第11話
「いいかミミル、誰かに素性を聞かれてもフィルー様の名前は絶対に出すんじゃないぞ。秘密の任務だからな」
王宮にある俺の部屋にて、クリストフはすっかり父親のような顔つきで小柄な少年に言い聞かせた。
行儀見習いのため我がレノワ家に奉公に来ているミミルには、これまで屋敷の雑用をさせるだけで王宮へ連れてきたことがなかった。したがって人生初の王宮入りを果たしたミミルは興奮の絶頂にあり、バラ色の頬は見る者を微笑ませる可愛さだが、クリストフはそれどころではなかった。呆れるほど何度も手順を確認させている。
「お使い先を間違えるんじゃないよ。さっき庭園で遠目に見たのを覚えているな?」
「なるべく一人でいる時をねらって、お名前を確かめて、手紙をお渡しするんでしょ。フィルー様のお名前は出さない。大丈夫だよ」
案外ミミルはテキパキと復唱した。
少年をお使いに差し向けることについて、クリストフは「子どもですが大丈夫でしょうか」と難色を示していたが、かえって子どもだからこそ上手くいくものもある。フローネを呼び出すことに関して若干の負い目がある今回、使者の人選としてミミルほど適任な者はいない。
「頼んだぞミミル、もう行け」
永遠に続きそうな二人の様子にしびれを切らした俺は強引に声をかけ、ミミルを王宮初仕事へ送り出した。それから側近のほうをジロリと見やる。
「お前も尾行してきていいぞ。ここに居られても鬱陶しいからな」
嫌味のつもりだったのだが、
「一時間経っても戻ってこなかったら探しに行きます」
大真面目な答えが返って来たのだった。
まあ確かにフローネを探し当てて、人目につかないように手紙を渡してもらうのだから少年には難易度の高い課題である。初めての宮殿で迷子になるかもしれないし、衛兵や好奇心旺盛な女官の目に留まって誰何されるかもしれないし、フローネとうまく接触できないかもしれないし、失敗する要素は満載だ。
だが大人の心配をよそに、40分後のミミルの表情は溌剌としていた。報告を聞いたら、フローネが優しくお礼を言った上、褒美にとお菓子を与えたらしい。とってもいいお姉さんだった、とミミルは大満足していた。
次の舞踏会の日に、とのみ書いたメッセージをフローネは一応受け取ってくれたらしいが、どのような反応を示したのかははっきりしない。
だから当日の舞踏会終了後、フローネを迎えにミミルを向かわせて部屋で待っている間中落ち着かなかった。前回の乱暴な発言はきっと尾を引いているはずだ。
ああ見えてフローネは気弱一辺倒というわけでもなく、時に芯の通ったところを見せて驚かせる部分があるのだ。あのマルグリット妃殿下の侍女を続けていたり、人を助けに火事場に飛びこんだりするのがその証拠である。
今度こそ俺に牙を剥くのではないか……と思っているとドアがようやく内向きに開き、今日もご機嫌なミミルに続いてフローネが顔をのぞかせた。
扉の手前で立ち止まり様子を伺う彼女と視線が合う。
「……」
また気づまりな空気が醸成されようとするのを察して俺は先手を打った。ミミルをそのまま部屋に置いておいたのだ。子どもが好きそうなお菓子や軽食の類もテーブルに準備していたのが功を奏し、ミミルは大喜びで
「お姉さんこっち座ろうよ」
とフローネの手を引く。ぷっくりとした少年の頬に浮かぶえくぼが母性本能をくすぐったか、彼女も思わず微笑む。
俺の作戦は見事に成功した。屈託のないミミルの無邪気さが大いに場を救い、まるでエドが居た時のような談笑ができた。フローネの肩の力を抜くには十分なほどに。
しかし時が深夜をまわると、さすがにミミルは居眠りし始める。隣のベッドへ運び、規則正しい寝息を聞きながら俺とフローネは向かい合った。
「……あの、エドの住所を御存じでしょうか。手紙を出したかったんですけど知らなくて」
「住所か。そうだな、俺も知らないが使いの者に持たせて探させればいい」
とりあえずそんなところから話を交わす。
一般人が利用できる郵便制度は一応あるものの十分に整備されているわけではない。特に田舎ではいい加減らしくて、頻繁に郵便物が行方不明になると聞いている。だから信頼できる人間に、個人的に頼むほうが賢明だ。
「若子爵様の家の方に?それじゃ申し訳ないですよ」
「馬を飛ばせば2、3日ってとこだろう。そう大した使いじゃないさ」
「……ありがとうございます」
ようやくフローネは俺に和やかな笑顔を浮かべてくれた。
どこからか、かすかに足音が聞こえる。厚い壁と扉のおかげで防音機能は高い建物だが、螺旋階段はよく響くのだ。
尖塔の上のほうにあるこの部屋まで滅多に人は来ない。塔の頂点にあるのが上官の部屋、その下が俺や同僚の部屋、さらに下が資料室となっている。足音は途中の階で途切れたようであった。
居心地のいい位置であるが、難点は熱気が籠ることだろう。夏は大変過ごしにくい。今も夜とはいえ7月、フローネも着ていたカーディガンを脱いでいる。だが窓を開け放つと涼しい風が入ってきた。
「わあ、気もちいい風」
彼女は立ち上がり、俺が佇む窓辺へ並んだ。気流に乗って強い風が吹きこんでくるのを黙って受ける。
なぜ今日は呼んでくれたんですか?と。
隣で声がぽつりと聞こえたのはどのくらい後だったろうか。
「あれからずっと連絡がなかったので……もう、愛想を尽かされたのかな、とか……色々考えてしまいました」
左右に分けて結んでいる彼女の髪が大きくはためき、たちまち乱れた。
詩会から二カ月間音沙汰がなかったのを、彼女なりに気にしていたらしい。
その間に起こった、伯爵の元夫人との一件は黙っておくと決めている。彼女を喜ばせる情報を掴むまでは、一切俺から伯爵に関する話題に触れないで忘れた振りをしておく。フローネにサプライズを送ってやるという、もはや意地である。
「お前こそ俺に愛想を尽かしたんじゃないのか。少し酷なことをした。悪かったよ」
「い、いえ……」
後悔はしていないが反省はある。真摯な謝意を伝えようと俺は体ごと彼女に正面向けたのに、その彼女は眼を外に泳がせている。目を合わせたくないと言われているような気がした。彼女の気持ちが読めないまま、これ以上どうしたらいいのか分からなくなり、今夜は我慢するつもりだった酒にやっぱり手を出した。