第10話
詩会で集まった王侯貴族がその後しばらく社交の場を離宮に留める中、俺は一人慌ただしく王都に戻り、すぐに異国へ出発した。わが国の西隣にあるその国から詩人としての俺へ招待状が届き、国王陛下の勅命により文化交流に務める予定になっていたからだ。
二週間とすこし長めの期間中、毎日いろいろな会席が設けられ、視察と称して観光も堪能し、刺激的な訪問になったのだが、特に驚くべき出来事があった。
とある商人が主催した昼食会でのこと。昼食会といえども大層な規模で、ディナーパーティー並みに大勢の招待客を抱えており、本来人嫌いの俺をうんざりさせていた。
人。人。人。あんまり人を見過ぎたせいか、人間というより奇妙な生物の群れに飲みこまれているような錯覚がし始める。
しかしその中に、どこかで見たことのある気がする顔があった。40代くらいであろうその貴婦人も俺を意識しているようだ。
誰かに照会しようにも、群衆のおかげで婦人をすぐに見失ってしまった。
諦めて帰り際、ようやく挨拶を切り上げて人心地つける馬車に乗り息をついたところで、コンコンとノックの音がする。
「お疲れのところを恐れ入ります」
頭から薄いショールを羽織って顔を隠した貴婦人は、先ほど気になっていたその人である。俺はすぐ馬車を降りた。
「レノワ子爵家の御子息とか……かつてあの国で暮らしておりました私の耳に懐かしくて、普段こういった席には出ないのですが、今日は思いきって参加したのです。あの国の話も気になりまして」
人目を気にするように一度周囲を窺ってから、婦人はショールを取った。濃く白粉をはたいて作られた美しい顔が露わになる。至近距離で確認するとやはり記憶にある顔だが、今しがたも津波のように人を紹介されまくったばかりで脳みそはパンク状態、古い情報など探索できない。
「申し訳ありませんが、貴女は……?」
「ここでは差し障りがございます」
薄墨色を基調にした上品なショールを肩にかけ直し、婦人の目線はちらりと馬車へ。
「……いいでしょう、どうぞ」
御者にしばらく待つよう合図してから中に乗り込む。もしクリストフがこの場にいたら、なんて無防備な、と眉をつり上げただろうが、俺も全くの無警戒というわけじゃなかった。幼少の頃に叩き込まれた護身術はいつでも発揮の用意ができている。
向かい合って腰を落ち着けると、狭い車内にミステリアスな香料が広がった。
「今でも恐ろしい噂になっているのでしょうか……私はアーフォルグ伯爵家の家内だった者でございます。今は夫と離婚致しまして娘のポーラとこの国にある実家に身を寄せているのですが」
「アーフォルグ伯爵の?」
ということは?例の放火事件の犯人・ポーラ姫の母親なのか?
寝耳に水とはこのこと。事後、彼ら一家の行方なんて知らなかった。
上質の織物をすらりと身にまとう姿は、沈鬱な表情はあれど気品があって洗練されている。
婦人が俺に質問してきたのは、国の様子や、離婚した伯爵のその後についてだった。だが前者はともかく、後者は俺も答えを持ち合わせていない。
そういえばフローネからも同じ質問を受けたことを思い出した。伯爵がどうしているか知りたいと。対価は先払いさせながら、すっかり忘れていたのだ。さすがに良心の呵責が俺の不実を咎めた。
伯爵の情報がなにも得られないと分かると、婦人は無表情に瞳を伏せる。
「そうですか……ただ夫は、いえ伯爵はあの国のどこかに隠遁していると思うのです。もし…………いえ……」
何度も口を開けては閉じ、色を失うほどきつく指を握りしめ、沈黙が長引けば長引くほど婦人は蒼白になっていった。
見かねて俺は口をはさんだ。俺としては婦人を励ますつもりで、「何か伝言があれば承りますが……?」と。
しかし逆に婦人は弾かれたように首を振り、
「私たちのことがもう風化しているのなら、今さら余計なことは致しません。このまま忘れてしまうのが誰にとっても幸せなこと。あなたが何の情報もお持ちではなくて、よかった。伝言など……何もありませんわ」
そう言って再び人目を忍びながら去っていった。
霧のように儚げな後ろ姿は、見送る者の同情を買うかもしれない。
でも。
次の予定へ向けて動き出した馬車の中、貴婦人の残香を吸いながら、俺は割り切れない感情に囚われて混乱した。見慣れない異国の風土、揺れる車内、ただよう香り。すべてが渦を巻いて神経を撹乱させ、この思いがけない出来事をどう処理していいのか俺を惑わす。
確かに放火事件はもう人々の意識から消えている。
このまま埃を積もらせ、永遠に闇に葬ることに誰も異議はないだろう。俺もそれでいいと思っていた。
けれど、フローネの額に火傷の痕は残りつづける。醜く変質してしまった皮膚を前髪で隠して、彼女は伯爵の行方を心配している。
忘れてしまうほうが幸せだなんて、あの婦人が口にすべき言葉じゃない。
そう、俺は、あの事件で負傷した侍女について婦人がついに何の言及もしなかったことが許せなかった。謝罪とまでは言わなくても、「巻き込んでしまった娘さんは良くなったのでしょうか?」と、そんな一言さえあったなら。
個人的な義憤に駆られてその夜はなかなか寝つけなかった。
やっと微睡したと思ったら夢にフローネが出てきて、ふくれっ面で
「何をおっしゃってるんですか。あなただって頼み事をすっぽかしていらしたくせに」
と痛恨の一撃をかましてきた。
「お前だってこの前はべつに催促してこなかっただろ」
幻影に向かって一人で虚しく弁解を繰り広げたことを、翌朝目覚めた時もはっきりと覚えていた俺は、ともかく帰国したらアーフォルグ伯爵の情報を調べようと決意した。
ただ、そう簡単な仕事ではないはずだった。我がレノワ一族とは付き合いがなかったし、迂闊に聞きこむわけにもいかない。上官の手によって記された記録はどこかに保管されていると思うが、俺の目の届く範囲にないことは確実である。俺は帰国の途でも糸口に悩んでいた。
加えて、王都に戻ると滞っていた仕事が山を成して俺を待っていて、私用に割く時間がとれない。
唯一手がかりに近づけそうだったのは、帰国直後に済ませた国王陛下への報告のときだ。陛下ならさすがにアーフォルグ伯爵の現状くらいご存じだろう。一介の文官に国王陛下と話すチャンスは滅多に巡ってこない。
しかし。
「何か土産物はないのか」
と言ったのは国王ではなく脇にいた数名の側近のうちの一人だった。いわゆる重臣として国の中枢を掌握している彼らの中にグラスグリーン侯爵も含まれている。
俺はゆっくりとした動作で荷物から一冊のスケッチブックを取り出す。別にお偉方のために描いたものではなく、趣味の範囲で、異国の風景を写したものだった。絵はまだ素描段階だが雰囲気くらいは伝わる。
「ほう、詩ばかりでなく絵も嗜むのか。万能だな」
国王陛下がふむふむと頷きながらスケッチをめくり、よく描く時間があったなと感心する。昼間は予定が詰まっていたので、ほとんどは寝る前に軽く筆を走らせたと答えると、
「若き才人は芸術が恋人か」
「ご婦人が泣いているぞ」
側近がまた茶々を入れた。笑いに唱和しながらグラスグリーン侯爵が俺を見物している。この鬱陶しい側近連中を前にして暗黙の禁忌に触れるとどんな面倒なことになるだろう。俺は諦めて退出した。
気がつけば詩会から一月、二月と時間が経過していく。その間、俺はフローネに会う顔がなかった。
次までに覚悟しておけと脅迫まがいの言葉を吐いて別れたのだ。怯えた彼女が二度と俺の前に現れない可能性もなくはない。伯爵の情報があれば、それを餌にというわけではないけれども、彼女を呼び出しやすくなると期待していたのだが。そう都合よく物事は進んでくれない。
だからといってあの行動を後悔しているわけではないのだ。おっとりした彼女のペースに合わせていたらいつまで経っても先に進めないこと請け合いである。彼女も俺の強引さは分かっているはずだ。
分かっているはず……と信じているが一片の後ろめたさがなんとも……。
しかしこうなったら仕方ない。舞踏会が近づいてきたある日、俺は腹をくくってクリストフを呼んだ。