということは、フィルー、あのお嬢さんを一生日陰に置いておくという意味なんだね?」
レグルドはいつでも冷静沈着だが、しかし彼が怒っているのは明白だった。
その怒りはフローネのためのものだ。彼女の存在を世間に知らしめることなくただ自分の都合を押しつけようとしている無慈悲な俺へ対して。そして俺はレグルドの非難を有り難いと思っている。
「……俺も迷ってはいるんだ、兄上。例えばあいつに綺麗なドレスを着せて舞踏会にエスコートする夢を見ないわけじゃない。でも、そうすると途方もない重圧があいつに掛かり、必ず傷をつける。俺がそれに耐えられないんだ」
「……そう」
一つゆっくりと頷くと、レグルドはもう何も言わなかった。