第12話
前回渡した母の髪留めは仕舞いこまれているのだろうか。フローネはいつも通り二つ結びの簡素な髪型をしていて、王宮で伺候する花形侍女には程遠い、控えめな印象である。
フローネの言い方だと、今後も俺と会うのは吝かでないのかもしれない。しかしこのぎこちない態度から察するに、結局のところ俺の忍耐へ問題回帰するだけらしい。前回から何も解決していないことになる。
それでもまあ、完全に避けられてしまうよりはマシなのか、と虚しい吐息をつきながら火酒を呷り、ふと横へ目を走らせる。
途端、娘が赤くなって目をそらす姿が仄暗い燭台の灯りにあぶり出された。
「俺を見ていたのか?」
不愉快な内省の余韻で俺の声はすこし硬かった。
「や、あの、……ごめんなさいジロジロ見るつもりはなかったんだけど、その、綺麗だったからつい……」
「綺麗?」
きれい。キレイ。……何が?俺?
予測していなかった衝撃的な返答で呆気にとられてしまう。男に向かって何事だ、とは一瞬思ったが、それより早く娘があわてて言い募る。
「だってそうなんですから!動く美術品みたいで、誰だって綺麗だと思って見惚れちゃいますよ。今日の舞踏会だって凄かったじゃないですか!一人ダンスが終わると10人くらい殺到しちゃって、それも皆お美しい姫君ばかりで、つまり、あなたがそれだけ女性を魅了する方だっていう証明ですよ。なのになんで、ここに自分が居るのか謎なんです。なんだかものすごく場違いで、あなたがすごく遠い人に見えて」
前ぶれもなく、洪水のように溢れる突発的な言葉の数々。こんなに彼女が夢中になって喋ることがあるだろうか。しかし次第にその表情には影が落ちていった。
「だって可笑しいじゃないですか?世の中にはもっと若子爵様に相応しい女性がいらっしゃるでしょう?美人で性格が良くて身分のある方と、どうしてお付き合いしないんですか。どうして舞踏会の夜に、わたしなんですか。……こんなの疑い出したら終わりがないから、考えないようにして来たんです。でも、でも、もう考えずにはいられないんです」
俺だけでなく室内の全ての物が固唾をのんで圧倒されているような、張りつめた空気。あまりに唐突な感情の爆発。
でもずっと心の奥底に抑えていた本音だったのだろう……。
俺には剥き出しのそれを包み込んでやる準備がまるで出来ていなかった。彼女が結局何を望んでいるのかも分かりはしなかった。迷いながら一歩近づくと途端に魔法が解けたのかフローネは口をつぐむ。
その体はすぐ傍にある。しかし手を伸ばして頭を抱き寄せることを許さない、鉄壁のオーラがあるようだ。ゆっくりと……脳内で荒れている滓を沈殿させるようにゆっくりと息を吐き、俺はもう一度娘と向き合った。
今、彼女の瞳は逃げることなく俺へ焦点をあてている。薄暗い世界で星のように光って。涙を堪えているのだろうと思った。
「……一つ聞きたいんだが」
「……」
「今のは俺を拒んでいる言葉なのか?」
それを聞くと、普段の内気さはどこへやら、噛みつくように睨んできた。
「いつそんなことを言いました?わたしはただ……ただ……分不相応にもあなたをお慕いしているから」
瞳に浮かぶ星が瞬いたかと思うや、頬に向かって涙がすべっていく。
やっぱり牙を剥かれたか、と俺は思いながら透明な軌跡を目でなぞる。
「でもあなたとわたしじゃどう考えても相応しくない、そうでしょう?だから……」
「相応しくない。という理由で結局俺を拒んでいるように聞こえるんだが」
俺が冷静に問い返すと果たしてフローネは瞼を伏せた。少し興奮が冷めてきたようだ。
「……触れてもいいか」
今まで許可を求めたことなんか無かったのに。
儚い涙をぬぐってやり静かに体を抱き寄せる間、強風も遠慮したように勢いを殺いだ。棚の中段に置かれた時計はほっと緊張を解いたように元気よく音を刻み始める。いつともなく互いに顔を添わせ、唇が重なろうとした瞬間、
「……お菓子ないのぉ?」
場違いに呑気な声が響いて俺たちの度肝をぬいた。
ミミルの声だ。忘れていた、そういえばベッドに寝せていたんだった。まさか起きていたのかと焦ったが、それきりベッドルームからは寝息のみが平和に響く。どうやら寝言だったらしい。
とはいえ子どもの前でものすごく情動的な場面を演じたわけで、正気に戻った俺もフローネも何とも言いようがなく、照れて照れてたいへん見っともない間を味わう羽目になった。
なぜこんなことになったんだ?
それにしても成り行きとはいえ、不器用な俺と彼女がせっかくここまでのムードを築いたというのに指の先からすり抜けていったのが惜しい。しかしミミルを置いておいたのは俺のせいなのだから、やっぱり何とも言えないのだった。
「お前も眠くなる頃だろう、部屋まで送るぞ」
気持ちを切り替えて声をかける。
フローネは一拍ほど間を置き、次は?と聞いてきた。その声が不安そうに揺れていたので、俺は少し首を傾げ、無造作に答える。
「お前の来たい時でいい。いつがいい?」
「明日……」
間髪入れず。
「あ、明日?」
「はい」
「明日の晩は東の国使節団と晩餐会の予定があるんだ。食後も色々付き合いが長引くだろうし、いくら俺でも異国の使者相手に途中で抜けるような無礼はできないぞ。相当遅い時間までかかるかも」
人嫌いとはいえども最低限の仕事は割り切っている。するとフローネは「そうですか、分かりました」と頷いた。あっさりと。
従順?いや、違う。
むしろ離反。ここで手を離したら最後、二度と自分の元に戻らなくなるような、そんな感じの退き方のように思われて俺は息をのむ。
「……来るなとは言ってない。遅くなってもいいなら来いよ」
見えない糸に引っ張られたように喉から言葉が出ていた。
フローネは黙って俺を見た。