第1話
最後の弦の震えがやみ、空気がまた平らになった。
俺はまだ身動きできずに、どこかに音の粒子が残っていないかと耳を澄ますけれど、キャッチしたのは隣のひとの小さな吐息。ちらりと横目で確かめると、ふっくらした頬が月影にも明らかに桃色に染まっている。
「すてきだったわ、エド……」
かわいい娘からの夢見心地の称賛に値するエドの演奏だった。
二人だけの観客にエドはにこりと笑い、迷いなく楽器を片づける。アンコールは受けつけないよとばかりに。そして俺ももちろん、未練を訴えるつもりは毛頭なかった。
「元気でいてね、どこにいても」
娘のほうは寂しげに彼を見つめていた。
俺とエドと娘は、この華やかな社交界のほんの片隅で、ひっそりと友情を育んできたのだ。それにはエドの音楽が欠かせなかった。彼は宮廷オーケストラのメンバーだったのだ。そして今日限りでその肩書きには「元」がつく。
去っていく彼はいつも通りの穏やかな様子である。
「そのうち僕の故郷の地方へ遊びに来てよね。きっと僕は、幸せな顔で迎えると思うからさ」
「エドはいつも幸せそうよ。ね、若子爵様」
同意を求められたので俺は我に返り、ああと頷いた。
明日には出立するというエドは、旅立ちの準備が残っているからと言って、長居をせずに別れを告げた。笑顔のままあっさりと扉の向こうへ踏み出し、「じゃ」と一言を室内に残しただけだった。
バタン……と閉まる音が、また空気に波紋をつくり、やがて消える。
「……行っちゃった」
残された俺と娘は気がぬけてソファにもたれる。
エドの演奏を楽しむ時の常で、部屋は灯りをともしていない。満月がじゅうぶんな光を放っている。先ほど愛らしく色づいていた娘の顔色は、今は沈んでいた。
「こちらへ来いよ」
と一応誘ってみる。来ないだろうと思いながら。彼女は慎ましやかな性格だし、侍女という身分を弁えているからだ。
俺は待たずにさっさと自ら移動した。
窓の外からは今宵の宴のなごりが垣間見える。国王の生誕祭だったのだ。贅をこらして着飾った人びとが、互いの美しさを褒めあって満ち足りた夜を過ごしていることだろう。そんな王侯貴族の常識に逆らうかのように、俺とエドと彼女は、語り合って音楽を聴いて寝息を立てるという、実に清廉な集いをつづけてきたのである。
それに慣れている娘は、急に横へ移ってきた俺に、ちょっと慌てた。
「あ、ええと……」
おろおろしながら、反射的に逃げたくなるのを我慢するように硬直する。
何も肩を抱き寄せるのは今回が初めてではない。二人きりになる機会があれば今までも、軽くからかっては彼女の初々しい反応を楽しんできた。だから俺は今日もたいして遠慮せず、また彼女の心情も斟酌せず、その頭を己の胸に押しつけてやった。
「エドはここにいるよりもっと幸せになるさ。だから悲しむな」
腕に抱いておいて話題は友人のことだ。そうすれば娘の強張った体から多少抵抗がゆるむのを知っているから。
「分かっています、でも何というか……変わらないものなんてないのかなって思うと……」
「ああ、多分ね」
今度の俺の同意には、確信がこもっている。
エドが去ることで、3人で成してきた調和が否応なしに崩れる。微妙な関係にある俺と彼女の間も、何かしらの変化を強要されている。
しかしどこまで彼女はそれを理解しているのだろう、間近にある彼女の表情はただひたすら寂しそうであった。